第30話 間宮 良介 act 10 新人研修セミナー
香坂との初デートから数日が経ったある日の朝。
間宮はいつもより1時間早い時間から、電車に揺られながら車内を見渡して以前、香坂が言っていた事を思いだす。
(確かに一時間早めるだけで、電車の中が別世界だ)
いつもの満員電車の中で格闘してる車内とは別物で、乗客と肩が当たるどころか空いているシートがある程、この時間の電車は快適そのものだったのだ。
だが間宮はわざわざその事を確認する為に、この時間の電車に乗っているわけではない。
今日は新卒者対象の研修会が行われる為、間宮は会社に向かわずに研修会が行われる施設を目指していたのだ。
この研修会はIT関連の組合が行っているセミナーで、関東全般を対象に実施されている。
だから当日は各方面からの新卒者が集まる為、会場はかなり混雑するのだと、事前に教育係の先輩から聞いていたのだ。
以前はその先輩に良く思われていなかった事は自覚していた。
実際、腐っていたのだから印象が良いわけがなく自業自得なのだが、香坂にエンジニアにとって営業の経験は財産になると説かれた日から、仕事に取り組む姿勢を180度変えてからは先輩達から熱心な指導を受ける事が出来ていた。
勿論その事は大変有難かったのだが、おかげで香坂と帰宅時間を合わせるのが困難になってしまい、遅い時間に迷惑なのではとトークアプリでの連絡もせずに時間だけが経過していた。
(優香ちゃんどうしてるかな)
これから新人にとって大切なセミナーに参加するのだというのに、間宮の頭の中は香坂の事でいっぱいになっていた。
会場に到着した間宮は先に受付だけを済ませて、まだ到着していない同期達を待つ為に缶珈琲を手に持って中庭にあるベンチに腰掛けた。
手持ち無沙汰になった間宮はベンチに座ってから、受付で手渡された資料に目線を落とし今日行われるセミナーの予習を始めると、すぐ目の前から気配を感じた。
目線を資料から外すと、まず黒のパンプスが目に入った。
それからゆっくりと目線を上げていくと、パンプスから黒いストッキングが伸びて、その先に膝元からタイトスカートの生地が見えた。
ここまでくると、目の前に立っているのが女性だと分かった間宮は同期の誰かが俺を見付けたのだろうと思いながら、上げていた目線を一気に見上げる高さまで持ちあげた時、女性の方から声をかけられた。
「おはよう、良介君。やっぱり君を参加してたんだね」
ずっと訊きたかった声と共に、朝の爽やかな風が忘れられない香りを間宮の鼻孔に届けられた。
「優香ちゃん!」
目の前に現れたのが女性が香坂だと気付いた間宮は、勢いよくベンチから立ち上がり香坂の名を呼ぶ。
「ふふ、お互い同業の一年生だもんね。会えると思ってたよ」
嬉しそうにそう話す香坂の後方から、同僚と思われる数人の男女が近付いて来るのが見えた。
「なになに? 香坂さんの知り合い?」
「えっと、うん。良す……け、じゃなくて、ウチの会社の隣駅にあるREGZAの間宮君」
香坂がいつもの癖で名前呼びで同僚達に紹介しそうになったのを見て、何だか照れ臭くなった間宮だったが、ここは香坂の知り合いとして恥ずかしくない対応をしようと襟を正した。
「はじめまして、株式会社REGZAの間宮といいます。優……香坂さんにはいつもお世話になっています」
キチンと締まった挨拶をしようとしたのだが、香坂に続いて同じミスを犯しかけた間宮だった。
「あ! 同じく同期の古賀です!」
「俺、須郷って言います!」
「俺は間宮の無二の親友で、松崎って言います! よろしくね!」
「うおっ! お前らいつの間に!」
自己紹介を終えた間宮の後方から、どこから湧いて出てきたのか同期達がいきなり割り込んできた。
「あはは、宜しくお願いします」
そんな同期達の乱入をきっかけに、お互いの名刺交換が始まると、遅れてきた間宮の同期の女性陣も合流した。
「はじめまして、香坂と申します」
「松崎です。はじめまして」
香坂と松崎が名刺交換を済ませると、受け取った名刺を松崎は首を傾げながら凝視する。
「ん? 香坂……優香……さん?」
「え? あ、はい。そうですけど……なにか?」
香坂は自分の名前を読み上げる松崎に、不安気な声を出すと……。
「そっか! 君が優香ちゃんか!」
「え?」
(ヤバい!あの野郎!)
