第21話 間宮 良介 act 1 ~2人の出会い~
あれは6年前の事だ。
社会人1年生の俺は、試練という名の出勤ラッシュの大波に揉まれている。
電車の中は文字通りすし詰め状態で、蒸れた空気でネクタイを締めている襟元から汗が噴き出て気持ち悪いなんてものじゃない。
このラッシュに慣れる日なんて来る気がしないと、溜息をつく毎日を過ごしていた。
そんなある朝の出来事だった。
このラッシュに抗う方法を思い付いたのだ。
それは電車に乗り込む順番を後ろの方に並ぶようにして、ドア付近に詰め込まれるようにする。
そうすると、必然的にドア付近の壁際に追いやられるのだ。
人が相手だと出来ないけど、壁相手なら腕を立てて自分の前に空間を作る事が可能だ。
サンドイッチで電車の揺られると、踏ん張りがきかなくてどうしようもないけど、これなら背中からの圧力に耐える事が出来る。
その空間が暑さ対策にも一役買ってくれて、出勤前に削られる体力の消費を抑える事も出来るから、まさに一石二鳥というわけだ。
そんな対策が功を奏して、以前に比べて快適とは言えないが楽になった出勤時のラッシュ。とはいえ、これはあくまで中高大まで続けていたバスケのおかげで、鍛えた体があるからこそだと思う。
今日も今日とていつものように壁際をキープ出来た俺は、壁に肘を当てて空間を作り、蒸し暑さを逃がしていた。
他の乗客達から向けられる圧力と戦って、会社がある最寄り駅まで丁度真ん中に差し掛かった時だ。
到着した駅に降りる乗客はなく、逆に次の客達が乗り込んできた。
俺は咄嗟に流されないように、踏ん張り壁際をキープする事は出来たけど、乗り込んできた客が原因で益々圧力が酷くなった。
少し寝坊して比較的楽になるはずの車両に乗り込めなかったのが、ここにきて響いてきた。
(くそ! 絶対に負けるかよ!)
俺は壁に当てている両肘に更に力を込めて、絶対に潰されないぞと気合いを入れ直した時、誰かが必死に作っているスペースに潜り込んできたのに気付く。
あまりのスムーズさに呆気にとられた。
「ちょっ!」
潜り込んできた客に文句を言おうと、腕の中にいる客に視線を落とすと、そこには華奢な女性がいた。
「お邪魔します」
それだけ告げて、その女性は苦笑いを浮かべている。
その自然さに口から出かかっていた文句が、自然と引っ込んでしまった。
そう告げた女性は鞄を両手で抱きかかえて、極力俺が作っているスペースからはみ出さないように努めているようだった。
そんな見ず知らずの彼女が可愛らしい小動物のように見えて、そんな佇まいの彼女に文句などいえるはずもない俺は、フッと短く息を吐いて再び壁に押し当てている両肘に意識をむけた。
しばらくその状態で電車が進んで行く。
あと3駅で降りる駅という所まで進んだところで、ずっと腕の中にスッポリと収まっている女性に視線を向けると、向こうも俺を見上げていたらしくバチっと目があった。
すると女性は小さな声で「頑張って」と声援を送ってきた。
見ず知らずの女性からのエール。
そんな意味不明なエールに吹き出しそうになる。
そんな時だ。降りる駅まで後2駅まできたんだけど、そこでまた数名乗り込んで……いや押し込まれてきた。
もはや、客扱いされていると思えない。
まるで荷物を押し込むように。
またもその乗客の流れに逆らって壁際をキープ出来たけど、更に圧が強くなり俺はとうとう肘で踏ん張る事が出来なくなって、彼女の方に倒れ込みそうになった。
「わっ! わっ!」
腕の中にいた彼女の慌てた声が聞こえた。
俺は腕の中に女性を押し潰すまいと、肘だけじゃなく片膝も壁にドンと突き立てて、何とかギリギリの所で踏ん張る事が出来た。
だけど、元々の半分のスペースになってしまって、腕の中の彼女との距離が極端に縮まってしまった。
目の前に彼女の顔があって、お互いの息がかかりそうな距離になった。
彼女は怖かったのか目をギュッと閉じてたけど、自分に俺達の重みが掛からなかった事に気付いて、恐る恐る目を開く。
俺の目と彼女の大きな目が至近距離で合うと、お互い凄い勢いで顔ごと目を逸らした。
腕の中の彼女から、女性特有のいい香りが鼻を擽る。
その香りに気が遠くなりそうな意識を必死で持ち直して、俺はこの女性がどこまで乗るのか気にしながら、残りのスペース確保に力を尽くした。
