第57話 離れる心と、近づく心 前編

「――はぁ」

「……」

「――――はぁ」

「…………」

「――――――はぁ」

「………………!!」


「ちょっとお姉ちゃん!」

「え? なに?」

「なに? じゃないよ! やっと起きてきたと思えば、まともに挨拶もしないで私が作ったご飯を前にして、全然食べないで溜息ばっかりつくとか! 折角のクリスマスの日に勘弁してよね!」

「……え? 私そんなに溜息ついてた?」

「……自覚無しとか、マジですか」


 希に指摘されるまで自覚がなかったんだけど、どうやら10時を過ぎても起きてこない私に変わって、希が朝食を作ってくれたらしい。そこにようやく起きてきた私が、希が作った焦げた目玉焼きにフォークを刺したまま、ずっと溜息をついていた……と。


 それは希じゃなくても、怒りますよね。


「ご、ごめんね。いただきます」


 突き立てたままのフォークを口に運ぶ。

 見た目通り、焦げた目玉焼きは苦みがすごかったけど、私はこれ以上希の機嫌を損ねないように、必死に美味しそうに食べた。


「文句なら起きてこなかったお姉ちゃん自信に言ってよね! 私が料理出来ないの知ってるでしょ!」

「……う、ううん。美味しいよ?」

「無理すんなし! それより昨日あれから何かあった? 間宮さんのお見舞いに行っただけなんだよね? もしかして、ライブをドタキャンされたからって、ケンカでもしたの?」

「……あんなにグッタリしてた間宮さん相手にケンカするとか……私そこまで鬼じゃないし」


 この子は私の事をどんな奴だと思ってるんだろうと、ムスッとした顔を向けて否定してやると、希の次の台詞でそんな気持ちが一瞬で消し飛んだ。


「じゃあ、間宮さんに元婚約者がいた事を知って、ショックを受けた……とか?」

「!! 希、ア、アンタ何でそれを……」

「やっぱりね。昨日ライブの後のクリパでさ、神楽優希が言ってた画像をネットで検索かけたんだよ。そしたら、私や結衣さん達はピンとこなかったんだけど、神楽優希と一緒に写っている男が間宮さんだって愛菜さんだけが気付いてさ。それであのMCじゃん? その後、超微妙な空気になっちゃってさぁ」


 茜さんの話によると、画像に写っていた人物が間宮さんだと気付く可能性は低いという事だった。

 だけど、やはり絶対に気が付かないわけではないというわけで。


「そっか、そうなんだ……私は茜さんからその事を訊いたんだけどね」

「ふぅん。それで?」

「それでって?」

「元婚約者がいたってそんなにショックな事? 私にはよく解らないんだけど……。実は彼女がいたとか、奥さんがいたとかなら理解出来るけどさ」

「…………」


 希の疑問を無言で返して、私は食べかけのご飯の皿を持って席を立った。


「御馳走様。ちょっとこれから出掛けてくるね」

「どこ行くの?」

「昨日茜さんに車で送ってもらったから、自転車を間宮さんのマンションに置いてきたんだよ」


 言って、食器を洗い終えた私は自室に戻り、身支度を整えて家を出た。


 自転車を取りに間宮さんのマンションへ歩く途中、色々な事を巡らせた。


 間宮さんってもう29歳なんだし、今まで色々な女の人と付き合ったりしてきたのは、現実的に考えて仕方がないとは思う。

 今まで恋人がいなかった事の方が不自然だし、間宮さんに魅力がないなんてあり得ない事なんだから。

 それに、これまでのそんな経験が今の間宮さんを作ったんだから、寧ろ感謝しないといけないとも思うんだ。


 だから、私が今まで好きになった女の人の中で、一番になればいいと思ってきた。

 だけど……婚約者かぁ。

 間宮さんが結構しようとした人がいて……しかも事故で亡くなってる……とか。


 ようやく気が付けた気がした。

 合宿で再会してから、ずっと感じてた違和感の正体。

 近付こうとすればするほど、あの柔らかい笑顔の前に透明な膜みたいな壁を感じていて、それは今まで自分に自信がなくて飛び込めない自分の心の弱さだと思ってた。

 だけど、それは違った。いや、弱さもあったかもしれないけど、心の弱さとか関係なく、間宮さん自身がこれ以上誰も近づけさせたくないって領域みたいなものを作り出していたんだ。


