第37話 間宮 良介 act 17 ご挨拶
プロポーズしてから数日が過ぎた日曜日。
仕事は休みだったけど、俺は緊張した面持ちでネクタイを締めてスーツの袖を通している。
髪型も品よく纏めて、どうみても休日の恰好には見えないだろう。
「……い、胃が痛い」
実は今日、優香の両親に婚約の挨拶と結婚の許しを得る為に、彼女の実家にお邪魔する事になっている。
優香からあまり親の話を聞いた事がないんだけど、どんな両親なのかは何となく想像出来ている。
きっと躾とかすごく厳しくしてきた親なんだと思っているのだ。
そう予想したのは、普段からの優香を見ていると嫌でも分かるからだ。
常日頃から優香は品がよく、どこに連れて行っても恥ずかしい思いをした事が1度もない。
歩く姿ひとつとっても、未だに見惚れる事があるくらいだ。
勿論、厳しさだけでなくて愛情もたっぷりと注がれて成長してきた事も分かっている。
根拠は、両親の文句や愚痴を1度も聞かされた事がないからだ。
別に隠してるわけではないと、普段の優香を見ていればすぐに分かる事で、御両親にとって優香はまるで孫のように目に入れても痛くない存在なのではないかと思う程だ。
部屋を出て自転車で駅まで向かおうと思ったんだけど、今日は朝から生憎の雨模様で服が汚れていたら失礼だろうと、自転車は諦めて徒歩で駅に向かう事にした。
「……はぁ……何か用か? 暇人」
駅前の広場に到着した俺が漏らした一声がこれだった。
「その恰好……やっぱりマジだったんだな」
雨が降り続ける中、駅前で俺を待ち伏せている男がいたのだ。
そいつとは、かつて優香を取り合った恋敵だった男…優香と同僚である東だった。
東は傘越しでもすぐに分かる程、真剣な表情でそう話しかけてきた。
「何がだよ」
正直、東の相手をしている余裕はないのだと分からせる為に、俺は後頭部を掻いて目線を逸らしながらそう問うと、東の表情が悔しそうに思いつめた顔つきになっていく。
「2日前に彼女から聞かされたんだよ。プロポーズされたって……」
「……そうか」
「それで、今日実家に挨拶に来てくれるって聞いてな……」
「あぁ」
優香と付き合いだしてからも、気になっていた相手だった。
付き合いだしたと知った後は、会社でも優香にモーションをかける事はなくなったと聞いていたけど、東が諦めたわけでなはい事は本人に聞かされていたからだ。
諦めないと聞かされた当初は、正直気持ちの良いものではなかったけど、俺の知らない所で横取りしようとするのではなくて、事あるごとに俺に宣言してから行動を起こす東を見ていて、正直そのエネルギーに圧倒されたものだ。
勿論、優香を他の男に渡すつもりなんて微塵もなかったけど、力づくで東の行動を阻止する気が何故か起こらなかった。
それは罪悪感からくるものなのか、それとも優越感からくるものなのか、他の何かの感情からくるものなのか未だに分からないんだけど。
「今日で最後だ。といっても悪あがき宣言しに来たわけじゃないんだけどな」
東はそう告げると、俺に手を差し伸べてきた。
「負けたよ。まぁ、初めから負けてたんだけど、やっと納得出来た気がするんだ」
婚約してやっと負けを認めるなんて、なんて鈍い奴だと思ったけど……それを言葉にする気が起きない。
「そうか。ついでだから言うけどさ……俺はアンタの事嫌いじゃなかったよ」
これは昔から思っていた事だけど、ずっと本人には言わなかった事だ。だけど、これが最後だというのなら話す気になったのだと、差し出された手をグッと握って胸の内を晒した。
「優香は結婚しても仕事は続けたいって言ってる。俺も無理に家庭に閉じ込める気はないから、今後も良き先輩として優香を頼むよ」
「あぁ、最高の女なのは周知の通りだけど、エンジニアとしても優秀な奴だから辞められても困るんだよ」
言って東は握っている手に力を込めてから握手を解くと、東は何も発する事なく駅の構内に姿を消した。
◆◇
香坂の実家の最寄り駅であるV駅に着いた間宮は、改札を抜けた所で婚約者である香坂の迎えを待っていた。
間宮と香坂は付き合いだして2年になるのだが、お互いの実家に行った事がないのだ。
「良ちゃん!」
降りしきる雨の中、少し息を弾ませた香坂が水玉の傘をさして現れた。その姿は鬱陶しい雨ですら味方につけたように、落ちていく雨粒が香坂の美しさを演出しているように見えた。
「おぉ、雨降ってるのに迎えなんて頼んでごめんな」
「ふふ、全然気にしないで。今日はずっと実家だからね、2人の時間がないから嬉しいよ」
言って香坂は本当に嬉しそうに微笑んだ。
