第36話 間宮 良介 act 16 プロポーズ 後編

 カシュッ!と勢いよく缶ビールのプルタブを開ける音をたてて、ゴクゴクッと豪快に喉を鳴らし冷えたビールを流し込みながら、間宮はドスンとソファーに体を預けた。


「今日も疲れましたよっと」


 プロポーズをした翌日、今日はお互いの親に婚約をした事を話そうという事になり、いつもなら一緒にこの部屋に帰ってくる香坂は自宅に真っ直ぐ帰宅した。

 久しぶりに1人になって、この部屋ってこんなに広かったのかと独り言ちて苦笑いを浮かべた。

 静かな部屋には、勢いよく飲んだ缶ビールの炭酸が弾ける音だけが妙に耳の残る。

 少しアルコールが体内に回ったのか、僅かに早くなった鼓動の音も聞こえだして、自分が緊張している事に気付く。


「ふぅ」と軽く息を吐いてポケットからスマホを取り出して、随分とコールしていなかった番号を表示させてタップした。


『もしもし~?』


 2回コールで電話に出たのは、間宮の父親である雅紀だった。


「あぁ、俺や。久しぶりやな」

『ん? 俺? お前まさかオレオレ詐欺やな!? そんなんに騙される程ジジイちゃうぞ! 出直せボケッ!』

「そんなボケはいらんねん! クソ親父!」

『なんやねん! 久しぶりに電話してきたんやから付き合えや! アホ息子! で? 何か用か?』

「あぁ、実はな近い内に紹介したい人がおるねん」

『紹介したい人? なんやその言い方は。まるで婚約者でも連れてくるみたいやんけ』

「だから……そういう事や」

『は!?』

「だから! 婚約者を紹介したいって言うとんねん!」

『はぁ!? お、お前結婚するんか!? そんな相手がおったんかいな!』

「そ、そうや! だから先に相手のご両親に挨拶してから、一緒に帰るから会って欲しいんや」

『そ、そうかぁ……まさかお前にそんな人がおるなんてなぁ。で!? どんな人なんや? ベッピンか!? ベッピンなんか!?』

「他に訊き方あるやろ! 名前は香坂優香っていう……まぁメッチャベッピンな人や!」

『言うたな! これで福笑いみたいな女連れてきたら、遠慮なく笑わせてもらうからな!』

「あほか! そんな事したら親子の縁ぶった切るからな! まぁ、その心配はないやろうけど」

『そりゃ楽しみやんけ! 年はいくつやねん!? 何してはる人なんや!?』

「質問ばっかりやんけ! 年は俺と同い年で仕事は会社はちゃうけど同業のエンジニアしてるはる人でって、もうええやろ! 詳しい事は帰った時に話すから、その時は予定空けてて欲しいんや!」

『それもそうやな! 分かった、オカンには俺から言うとくわ。あ、せや! せめて見た目がどんな子か画像くらい持ってるんやろ? 送ってくれや!』

「はぁ……わかったわかった。電話切ったら送るから宜しく頼むで! ほんじゃな」


 間宮は溜息を吐きながら電話を切ったが、父親の声が喜んでいる事に安堵した。


 電話を切ってからすぐに写メを保存してるフォルダを開いて、雅紀に送る香坂の画像の選別にはいる。

 恥ずかしい思いをするイチャイチャ画像は当然却下で、香坂が1人で写っていて一番美人という事が伝わる画像を、独断と偏見で選んで雅紀のスマホに送った。


 画像を送った直後、雅紀が大興奮でまた電話をかけてきたのは言うまでもなかった。


 ◇◆


 同日、香坂家でも緊張した面持ちの香坂が自室で部屋着に着替えていた。


 仕事を終えて真っ直ぐ帰宅した香坂は、どうやって婚約の事を切り出そうか部屋着に着替えながら考え込んでいると、間宮からトークアプリにメッセージが届いた。

 スマホを立ち上げて内容を確認すると、どうやら間宮の方は親に報告が済んだようで、特に問題がなかったという事だった。

 香坂は反対されなかった事に安堵して、こっちはこれから話すとだけ返信してスマホを置いた。


 こんな時、妹の優希がいてくれたら、もし親と揉めた時の潤滑剤になってくれるかもしれないのだが、優希は現在家を出て一人暮らしをしている。

 事前に連絡出来ていれば帰って来てくれたかもしれなかったが、急すぎて音楽活動を精力的に行っている優希に頼む事が出来なかったのだ。


 ふとアクセサリーを仕舞ってある化粧台の真ん中に置いてあるケースを手に取り、ケースの中に入っている指輪を薬指に通した。それは勿論、昨日間宮から受け取った婚約指輪で香坂は指輪にそっと触れて気持ちを落ち着けると、「よしっ!」と気合いを入れてリビングに降りた。


