第33話 間宮 良介 act 13 2人きりの部屋で

 彼女の肩がピクっと震えた。

 俺はまだ、少なくともこんな場所で言うつもりのなかった告白は萎む様な台詞を、可能なら聞こえなかったってオチを期待していた。

 だけど彼女の反応を見るにどうやら願いは通じなかったみたいだ。

 見ると、俺の目に映っている優香の目は潤んでいて、頬が上気して赤く染まったいた。


「わ、私……も……良介君が……好き……大好き」


 人が押し込まれた空間の中で、優香は俺の事を好きだと言ってくれた。

 それと同時に背中から押される圧から絶対に彼女を守ると、これまでにない程に力が湧いて来るのを感じた。


 俺の腕の中にいる小さな存在が愛おしい。

 気が遠くなる程の人間が存在する世界で、たった一人そう思える存在と出会える確率ってどれくらいのものなのだろうか。

 控えめに言っても極小だと思える可能性の中、俺達はこうして出会ってお互いの気持ちが通じたんだ。


 柄にもない事を言わせてもらえば――これは運命なんだって言ってもいいのではないだろうかと思う。


 そう思ってしまえば、ここがどんな場所でどんな状況かなんて些細な事のように思えた俺は、ゆっくりと引き寄せられるように近づき――そして、優香の小さく震える唇を塞いでいた。


「……ふ」

「……はぁ」


 時間でいえば2~3秒の淡いキスだったと思う。

 だけど、その僅かな時間に気持ちを込め過ぎたのか、俺達の呼吸が僅かに乱れていた。


「俺と付き合ってくれないか?」

「ふふ、普通、順番が逆だと思うんだけど」

「……悪い。だけどさ――」

「いいよ」

「え?」

「私を良介君の恋人にして下さい」


 嬉しい。いや嬉しいって言葉で済ませるのは無理だと思える程に、俺は天にも昇る気持ちだった。

 もう周囲の乗客達の存在なんて意識の中にいない。

 只々、俺の腕の中にいる優香しか見えなくなってしまった。


 俺の気持ちを優香は最高の返事で受け入れてくれた。

 別に恋人が出来たのが初めてじゃないけど、これ程心が満たされた事はない。


 お互いの気持ちを伝えあった後、俺達は何も話さなくなった。

 俺はこの幸せな気持ちを噛み締めていたからだけど、優香は何を思って言葉を発さないのかは分からない。

 だけど、この無言は決して嫌は感じはなくて、お互いジッと見つめ合っているだけで十分だったんだ。


 やがて優香の最寄り駅であるV駅に到着して、そこで4割程の乗客達が電車を降りていく。

 当然、優香もここで降りてお別れするんだけど……。


「……それじゃ、また明日ね。良介君」


 名残惜しそうに言う彼女がドアに向かおうとしたんだけど、その足が止まりやがて電車のドアが閉まった。

 何故、優香は電車を降りなかったのか……それは、スペースを確保する為に壁に伸ばしていた腕を引っ込めなかったからだ。


「良介君?」


 少し驚いた様子でそう言う優香だったけど、俺が止めた理由は分かっているはずだ。

 だって、腕の中から出ようと思えば簡単に出る事が出来たはずだからだ。

 でもこの場に残ってくれたって事は、俺の気持ちを察してくれたからだと思う。


「もう少し一緒にいたいって思って」

「……うん。私も同じ事思ってた」


 車両の中はすっかり乗客が減って背中に感じていた圧が、影も形もなく消え去っていたのに、俺はまだ壁の間のスペースを維持して優香をその空間に留めておくと、彼女は何も言わずにニッコリと微笑んでくれた。


 やがて俺の最寄り駅に電車が到着してドアが開く。

 優香は俺がどうするのか分かっていたかのように、今度は支えている俺の腕にそっと触れて「降りる?」と尋ねてくる。


 上目使いでそんな事言われたら、男としてというか彼氏としての返答なんて一つしかない。

 俺は黙ったまま静かに頷くと、優香は「ん」と小さく返事を返して手を繋いで電車を降りた。

 それから改札を潜り駐輪所の止めている自転車を取りに行かずに俺達は歩いて自宅のアパートに向かい始めると、ただ手を繋いでいた状態からいつの間にかお互いの指を絡ませる、所謂恋人繋ぎになっていた。