名刺交換を終えた間宮が偶々2人の近くにいた為、松崎達の会話が耳に入る。
「間宮から色々聞いてるよ。もうアイツ君にぞっこ――ムグッ!?」
急いで2人に駆け寄った間宮は、爆弾を投下しようとした松崎を羽交い絞めにしながら口を塞いだ。
「何考えてんだよ! オマエ!」
松崎の耳元に顔を近付け香坂に聞こえない声量で抗議する間宮の前に「いやいや、早速他社との交流とは感心だね」東が現れた。
東の姿を確認した間宮は、羽交い絞めにしていた松崎を開放して襟を正す。
「おはようございます、東さん」
「おはよ、間宮君。この前は珈琲ありがとね」
「……あれ? お二人ってそんな感じでしたっけ?」
あの電車の中での睨み合いのイメージしかもたない香坂にとって、今の2人の雰囲気を不思議に感じたのだろう。
「ん? あぁ、前にちょっとね。なっ間宮君?」
東は目線をチラリと間宮に向けて、含み笑いを浮かべた。
その視線を逸らす様に一旦空を見上げた間宮はニヤリと戦闘モードのスイッチを入れる。
間宮と東は決して友好関係を結んだわけではない。
何をどうしたって、同じ女性を好きになったライバルなのは変らないのだ。
「それはそうと東さん。今日は新人セミナーのはずですよね? せ・ん・ぱ・い?」
何でお前もここにいるんだと棘のある……いや、棘しかない言い方で尋ねる。
「フッ、ウチの大切な新戦力を勝手に行ってこいなんて可哀想だろ? だから毎年引率者が同行する事になっていてね。今年は俺の番ってわけだ」
勝ち誇るようにそう話す東の顔に、間宮が苛立ちを隠さない。
「どうでもいいですけど、キャラブレ過ぎじゃないですか?」
「ほほう、ライバルにアドバイスとは……それは余裕かな?」
「ん? ライバルって何か勝負でもしてるんですか?」
香坂は2人が話してる意味が理解出来なかったが、ライバルという単語で何か勝負事をしていると言う事だけは、分かったようだった。
「ああ、実はね。この間宮君と――」
「あ! そろそろセミナーが始まるみたいですよ! 引率者が同行してるのに大事な新戦力を遅刻させるつもりですか!?」
今度は東が爆弾を投下するように口を滑らそうとした時、投下を阻止しようと間宮はわざとらしく声を張り上げて、引率者である東を挑発するように会場に向かえよと話す。
「クックッ……。まだ少し早いけど、確かに引率者がいる会社の新人が遅刻するわけにはいかないよね」
腕時計で時間を確認した東は、間宮に背を向けて香坂を含む新人達に会場に向かうように促しながら、隣にいた香坂の背中を押して会場に向かおうとした。
「さ、優香ちゃんも行こうか」
「え? あ、えぇ……」
香坂も背中に当てられた東の手が気になったらしく困ったような仕草を見せたが、東は一切気にした素振りを見せない。
(あの野郎……わざとやってやがるな)
更に苛立つ間宮に東はニヤリと笑みを向けてくる。
「あ、りょう……間宮君、またね!」
言って東に急かされるように会場に入ってしまった。
何も言えなかった間宮は露骨に東に敵意を表すと、松崎が肩にポンと手を置いた。
「中々癖の強いライバルみたいじゃん」
「――――」
「ま、頑張れや」
「わーってるよ!」
投げやりな返事を返した間宮も同期達と会場に向かった。
◆◇
PM16時
朝からみっちりとセミナーを受けた受講者達が一斉に会場から出てくる。
間宮達も仕事してる方がマシだなと愚痴を零しながら中庭に出て、自販機で飲み物を買ってベンチに腰を下ろした。
「なぁ! 折角同期がこうして集まってるんだしさ、このまま飲みにいかね?」