すると、俺が降りる駅の1つ手前の駅に電車が到着した時、ずっと小さく縮こまっていた彼女が開いたドアを見る。
この駅周辺も、俺が降りる駅の周辺同様オフィス街があるからか、乗っていた乗客の4割がこの駅で降りようとずっと停滞していた流れが動き出した。
客が降りるにつれ、体に掛かっていた圧力が弱まっていく。
その体が軽くなっていく感覚が少し残念に感じながらも、俺は女性との距離を取った。
すると、出口までの通路が出来た事を確認した女性は、再び俺の方に顔を向けて素早く鞄から取り出したハンカチを俺の額にそっと当ててきた。
「え? ちょ!?」
咄嗟に声を出そうとしたんだけど、驚きが上回ってまともに声が出せなかった。
彼女はお構いなしに、ハンカチを俺の顔を滑らせていく。
そこで長時間圧力と格闘していて汗だくになっていた事に気付いて、急に恥ずかしくなった。
だけど、俺はそんな彼女の行動に反発する気になれずに、只々大人しく汗を拭われていると、電車が発車するベルが鳴り響いた。
女性はその音と同時に手に持っていたハンカチを俺のスーツのポケットに仕舞い込んでポンポンとポケットを叩く。
その仕草が可愛らしくて、硬直していた意識を胸元にいる女性に向けて「あ、ありがとう」と掠れそうな声で礼を言うと、女性はクスッと笑みを零しながら、首を小さく左右に振る。
「お礼を言うのは私の方だよ。ありがとう、凄く助かっちゃった」
耳元で囁く様に言われたその声は、恐らく俺が今まで生きてきた中でどんな声より耳に馴染み心を躍らせる声色だった。
俺は情けない程に赤面していた顔を隠す為に、そう話す彼女から視線を外して俯いた。
彼女はそんな俺にまたクスッと笑みを零す声を残して、ドアが閉まってしまう直前に電車から降りて行った。
電車を降りた彼女は電車の先頭車両を目指す方向に歩き出していて、俺は自然と彼女を目で追っていた。
やがて電車が動き出して、あっという間に彼女を追い越していく。
俺は彼女の姿が完全に見えなくなるまで、必死に目で追っている事に気付いた時、周りの乗客達の視線に気付いて急激に恥ずかしくなりまた俯いた。
ポケットに仕舞われたハンカチをゆっくり取り出すと、そのハンカチは淵に綺麗な刺繍が入っていて、とても上品なハンカチだった。
こんな綺麗なハンカチで俺の汗を拭わせってしまった事を申し訳なくなった。
暫くハンカチを掌に乗せて眺めていると、さっきまで自分の腕の中にいた彼女の事を思い出す。
恐らくだが、俺と同じ社会人で年は俺と同じ位だと思う。
黒のリクルートスーツに膝上まであるスカートから、綺麗な足が伸びていた。
清楚な雰囲気を醸し出している顔つきに、背中まで伸ばしている綺麗な漆黒の髪が印象的だった。
ただ清楚な雰囲気がある人なのに、避難の為とはいえ見ず知らずの男の腕に潜り込むとか……そのギャップが逆にミステリアスで興味をそそられる。
俺は彼女の事が気になって仕方がなかった。
初対面で、しかも通勤時の電車で居合わせただけの女性に興味を引くとか、我ながら気持ち悪いなと思いつつも俺は考える事を止める事が出来なかった。
また会えたりするんだろうか。
もし会う事が出来たら、必ず訊きたい事がある。
――彼女の名前が知りたい。
ハンカチを眺めながらそんな願望を抱いていると、車内放送で次の到着駅の案内が流れて、俺は自分の耳を疑った。
「え!? それってO駅過ぎてるじゃん!」
慌てて腕時計を見ると、次の駅で乗り換えても絶対に間に合わない現実に、俺は思わず大きな溜息をついた。
(とにかく、急いで戻らないと!)
電車のドアが開くの同時に飛び降りて、全速力で階段を駆け上がり下り線のホームを目指した。
ホームに着いた俺は電車が到着するまでの間、会社にどう言い訳するか考えたんだけど、元々こういう事が苦手な質でいい言い訳が思いつかない。
そんな窮地に半ば諦めた俺だったけど、何故か落胆する気分じゃなくて、「はは」と笑いが零れた。
結局会社には電話を入れずに遅刻して出勤したものだから、上司や先輩達に新人の分際で弛んでる!とこっ酷く怒られたのは言うまでもない。
――これが、俺と彼女、
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