第6話 突然の終戦

 澄んだ声に間宮と松崎が足を止めて振り返ると、そこには恐らく仕事帰りと思われるスーツ姿の藤崎がいた。


 間宮が藤崎とこうして顔を合わせるのは、2人でsceneで酒を飲んだ帰りに突然のゲリラ豪雨に降られて、藤崎の部屋で雨宿りをした日以来だった。


 あれから何度か仕事で天谷のゼミに訪れる事があったのだが、間宮はあんな事があったのでは顔を合わせ辛いだろうと、意識的に藤崎に会わないように立ち回っていた。


 藤崎が現れて間宮の雰囲気が変わった事に気付いた松崎はニヤリと笑みを浮かべて、間宮の肩にポンと手を置く。


「ふ~ん。マジで俺狙いなんかとビビったけど、安心したわ」

「は?」

「とりあえずお邪魔な俺は撤収するわ。藤崎先生もまたね!」


 言って右手をブンブンと元気よく振りながら、小走りで駅に向かった松崎に「お、おい!」と呼び止めようとした間宮だったが、松崎の足は止まる事なく駅の構内に消えて行ってしまった。


「あ、はは。なんか……すみません」

「……いえ」


 頬を指でポリポリと掻き苦笑いを浮かべる藤崎に対して、間宮も気まずそうに声を絞りだす。

 暫くの沈黙が流れた後、この場に居ずらくなった間宮も駅の方に体を向けて小さく手を挙げた。


「えっと、それじゃ僕もそろそろ帰りますね」

「…………」


 何も返答がない事を肯定と捉えた間宮は、まるで逃げる様に駅に向かい出した時「待って下さい」と俯いていた藤崎の掠れた声が聞こえた。

 今の状況なら無理矢理ではあるが、聞こえないフリも出来たのかもしれない。だが、間宮の足は藤崎の声に動きを止めた。

 正確には足を止めたのは藤崎の声ではなく、スーツの袖をキュッと藤崎に握られたからだ。


「……私って魅力ありませんか?」

「……え?」

「あの時、私の部屋で間宮さんに言った事に嘘はありません」


 藤崎が言った事。それは自分の気持ちを受け入れてくれれば、そのまま一緒に朝を迎えてもいいという事を指しているのは間宮にも分かった。


「間宮さんの気持ちが私に向いていない事は分かってました。ですが、あの時曖昧な言葉を使っていればあのまま私を好きに出来たはずです。なのに、貴方はそうしなかった……」


 言うと藤崎の頬が赤く染まっていく。

 駅前の街灯だけの灯りでも解る程に。


「それは間宮さんが誠実な人だという事で、素敵だと思いました……思いましたが、それと同時に私は女として魅力がないのかなって思ってしまって……」


 据え膳食わぬは男の恥という言葉があるように、確かに女性である藤崎にあそこまで言わせて何もしなかったのだ。藤崎が自信をなくしても何ら不思議な事ではないのかもしれない。