 つまりそれは、間宮さんがまだその婚約者の事を想っていて、他の人と恋愛する気が無い……て事の証明なんだと思う。


 ――そんなの……私なんかにどうしようもないよ。


 頭の中がマイナス思考でいっぱいになった時、ふと足を止めた先に間宮さんのマンションがあった。

 悶々と考え込んでいるうちに、着いてしまったみたいだ。


 ようやく近付けた気がしたのに、またこのマンションが遠くに感じる。

 行こうと思えば、こうしてすぐに行ける距離なのに、今は凄く遠くに感じる。


(……間宮さん。具合どうだろ)


 昨日は凄く辛そうだった。私も経験あるけど、節々が酷く痛む風邪って相当な高熱じゃないと起こらない症状のはずだ。

 病院で点滴して楽になってきたって言ってたけど、そんな風には見えなかった。


 心配だ……。とか言いつつ、足は全くマンションの方に向いてくれない。

 結局のところ、間宮さんの体調を気にするという事を免罪符にして、単純に間宮さんの顔が見たかっただけなのだ。

 ――でも、昨日茜さんの話を聞いてからは、会いたいはずの間宮さんの顔を見るのが怖い。

 別に嘘をつかれていたとか、騙されていたわけじゃない。

 私と出会う前の間宮さんの事を知っただけ。

 気にする方がおかしいのは分かってる。分かってるけど、過去を知ってずっと気になってた間宮さんの壁の正体を知って、途方もなく遠くに感じてしまった。


 私は一向に足が向かない事を理由に、自転車だけ引き取ってペダルを漕いで、間宮さんのマンションを離れた。


 ◆◇


 何となく真っ直ぐに帰る気がしなかった私は、駅前の本屋に向かってファッション雑誌を立ち読みしてたんだけど、やっぱり間宮さんの事が気になって、まったく頭に入ってこない。

 仕方がないと、受験生らしく前から気になっていた参考書でも買おうかと、本棚を移った。


「あれ?」


 前に見かけた場所を指でなぞって探したんだけど、お目当ての参考書がなかった。

 売れてしまったのかと思ったけど、違う棚を探してみると何故か場所が変わっていた。


 なんだと呟きながら参考書に手を伸ばしたんだけど、あと少しが届かない。


「何でわざわざこんな高い所に移したんだよ……」


 独り言ちて再度挑戦するも、やっぱりあと少しが届かない。

 私はふと同じ列にある子供の絵本コーナーに目を向ける。

 そこには、子供用の踏み台があるからだ。


 ジッと踏み台を見て、私はこう思うのだ。


(……あれを使うのって……なんだか――)