(本当に、なんなんだ……この可愛い生き物は)
「そ、そっか。それもそうだな」
香坂のそんな気持ちは勿論嬉しいのだが、間宮の頭の中は香坂の両親の事でいっぱいだった。
「どうしたの? やっぱり緊張してる……よね?」
「ま、まあな。今日の事考えてたら昨日も殆ど眠れなくてさ…」
逃げるいう選択枠は間宮の中で初めからない。
ないのだが……頭と体の動きが合わなくて、この期に及んで情けない気持ちになった。
手塩にかけて大切に育てた娘を、どこの馬の骨だか分からん奴に持っていかれる立場になったらと、間宮にだって思う所はあるのだ。
本当に俺なんかでいいのかと、頭の中で酷い言い訳を始めだした時、不意に袖をキュッと掴まれる感覚があった。
「……良ちゃん?」
「え? あ、ごめん……」
何時の間にか考え事の内容が、自分でも苛立ってしまう方向に向かっていた事に気付いて平謝りすると、香坂の表情がみるみる不安の色が滲みだした。
「……あのね。嫌なら日を改めていいんだ……よ? 気が進まないのなら婚約も一旦破棄してくれても……」
「な、何でそんな事言うんだよ」
「……だって、今の良ちゃん……凄く辛そうなんだもん……婚約が無くなっちゃうのは寂しいけど、良ちゃんが私との結婚で苦しむのはもっと嫌……だから」
そう言う香坂の目に涙が溜まってくるのを見た間宮は、折角セットした髪をガシガシと掻いた。
(なにやってんだ! 俺は!)
馬鹿な事を考えていた自分に心底腹が立った。
親視点で考えていた事は間違っていないと分かっていても、それは将来の話であって、目の前にいる香坂を泣かせる事じゃないのにと自分に呆れ返った。
間宮は小さく俯いてしまっている香坂をそっと抱き寄せて、考えていた事を正直に話す事にした。
「ごめんな。優香との結婚が辛いわけないよ……只、優香の御両親に申し訳ないって考えちゃってさ」
「ばかっ! そんな事思う必要なんてない……私が選んだ人なら信じるって言ってくれたって言ったじゃない」
抱き寄せたられた香坂は、間宮の胸に顔を埋めて両手を腰に回してギュッと抱きしめた。
「……そうだったな。弱気になって悪かった」
ギュッと抱きしめられた温もりに迷いを払拭された間宮は、今度こそ真っ直ぐに前を向いて歩き出した。
その後は間宮の実家に挨拶に行くのは何時頃がいいかとか、結婚式場選びなどの話になり、さっきまでの悲しそうな顔をしていたのが嘘のように幸せそうに笑う香坂を見て、間宮も目じりが下がる思いだった。
「優香! 危ない!」
話に夢中になっていた香坂の腕を引き寄せた直後、歩道スレスレを猛スピードでバイクが走り去っていった。
「ったく! 雨が降ってるってのに、何てスピードで走ってんだ、あのバイク!」
「ビックリしたぁ! ごめん、ありがとう良ちゃん」
目を見開いて走り去って行くバイクを見つめながら、香坂は咄嗟に腕も引っ張ってくれた間宮に謝った。
「いや、別に優香が悪いわけじゃないから。それにしてもこの通り、交通量多くないか?」
「うん。そんなに大きな道路じゃないんだけど、向こうに通ってる国道がよく渋滞してね。この道路を抜け道に使われる事が多いんだよね」
それが原因で事故が多発していた為、間宮達のすぐ近くに真新しい信号が設置されたのだと香坂から説明を受けた。
「なるほどな。確かに危険だと思うよ」
「そうなんだよね。今はいいけど数年後とか……心配になるっていうかね」
「ん? 数年後に何かあるのか?」
急に歯切れが悪くなった香坂に、間宮は怪訝な顔を見せた。
「だ、だから! 結婚したら……その……いつか子供……とか連れて実家に帰る時、心配でしょ?」
顔を真っ赤にしてそう訴える香坂に、間宮も慌てながらも「そ、そうだな……うん」と納得して頷いた。
2人の子供を意識した時、そう遠い未来の話ではない新しい命を授かる為に、まず香坂の両親に許しを得るのだと改めて気合いを入れ直した間宮だった。
「ただいま」
実家に着いて、香坂がまず先に玄関を開けて中にいるであろう両親にそう声をかけると、パタパタとスリッパの音が奥から聞こえてきた。
「おかえり」
玄関先に姿を現したのは、香坂の母親だった。
「はじめまして、間宮さん」
「はじめまして、優香さんとお付き合いさせて頂いている間宮良介と申します。宜しくお願いします」
「これはご丁寧に。優香の母で
間宮は極力緊張を表にださないように努めて挨拶をすると「こんな所じゃなんだし」と瑠衣に家の中へ案内された。
「はい、失礼します」
娘の香坂と共に玄関を上がりリビングへ通されると、ソファーに座っていた父親が立ち上がった。