「……それは違いますよ。藤崎先生は凄くお綺麗で魅力的な女性なのは、僕が保証します」

「それなら、何故あの時……」


 藤崎の訴える事は分かるから、間宮は口にしたくなかった事を話そうと口を開く。


「僕には好きな人がいます……いえ、愛している人……ですね」

「あ、愛してるって……確か恋人はいないって……もしかして奥さんが?」

「……はは、違いますよ。僕には恋人も奥さんもいません」


 好きな人、いや愛してる人がいる。だけど恋人も奥さんもいないという言葉で藤崎はハッとして黙り込んだ。


『僕は誰かを好きになる資格がありません』


 あの時そう言った意味。

 そしてずっと感じていた分厚い壁のような物の正体が、藤崎には分かった。

 温厚な性格で誰とでも分け隔てなく接する性格の間宮だったが、友人以上の関係を望んで踏み込もうとすると、いつも間宮を覆う様に立ちふさがる壁。

 その正体が……。


「今日はアルコールが入ってるせいですかね。口が軽くなってしまって余計な事を言ってしまいましたが、そういうわけなので……こんな面倒臭い男の事なんて忘れて下さい」


 言って、間宮は袖を掴まれていた藤崎の指をそっと解く。

 その行動そのものが間宮の気持ちだと気付いた時、俯いていた藤崎の口から掠れた声が漏れる。


「……そ、それが出来たら楽……なんでしょうね」


 解かれた指をキュッと握りしめて、藤崎は顔をクンッと上げた。

 その表情はさっきまでの落胆したものではなく、真っ直ぐにそれでいて突き刺すような眼差しを間宮に向けた。


「それでも! その事を知っても! 私の心は貴方の掴まれたままなんです。離してくれないし離したくもありません! 間宮さんが私を拒否する理由は分かりました。でも……そういう事なら問題はないはずですよね!? 私が気にしなければいい事で……」


 今現在存在しない相手なのなら、付き合えば恋人は藤崎だけ。

 間宮の気持ちが存在しない相手に向いていたとしても、それを藤崎本人が気にしなければいい。

 それは確かに気の持ちようの問題だけで、他に問題がないように思える。

 だが、その話は単に間宮の傷に塩を塗るだけの発言だった事に、藤崎は気付かない。それだけ必死に想いを伝えようとしたのだろうが、間宮の分厚い壁はそんな想いを遮り言葉だけが伝わってしまう。


「……そういう問題では……ないんです」

「他に何があるというんですか!? 私は貴方が好きなんです。その気持ちは間宮さんの中にいる人にも負けない自信が――」

「アンタにあいつの……優香の何が分かるってんだよ!! 知りもしないで好き勝手な事言ってんじゃねぇ!!」


 大きな怒鳴り声が駅前の広場に響く。

 数人ではあるが周りの通行人が足を止めて、2人に視線を向ける。

 怒鳴られた藤崎の両肩がビクッと大きく跳ねて、数歩後ろに下がった。

 藤崎と向かい合っている間宮の血走った目から、怒りの感情と共に一筋の雫が頬を伝う。


「あ、あの……わ、私は……」

「アンタと話す事はもうない……」


 藤崎は怒りの感情を露わにした間宮に腰が引けてしまいながらも、言い方が悪かったと弁解しようと試みたのだが、間宮は藤崎の言葉を聞く事なく駅の構内に姿を消してしまった。


 これで間宮に怒鳴られるのは二度目の藤崎だったが、前回とは明らかに違う。

 前回は参加していた生徒達の為に怒り、今回は個人的な事で怒鳴ったのだ。

 だが、藤崎が間宮を追えなかったのは怒らせた事ではない。

 間宮が流した一滴の涙が、間宮の中にしか存在しない人物をどれだけ愛しているのかを痛感させられたからだ。


 自分の想いがあの人を上回る事が出来るか?と自問自答した時、力強く頷く事が出来なかった事が、藤崎の心に敗戦というの2文字が刻まれたのだった。


 立ち去る間宮の背中を見送る事しか出来ない藤崎は、キュッと唇を噛んで口から出てきた言葉が、駅前の空間に微かに響いた。


「――ごめんなさい」


 ◇◆


 藤崎を置き去りにして電車に乗り込んだ。

 僅かに流した涙はもう乾いて肌が突っ張る感じがする。


 もう枯れてしまったと思っていた涙が流れた事に、驚いた。


 あんな事を言うつもりはなかった。

 今の間宮の頭にあるのは後悔だけ。

 背を向けた後の藤崎の表情を考えると、胸が酷く痛む。


 頭では分かっていた事なのに、藤崎に言っても仕方がない事だと。

 その抑えが効かない現実に、間宮は自分が立っている場所があの時から変わっていない事を実感する。

 間宮本人がその現実に抗う気がないのだから、それは至極当然なのだと理解した。


 A駅に到着して電車を降りた時、すっかり松崎と飲んだ酔いが冷めていた事を歩き出してすぐに気付いた。

 この乱れた感情も酒の酔いのように直ぐに冷めればいいのにと、駅から出た時に見上げた霞んだ月を睨みつける間宮だった。









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