「ここが良介君のアパート?」

「うん。ちょっと古いアパートなんだけど、大学生の時からここに住んでるんだ」

「へぇ、何か可愛いね。壁の色とか」


 そうなのだ。去年までは古びた外壁だったのだが、つい最近大家が何を思ったのか外壁の塗り直しを行った為、築年数のわりには妙に小綺麗に見える佇まいになったのだ。


「散らかってるけど……入って」

「うん。お邪魔します」


 言って優香が俺の部屋にあがってくる。

 この状況でドキドキしない男がいるだろうか。

 激しい競争率に勝利して手に入れた恋人が、初めて一人暮らしの部屋を訪れてきたという事にだ。

 それもついさっき気持ちを受け入れてくれてばかりの女性がだ。


 優香はキョロキョロとした様子を見せずに、俺の案内でリビングに入って来た。


「今、珈琲淹れるから適当に寛いでて」

「お構いなくね」


 言って彼女はスーツの上着を脱いで、静かに床に置いてあったクッションに腰を下ろした。


 キッチンに向かって珈琲を淹れている最中に、リビングにいる彼女を横目で見て違和感を感じた。

 それは、初めて1人暮らしの男の部屋に来たっていうのに、妙に落ち着いているからだ。


 慣れている?

 俺はそんな事を考えてしまった。

 いや、実際慣れているからって何だって言うんだってのは理解してる。

 これは俺の勝手な理想であって、彼女が男の部屋に上がり込むのに慣れているからって、それに嫌悪感を抱くのは間違っている。

 俺は自分の器の小ささに腹が立った。


「割と綺麗にしてあるんだね」

「ん? そう? 物が少ないだけだよ」


 平静を装って対応してるんだけど、さっきから慣れているって馬鹿な考えが頭から離れてくれない。

 俺の方からもう少し一緒にいたいって言い出したんだから、彼女の気分を害する事を言うべきじゃない。


「珈琲しか置いてなくてごめんね」

「ううん、気にしないで」


 言ってマグカップを置くと立ち込める湯気を楽しむように、彼女は静かに香りを吸い込んだ。


「ん~! いい香りだね。私はあまり珈琲って飲まないんだけど、家族が皆珈琲好きでね。香りの違いは分かるつもりなんだけど、もしかして結構いい豆使ってたりする?」

「まぁね。珈琲豆だけは上等な物を使ってるんだよ。といってもブルマンのストレートとかはとても手が出ないけど」

「あはは、あれは高過ぎるよねぇ。それじゃいただくね」


 優香はミルクと砂糖を入れて、彼女は小さく息を吹きかけて一口飲むと、ふぅと息を吐いた。


「うん、美味しいね。優しい味がする」

「口に合って良かったよ」


 なんて他愛のない話をしている時も、やっぱり『あの事』が頭から離れなくて、好きな子が目の前にいるのに嬉しいって思うどころかちょっと引いた目で見てしまっている自分に苛立った。