「は、はじめまして! 優香さんとお付き合いさせて頂いています、間宮良介と申します。今日はお時間を頂きありがとうございます」
「いらっしゃい、優香の父で
「はい、失礼します」
優香の父親である祐作に勧められた場所に腰を下ろすと、食卓の方から深いいい香りが届いてきた。
(この香りって……)
「あの、失礼ですけど……ブルーマウンテンですか?」
卑しいとは思いつつも、気が付いた時にはもう訊いてしまっていた。
だがそれは仕方がない事だと間宮は思う。
ブレンドした物とは違い、ストレートのブルーマウンテンの豆は大変高価な物で珈琲の旨さで勝負している店で豆を買おうものならグラム2000円もする物もあり、それもNO1と呼ばれる豆ともなると……考えるだけでも恐ろしい値段になっているのだ。
珈琲好きな人間なら憧れの珈琲豆で、さすが珈琲の王様と呼ばれるだけの事はある、まさに絶品の豆なのである。
「ほう、分かるかね」
香りだけで豆を言い当てた間宮に驚いた顔を見せた祐作だったが、そぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。
コポコポといい音と共に届けられた香りを吸い込んだ間宮は、ここが婚約者の実家であり、目の前にその父親がいる事を忘れてしまいそうになる程、リラックスして肩にはいっていた余計な力が抜けていく感覚があった。
「はい、これってストレートですよね? 僕も珈琲が大好きで大きな仕事をやり遂げた時とかに、自分へのご褒美でこの豆を買って帰る事があるんです。凄く高価な豆なのでそんな時でしか飲めないんですけどね……はは」
「ははは、ウチだって似たようなものだよ。普段はブレンドだからね。今日は君がウチに来るって事だったから奮発したんだ」
「あ、ありがとうございます!」
そうやって気を使ってくれる事が、間宮は嬉しかった。
とりあえず、歓迎されていないわけではないと分かったからだ。
「そんなに珈琲っていいかなぁ。良ちゃんと付き合うようになって嗜む位には飲む様になったけど……」
優香がそう言いながら母の瑠衣と共に、いい香りの正体であるホット珈琲とケーキを持ってリビングに入ってきた。
「そうなんだよ、間宮君。ウチは何故か優香だけ紅茶党なんだよ」
「だって良い豆を使ってもミルクと砂糖を沢山入れないと、苦くて飲めないんだもん。あれをブラックで飲むとか意味分かんないよ」
「何時も言ってるだろ? 珈琲は香りが大切なんだからミルクなんて入れから台無しじゃないか!」
「そうだぞ! 良い豆であればある程、ブラックで飲むべきなんだって!」
優香の珈琲の価値観に対して、祐作と間宮が珈琲について熱く解きだした時、祐作の隣に座った瑠衣がコホンと咳払いをしてその話題に割り込んできた。
「あらあら、随分楽しそうねぇ。でも、今日は何の話をする席だったかしらね? お二人さん」
「「あっ」」
間宮と祐作の反応が見事に重なるのを見て、優香と瑠璃が思わず吹き出した。
そういえば、ここは婚約者の実家で両親に婚約の報告を済ませた後、結婚の許しを得る為にお邪魔した事を思いだした間宮は、瑠璃と同様の咳払いをして誤魔化した。
「良介君と呼んでもいいかな?」
「はい! 勿論です」
「娘から会って欲しい人がいると聞かされた時は、正直とうとう来たかと思ったんだ」
「……はい」
「でもね、私は娘の見る目を信じているから……きっと良介君がそうなのだろうと思っている」
「あ、ありがとうございます!」
「だが、2人に1つだけ訊かせて欲しい事があるんだが……」
言って祐作はさっきまでと打って変わり、真剣というか少し怖い位な目つきで、主に正面に座っている間宮に問いかける。
「君は……優香の事をどう思っているのかな?」
意外な質問だなと間宮は少し困惑した顔を見せた。
結婚したいと言ってきた相手に対して、その質問は愚問としか思えなかったからだ。
「今まで生きてきて、これ程大切で愛おしくて……愛した女性はいません。お義父さん、僕は優香さんを愛しています!」
普段なら絶対に言わないし、言えない事……。
勿論、言葉にして伝えるべきだった事はこれまで何度もあった。
だけど……恥ずかしくて言ってやれなかったんだ。
それでも、優香は文句も言わずについてきてくれた。
ならば、ここはハッキリと伝えるべきなんだ。
そう思うと、あれだけ恥ずかしくて言えなかったのに、優香の両親に言っているというのに……不思議と恥ずかしさもなく寧ろ清々しい気分だった。
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