「おっ! いいじゃん!」
疲れを吹き飛ばそうと、同期達のテンションが一気に跳ね上がっていく。
「間宮も行くだろ!?」
松崎が首をゴキゴキと鳴らしながらそう言ってきたが、間宮は少し申し訳なさそうな表情で首を左右に振る。
「悪いんだけど、今日は帰るよ」
「は!? なんで!?」
「帰ってセミナーのレポートを纏めたいんだ。会社にまだやらないといけない事溜め込んでてさ、その上レポートとかキツイからさ」
折角の飲み会を断った間宮の理由に、またゴキっと首を鳴らした松崎は不思議そうに顔を覗き込んだ。
「なぁ、前から気になってたんだけどさ。急に仕事に打ち込みだしたけど、何かあったんか?」
あれだけモチベーション低く先輩達の反感を買っていた間宮の事をよく知る松崎にとって、ここ最近の変貌ぶりを不思議に思うのは当然だった。
「ん~まあな。詳しい話は割愛するけど、今やってる事だっていつかは財産になるって考えるようになったんだ」
松崎に話した事は嘘ではない。
ただ、もっと大きな理由があるのだが、それは誰にも話す気がないだけだ。
「ほ~ん……ま、いいんじゃね?」
素っ気ない反応を見せた松崎だったが、間宮にはその反応で十分だった。
松崎は本当に理解した時、いつも素っ気ない返事をするのだ。
その事をよく知ってる間宮は、心からエールを送ってくれているのと同義だと嬉しそうに笑みを零した。
「おう! だから悪いんだけど、今日は帰るわ」
「ん、分かった。あいつらには適当に話しとくから気にすんな。お疲れさん」
「おつかれ、またな」
松崎は間宮から離れて他の同期達も元に向かい一言二言話した後、間宮に軽く手を挙げてそのまま同期達はワイワイと飲みに向かったようだ。
間宮は同期達の背中を見送った後、残った缶コーヒーを一気に飲み干してベンチから立ち上がり、グッと体を伸ばす。
「っし! んじゃ帰るか」
空き缶をクズカゴに放り込んだ間宮は、鞄をかけ直して駅に向かうとした時の事だ。
「良介君! お疲れ様!」
間宮の後方にある会場から元気な声が聞こえてくる。
振り返る前から、声の主が誰なのかなんて分かって心が躍る思いだったが、努めて冷静に振り返った。
予想通り声をかけたのは香坂で、まだ施設の出入り口に東達がいるのにお構いなしに駆け寄ってきていた。
「おつかれ、優香ちゃん」
「うん! 思ったよりガッツリセミナーだったねぇ。少しはサボれるかもって思ってたんだけどなぁ」
「ははっ、俺もそう思ってたんだけど、当てが外れたよな」
「あれ? 良介君の同期さん達は?」
「あぁ、憂さ晴らしに飲みに行ったよ。俺は何となく気が乗らなくて断ったんだ」
「ふ~ん。でもいいの? 可愛い子がいたと思うんだけど」
「何言ってんの。興味ないって」
俺は君にしか興味がないのだと言えたら、どんなにスッキリするだろうと間宮は苦笑いを浮かべた。
「そうなんだ……じゃあさ!――」
「それは駄目だよ、優香ちゃん」
香坂が何か言おうとした時、背中越しから東がそう声をかけてきた。
香坂が間宮の元に一直線に向かうのを見て、東も他の同期を待機させて駆けつけたようだ。
「えっ?」
東に突然会話を遮られた香坂は、少し声のトーンを落として振り返る。
「これから皆で親睦会だろう? もう店には人数分の予約を入れてあるんだからさ」
「……あ」
香坂は親睦会がある事を忘れていたのか、力ない反応を見せた。
「それじゃ、またね。優香ちゃん」
言って、間宮は香坂の元を離れながら小さく手を挙げた。
「……う、うん。またね、良介君」