 そんな時だった。


「あっ! ご、ごめん!」


 突然、優香がマグカップを“ゴトン〟と倒してしまって、小さいテーブルに珈琲零してしまった。

 俺は咄嗟に、まだ十分に熱い珈琲を床に零さないように手で抑えようとした優香の手を止めようと、彼女の手を握った。


 ――震えてる。咄嗟に握った優香の手が小さく震えている事に気付いた。


「すぐ拭く物持ってくるから、優香ちゃんは絶対に触ったら駄目だよ!」

「で、でも!」

「床に零れるなんて構わないから!」


 俺はキッチンから台拭きを手にリビングに戻って、すぐさま零れた珈琲を拭き取っていると何度も「ごめんね」と謝ってくる。


「はは、謝り過ぎでしょ。ホントに気にしないでよ」

「……ごめん」


 言うと膝の上に置いている彼女の手が、今度は目視でも分かるくらい震えていた。


「……もしかして、緊張してる?」

「……え、へへ……。もう大人なんだから、もっとスマートにって頑張ってみたんだけど……男の人の家に行くなんて初めてだったから緊張しちゃって……無理だったみたい」


 大人の女……なるほど、優香はそんな事を意識していたのか。

 そういうのに憧れていたのかもしれないけど、俺にとっては悩みの種にしかなっていなくて本心を知れてホッとした。


「……優香ちゃんがそんな子じゃなくて、良かったよ」

「……え?」

「ん~、さっきまで男の部屋に来るのって慣れてんのかなって、悶々としてたんだよね」

「……そっか。カッコつけなくて良かったのか……」

「うん。ホントの優香ちゃんが知りたいから、俺の前では無理とかしないでくれたら嬉しい」

「だね……似合わない事しちゃったね」


 そう話すと、部屋に入ってから初めての沈黙が生まれた。

 正直、この沈黙が初めにくると思ってたから、ちょっと笑いそうになったのは内緒だ。

 俺達は付き合う事になった。

 そして、この時間に俺の部屋に来てくれたって事は、この後どうするのかは決まっている。だけど、その前にずっと話したかった事があるから、俺が先にこの沈黙を破ったんだ。


「ねぇ、優香ちゃん」

「ひゃ、はい!」


 言うと優香は肩だけでなく、お尻まで浮きそうな勢いで飛び跳ねた。

 思っていた以上に無理していたみたいだ。


「あのさ……前々から謝らないいといけない事があるんだけど」

「え? え!? もしかして私って2号とか!?」

「は? そんなわけないでしょ!」


 本気で言ってるんだろうか……。


「なぁんだ。友達がそんな目に合ったって聞いた事があるから……はぁ、良かったよ」


(ありえないでしょ!)


「そんな事じゃなくてさ。お互いの連絡先を交換してから帰る時間を合わせてた時あったでしょ?」

「あぁ、うん、あったね。それがどうかしたの?」

「その前でも結構は確率で電車が一緒になったりしてたよね?」

「うん。偶然だったけど、嬉しかったよ」

「それが偶然じゃなくてさ……実は俺が時間を逆算して一緒になるようにしてたんだよ」

「……え?」

「何だかストーカーみたいな事してるなって自覚はあったんだけど、どうしても会いたくて……気持ち悪いよな」

「……うん。気持ち悪いね」

「……だよな」


 言う必要なんてないのは分かってる。

 折角付き合えたのに、いきなり幻滅させるとか馬鹿だと思う。

 だけど、こんな些細な事でも東の気持ちを考えたら無視は出来なかったんだ。


 ……さて、どうやったら許してもらえるだろうか。


「んふっ、クックックッ……あはははっ!」

「いや、気分を悪くさせたって自覚はあるけど、そこまで大笑いして馬鹿にする事ないんじゃないの?」

「んふふふっ、ち、違うの! ば、馬鹿にしたんじゃないんだよ! んふふふ!」


 何だってんだよ!そこまで笑われたら謝る気も失せてくるってもんだぞ。


「いや、その……ね。私も……同じだったから」

「……え?」

「だから……私も良介君に会えないかなって、意味ないかもって思ったんだけど、帰る時間意識してたん……だよ」


 何だこの可愛い生き物は……。


 こんな可愛い子が俺の彼女になってくれたんだ。


 ――で、この子が今、俺の部屋にいる――いいんだ……よな。


 優香との駅はそれほど離れているわけじゃないから、まだ電車があるといえばある。

 だけど、もうこのまま帰したくないって思ってしまっているわけで……。


「あ、あのさ……その、このまま……さ。と、泊まっていかないか?」

「あ、えっと……ん?」


 優香が何か言おうとした時、彼女のスマホが震えた。

 俺は流行る気持ちを押させて「どうぞ」と電話に出るように促すと「ごめんね」と優香はスマホを耳に当てた。


「もしもし?」

「あー、うん。えっとね」


 電話の途中で優香が俺をチラリと見て何だろうと首を傾げた時、彼女の次に言葉に俺は目を見開いた。


「連絡遅くなってごめん。同期達と飲んでて遅くなったから、一人暮らししてる子の家に泊めてもらう事になったんだ」


(え?それって)


「うん、うん。だから朝に一度帰って着替えてから会社に行くよ」

「……うん。それじゃ、おやすみ」


 電話が終わりまたこの部屋に音のない時間が生まれた。

 いや、正確には時計の針の音や、冷蔵所のファンの音とか生活音はあったと思うんだけど、俺の耳にはそれらの音が聞こえなかった。


「……えっと、今ので返事になってる?」


 やっぱり誘いの返事だったのか。


「うん。その……ありがとう」

「ふふっ、そこでお礼っていうのは変な感じがするね」

「だな、ははは」


 言って、また静寂が部屋を支配する。

 もうこれから起こる事は俺の願望でもなく実現する事であって、俺がしっかりエスコートする場面なんだけど……。


「そ、そのさ。えっと、泊まってって言ったけど、付き合ってるって言ってもついさっき始まったばかりなわけだし……だから無理する必要はないからね」


 情けない。ここまでの状況を受け入れてくれた彼女にエスコートするどころか、土壇場でヒヨる事しか言えない自分に腹が立つ。


 苛立つ俺の目の前にいる彼女が、突然白くて綺麗な両指を床に付けてこう言うのだ。


「不束者ですが、宜しくお願いします」


 もう嬉しいやら情けないやらで頭がグチャグチャになった。

 だけど、もうこれ以上優香の優しさに甘えるわけにはいかない。





















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