「負けた気がするとか、思ってんだろ」

「――え?」


 参考書の棚の前で懸命に背伸びしながら、踏み台を凝視していた私の思考に割り込む声が聞こえたかと思うと、伸ばし切った私の手を軽く超える高さの手が伸びてきた。

 その手は迷く事無く欲しかった参考書を棚から取り出すと、私の顔の高さで止まった。


 止まった参考書を持っている手の主を恐る恐る目で追った先に、マスクをした間宮さんがいた。

 今、一番会いたくて、でも一番会うと辛いと感じる人が目の前に立っている。

 一気に私の思考がフリーズする。


「これ取ろうとしてたんだろ? ほれっ」

「……あ、ありがと」


 差し出された参考書を受け取って、私はボソボソとお礼を言ったけど、間宮さんの目がまともに見れなくて俯いた。


 何か話さないと不自然だ。それが分かっていても、言葉が全然出てこない。

 それどころか、今すぐにでも逃げ出したいって思ってしまう。

 間宮さんがまだ亡くなった婚約者だった人を想っていて、あの見えない壁を作っていたのだとしたら、私の気持ちは迷惑でしかない。

 そう考えてしまったら、何も言えない。言えるわけがない。

 だって……私は間宮さんを困らせたいわけではないんだから。


「あー、その、なんだ……お粥サンキュな。マジで美味かったよ」


 そんな沈黙を間宮さんが破る。


 後頭部を掻きながら、照れ臭そうにそう言ってくれるのは素直に嬉しい。

 でも今では間宮さんの事が心配で駆け付けた事も、迷惑だったんじゃないかと思ってしまう。

 気を使って言ってくれてるだけなんじゃないかと、疑ってしまう自分が本当に嫌になる。


「ううん。それより具合はもういいの?」

「あぁ、まだ気怠さはあるけど、熱もかなり引いたから散歩がてら夕食の買い出しにな」

「そっか。でも、早く帰って休まないと。私のお粥なんかじゃ全然効果ないんだから」

「何言ってんだ。瑞樹のおかげで一晩でここまで回復したんだぞ? 同僚達にうつしたら悪いから、一応大事をとって今日まで休む事にしたけど、本当に嬉しかったんだからな」


 嬉しかった――その言葉に色んな感情が入り交じって泣きそうになる。


 ライバルが多いのは知ってる。

 藤崎先生やゼミの子にだって好かれてるし、他にも間宮さんの事を好きな人だっていると思ってる。

 もしかしたら、神楽優希だってそうかもしれない。

 でも、間宮さんへの想いは誰にも絶対に負けないって自負があったから、それでも笑っていられたんだ。

 だけど――婚約者には勝てる気がしない。

 だって、間宮さんが一生一緒にいたいって思った人だから……。

 いなくなってしまっても、まだ想っている人なんだから……。

 勝負もさせてくれない相手がライバルなんて……ずるいよ。


「そっか。そう言ってくれたら嬉しいかも……」

「……なぁ、なんかあった? いつもと違くねぇか?」

「……別に何もないよ。あ、ごめん、これから行くとこあるから、そろそろ行くね。これ取ってくれてありがと……じゃあね」

「あ、あぁ。またな」


 間宮さんから逃げるようにレジに向かって精算を済ませた私は、間宮さんを見る事なく店から出た。


 店を出てから、今日がクリスマスだった事を思い出した。

 受験生に盆も正月もないって言うけれど、私の場合はクリスマスもなかったんだな。


 ――せめて、メリークリスマスって言いたかったな。


 ◇◆


 瑞樹が逃げるように店を出て行ってしまって、やっぱりいつもと様子が違うと首を傾げていると、ポケットに入れていたスマホが震えた。

 仕事関係なら出る気がなかったんだけど、着信先を確認したら相手は妹の茜からだった。


 昨日、碌に礼も言えなかったから丁度いいと電話に出たら、茜の開口一番が謝罪の言葉だった。

 意味が分からないと詳しく茜から話を聞くと、どうやら昨晩、瑞樹を送り届ける途中で、神楽優希と一緒にいた男が俺だと話してしまったらしい。

 ライブのMCで優希が画像の事に触れた時、写っている男は事故で亡くなった姉の元婚約者と話したところに、それが俺だと言ってしまえば……。


 なるほどな。それで話が繋がって、俺に婚約者がいた事を知ったってわけか。


「ん? 実はついさっき偶然に瑞樹に会ったんやけど、俺に婚約者がいたのに驚くのは分かるんやけど、いつもと違って様子が変やったぞ? 元気がないっていうか、思いつめてる感じやってなぁ」

『は? 良兄、それマジで言うてるんか!? スッとボケてるんちゃうくて!?』

「とぼけるって、何をやねんな」

『はぁ……あの子も大変やなぁ』

「だから、何がやねん!」

『あぁ……分からんねんやったらええわ! 兎に角謝ったで! 後で文句言うても知らんからな!』

「は? いや、許すなんて一回も言うてないや――」


 プッ!ツーツーツー……。


 俺が話してる最中に、茜は一方的に電話を切ってしまった。


「ったく! 瑞樹といい茜といい……一体なんなんだよ」


 状況が呑み込めずにブツブツとボヤきながら、とりあえず食材の買い出しにスーパーに向かう事にした。


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