東が傍にいるというのに、香坂は隠そうともせずに『間宮君』ではなく『良介君』と呼んだ。
それだけ気が回らない程、香坂は気落ちしてしまったのだろう。
その事に触れなかったが、想像以上に2人の関係が近いものになっていると痛感した東は「行こうか」と強引に香坂の肩に触れて、他の同期達が待っている場所に誘導しようとした時だった。
「――セクハラです」
「へ?」
香坂は触れられた肩を睨むように、そう東に告げたのだ。
「い、いや! これはそんなつもりじゃなくて!」
慌てて肩に触れていた手を離した東はそう弁解したのだが、香坂の抗議は止まらない。
「そんな言い訳が罷り通ったら、泣き寝入りする女の子が後を絶たなくなりますよ……」
勿論、東がそんなつもりではない事は理解していたのだが、香坂は咄嗟にこの状況を利用しようと試みようとしていた。
「ほ、本当に誤解なんだよ。でも、不快な思いをさせてしまったのなら謝るよ」
最近思った事。
それは東が最初に抱いていた印象と違っていた事。
最初は芝居かと疑っていた香坂だったが、強引で自意識過剰な方が芝居なんじゃないかと考えていた。
それを考慮すると、今からやろうとしている事に罪悪感が無いわけでない香坂だったが、ここは自分の望む事を優先しようと心を鬼にする。
「ホントですよ! でも……すぐに謝ってくれたので、私からのお願いをきいてくれから、この事は忘れますので聞いてくれますか?」
「あ、あぁ! 何でも言ってくれていい! 二次会、いや三次会だって俺が奢るし、何か欲しい物とかあったらプレゼントするよ?」
東はこの場を収める為に、自分は無実だという気持ちを押し殺して香坂の望む事に応えると約束した。
「……せて下さい」
「え? なに?」
「親睦会を欠席して帰らせて下さい!」
「え? いや……だって、それは」
東は施設前で待機する新人達の方に、香坂の視線を誘導する動きを見せた。
「分かってます。でも、定時時間はもう過ぎてるんですから、強制は出来ませんよね?」
「た、確かにそうだけ……ど」
「空気を悪くしてしまう事は謝ります。後で皆には私から謝るので、お願いします!」
間宮の姿はもう見えなくなっていた。
だが、この条件を了承すると香坂はすぐに間宮を追いかけるだろう。東にもそれは想像に難しい事ではなかった。
今、間宮の元に行かせてしまうと、取り返しのつかない事になる……東はそう感じていたのだ。
だが、この条件を飲まないと最悪の場合、社会的地位を失う恐れがあるのも事実で、顔を歪めた東だったがやがて観念するように溜息を吐いた。
「――かった……よ」
「はい?」
「だから分かったって言ってんの! 親睦会には参加しなくていいから、さっさと帰ればいいよ!」
苦渋の決断の末、帰れと間宮が立ち去った方を指さした。
少し乱暴ないい方だったが、香坂にとってそんな事はどうでもいい事で、帰っていいと言質を取れた事にパァッと明るい表情を取り戻す。
「ありがとうございます! それじゃお先に失礼します!」
東に迷惑をかけた事を素直に謝罪して、間宮が立ち去った方に体を向けた。
「それじゃ、また明日から宜しくお願いします。先輩!」
言って、香坂は満面の笑みを東に見せた後、迷いなく駆けだした。
「ったく! そんな笑顔見せられたら、何にも云えないじゃん……可愛いなぁ……ちくしょう!」
東のその言葉は、まるでこれから2人に何が起こるのか分かった風で、事実上敗北を予感させる言葉になったのだった。
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