 父親はまだ帰宅していなかったが、今日は早く帰ってくるはずだと母親から聞いた香坂は、夕食の手伝いをしながらグッと更に気合いを入れる。

 出来た料理を配膳していると、早く帰ると告げていた通り父親が帰宅して、食卓にいる娘の姿を見て嬉しそうな顔を見せた。

 その顔に後ろめたさを感じた香坂は「おかえり」と告げる顔が無意識に引きつってしまっていた。


 久しぶりに妹の優希はいないが、家族揃って食卓を囲めた事が嬉しかったのか、父親は終始ご機嫌だった。


 実は香坂は母親にもまだ婚約の事を話していなかった。

 良く聞く話では、事前に母親に話しておいて父親に話す時に味方になってもらうのが、成功率を上げるコツだと聞いた事がある。

 だが、香坂は何だか父親を罠にかけるようで気が引けたのだ。


「何だか揃って夕食を食べるのは久しぶりねぇ」


 母親がそう言うと、全員で手を合わせて食事を始めた。


 両親はまずビールを一口飲んでから、料理に箸を伸ばす。

 香坂もビールを進められたのだが、大事な話をアルコールの力は借りたくなくて断り、とりあえず話し出すタイミングを探りながら箸を伸ばした。


 優香はいつも通りを装い食事を進めていたのだが、味なんて感じない程に緊張感が凄まじかった。

 いつ切り出せばいいのか、どんな感じで話せばいいのか……そもそも正面に座っている両親は今機嫌が良いのか悪いのか……。

 そんな事ばかり考えているものだから、食事の味が分からなくなるのも無理はなかったのかもしれない。


(なんだろう……今日に限って空気が重い気がする。お父さんが帰ってきた時は嬉しそうにしてたけど、それからは口数が少ないような?)


 そんな空気の中、結局食後の珈琲を淹れようと母親が席を立った時、もう後がないと覚悟を決めた香坂は重い口を開いた。


「お父さん、お母さん。話があるんだけど……いいかな」


 夕食を食べ終えてからテレビを観ていた父親と、席を立ったばかりの母親がそう切り出す娘を見る。


「大事な話なの?」

「……うん」


 母親がそう確認すると、父親はテレビを消して母親は席に戻った。


「で? 大事な話ってなんだ?」


 姿勢よく座り直した父親がそう問いかける。


「う、うん。あ、あのね……」


 そこまで話し始めて言葉が詰まってしまった。

 覚悟を決めたはずなのにと香坂は自分に苛立ちを覚えたのだが、両親は催促する事なく黙って娘が話し出すのを待っている。その空気に耐えきれず香坂は「その前に私が珈琲淹れるね」と席を立った。


 いつもの母の仕事を取る事によって何かを察したのか、母親はクスッと笑みを零した。


 コポコポと落ち着く音がキッチンから食卓に届いてきたかと思うと、家族がいる空間に良い香りが漂う。


 香坂は昔、誰かに聞いた話を思い出す。

 珈琲の香りにはリラックス出来る効果がある成分が含まれていて、珈琲が飲めない人でもその香りを楽しむ為に珈琲を淹れたりする人がいると。

 香坂はどちらかというと紅茶派で、あまり珈琲を好んで飲まなかったのだが、間宮の影響で最近嗜む程度には飲む様になってから、そう教えられた意味を始めて理解出来た気がした。

 香りをゆっくりと吸い込むと、緊張で力が入っていた肩の力が抜けていくのが分かる。


 マグカップに珈琲を注いで両親の前に置いて、香坂は小さく息を吐き呼吸を整えると、真っ直ぐに父の目を見て口を開く。


「会って欲しい人がいます」


 言うと、父親の目が大きく見開かれた。

 だが、2人から何も言葉が返ってくる事はなく、沈黙がリビングを支配する。


 やがて香坂の言葉を飲み込んだ父親が口を開いた。


「優香……その……そういう言い方をするって事は……つまり」

「はい。私はその人と結婚したいと思っています」


 香坂はさっきから自分で自分が気になっていた。

 何故、この話をした時から2人に敬語で話しているんだろうかと……。

 緊張からだろうか、それとも反対されるかもしれない恐れからだろうか――それとも。


 香坂は初めから覚悟はしていた。

 自分で言うのもなんだが、父親は娘を溺愛しているのを小さい頃から感じていたからだ。

 だから、こんな事を話すと父はきっと粗探しを始めるか、問答無用の大反対をするかのどちらかだと予想するのは、目の前にいる父の娘をしてきた香坂には容易だったのだ。

 どちらにせよ応戦したりしないように、我慢して最後まで話を聞き終えてから自分のありのままの気持ちを伝えると決めていた。

 どれだけ反対されても、何度でも話す覚悟は間宮からプロポーズを受けた時から決めていた事なのだ。


 ――だが、香坂の予想に反した返答が返ってきた。


「父さん達に会わせたい人の事を……いいや、優香が好きになった男の事を詳しく教えてくれないか?」


 これは香坂にとって予想外の展開だったが、詳細を聞き届けてから粗探しをするつもりかもしれないと、香坂は慎重に言葉を選びつつも嘘偽りのない間宮良介という男の事を話して聞かせた。


「そうか……それで?」

「……え?」

「優香はその人と結婚して幸せになれるのか? 迷ったりはしていないのか?」

「――はい。私はこの人でないと幸せになれません」


 父親にそう言い切った時、香坂は何故実の親に対して敬語で話していたのか分かった気がした。


 それは多分、自分の決意を伝える為……ここまで育ててくれた両親からの巣立ちを決意したからだと気付いたのだ。

 勿論、感謝はしている。だからこそ甘えが出ないように自分にけじめをつける為に敬語で話しているんだと。


 親にとって子供はいくつになっても子供とよく聞く言葉。

 間違っているとは言わない。

 だが、香坂は子供だという立場をいつまでも使いたくなかったのだ。甘えずに人生の先輩と後輩として、追い越す資格を得る為に……。


「そうか……分かった。会ってやるから連れてきなさい」

「……い、いいんですか?」


 考えられるだけの予防線を考えていた香坂にとって、意外すぎる父の言葉に驚きを隠せなかった。


「あぁ、優香が彼の所に頻繁に通っている事は知っていたからな……そろそろそんな話を持ってくるんじゃないかと覚悟はしていたよ」

「そうよ。優香が良介さんだっけ? 彼とお付き合いを始めた頃はお父さんの機嫌が悪くて宥めるのに苦労したのよ」


 理解のある父を演じたかっただろうが、母親が当時の事を暴露する事によって台無しにしてしまった。


「う、うるさいな! まぁなんだ……優香が選んだ相手なんだ。間違いはないと思ってたさ」

「ふふ、はいはい、そうですね。それじゃその日は御馳走作らないとね。優香も手伝ってね」

「お父さん……お母さん……うん。とびっきりの御馳走を作ます!」


 予想をいい意味で裏切られた展開にやっと思考が追い付いた香坂は、この両親の子として生まれた事を心から感謝した。


「それよりもさっきから気になってたんだが、どうして敬語で話してるんだ」

「あ、これは……その」

「卒業のつもりなのよね? その気持ちは尊重する気持ちもあるけれど、優香がこの家を出て行くまではいつもの私達の娘でいて欲しいかしら」


 そう察してくれる母と、少し寂しそうな顔をしている父の顔がぼやけてよく見えなくなった。

 涙が次から次へと溢れて、ポロポロと流れ落ちていく。


「――ありがとう。お父さん……お母さん」


 香坂が下げていた頭を上げると、父と母も涙を拭っていた。

 そんな両親を見て、香坂はこう思うのだ。


 自分もいつか、この涙を流す日が訪れるのだろう。

 だから、今の両親の顔をしっかり忘れないように目に焼き付けよう。

 同じ涙を自分の子供に流せるようにと。







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