4章 錯覚
第1話 感謝の気持ち act 1
真鍋達の謝罪を受け入れ、恩人である岸田に手紙を書いた日から二日が経った。
瑞樹を中心に起こった大波乱の文化祭は仲間達のおかげで何とか無事に切り抜けた。
関わった人間はそれぞれにこの事件の事を胸に刻み込み、日常の生活に戻っていく。
だが、日常の生活を送ってはいるが、気持ちはまだあの文化祭で止まっている人間もいる。
松崎もその内の1人だ。
大切な友人である間宮の仲間である瑞樹に中学の頃から嫌がらせを繰り返し、ついには先日の文化祭に乱入して瑞樹を集団で襲おうとした事件。
幸い危機一髪のところで、仲間達が瑞樹を救って難を逃れる事が出来た。
主犯である平田は親の再婚した際の連れ子で、松崎とは義理の弟だった。その事に気付いた松崎は間宮と同行して
だが、もっと事前に動いていれば瑞樹をあんな危険な目に合わせずに済んだのだと不甲斐なさを痛感する松崎は、あの後学校に戻り間宮達と合流する事なく姿を消したのだ。
「お仕事お疲れ様です!」
そんな気持ちを引きずったまま、今日も何とか1日の仕事を終え薄暗いロビーを抜けて会社の外にでた所で、元気な女の子の声に呼び止められた。
誰を呼んだのか判断できなかった松崎は、足を止めずに駅に向かう。
「ちょ、ちょっと! 無視しないで下さいよ!」
横合いから聞こえた声が、今度は正面から聞こえて落としていた視線を上げると、そこには学校の制服姿の加藤が立っていた。
「……えっと、確か……愛菜ちゃんだったよね?」
「はい!」
会いたくなかった間宮の仲間の1人。
顔を見ると罪悪感が一層増した松崎は、目を逸らしながら口を開く。
「どうしたの? あ、あぁ! 間宮を待ってるの? あいつならもう帰ったはずだけど」
言うと、加藤は顔を左右に振る。
「いえ! 松崎さんを待ってたんですよ」
「……俺を?」
加藤の意図が見えない松崎は、どうしても後ろめたさを隠せない。
「はい! この前のお礼がしたくって」
「……お礼? 俺にか?」
お礼なんてしてもらう筋合いはない。元々身内が仕出かした事に巻き込んでしまったのだから、そう思うの当然だった。
加藤は中学時代のクラスメイト達が謝罪してきた事を、瑞樹から聞いていた。
そんな事態になった原因であり、文化祭の事件の主犯である平田が当時のクラスメイト全員に謝罪して回っている事を聞いて、加藤は平田を動かしたのは間宮だけじゃなく、松崎も関わっているはずなのに会えなかった事が気になり、松崎が仕事を終えるのを待っていたのだ。
こうして加藤だけが松崎を待っていたのにも理由がある。
それは文化祭で親友である瑞樹を救う為に、率先して動き間宮達に助けを求めたのが加藤だったからだ。
助けられっぱなしで解決なんて事は、加藤の性格を考えれば出来るはずがなかったのだ。
「いや、礼なんてされる事なんてしてないんだよ。逆に謝りに行かないといけなかったのに……本当にごめんな」
「……ん? どうして松崎さんが謝るんですか?」
加藤の反応を見て間宮が何も話していない事を知り、松崎は平田との関係を隠す事なく話して聞かせた。
「どうしようもない義弟のせいで瑞樹ちゃんは勿論だけど、愛菜ちゃん達にも怖い思いさせてしまって……本当に申し訳ない」
自分の会社の前で女子高生に頭を下げる姿は、社会的な立場で考えると異様な光景に見えるだろう。幸い遅い時間のオフィス街という事もあって目撃者はいないようではあったが。
「え!? ちょ、謝らないで下さい! 松崎さんには本当に感謝してるんですから」
「……いや、監督不行き届きだった俺の責任でもあるわけだし……」
「松崎さんと平田の関係なんてどうでもいいですよ! 私は志乃の過去ごと助けてくれた松崎さんにお礼がしたくて来たんですから、謝られても困ります」
責められなかった安堵感と責められて紛らわしたかった罪悪感が、松崎の表情を複雑なものに変えていく。
「松崎さんってもうご飯食べましたか?」
「……いや、これからだけど?」
「それはよかった。それじゃあ夕飯を御馳走させて下さい」
咄嗟に断ろうとした。いい大人が女子高生に御馳走させるなんて、そんな情けない事できるわけがないのだから。
だが、断ろうと口を開くと同時に、加藤は松崎の腕を掴み「いきましょう!」とグイグイと駅に向かった歩き出した。
「い、いや、ちょっと」
「いいから! いいから! 美味しいお店ですから、期待してくれていいですよ!」
松崎の気持ちを知ってか知らずか、強引に引っ張っていく加藤の後ろ姿に松崎は観念の息を吐いた。
間宮と松崎の会社があるO駅から電車に乗り込み、W駅で下車して改札を潜った所で松崎が口を開く。
「なぁ、飯なら近場のファミレスで良かったんだけど、ここに何かあるのか?」
「松崎さんにとびきり美味しいハンバーグを御馳走したくて!」
「へぇ、ハンバーグなんて久しぶりかも」
「そうなんですか? それなら丁度良かったですね。こっちです!」
駅前の通りを渡ってすぐの角地に立っている店の前で、腕を掴んで引っ張っていた加藤の足が止まる。
目の前には小ぶりながらも、重厚な雰囲気を醸し出している店があった。
「え? この店なの?」
「はい。そうですよ!」
店の雰囲気が決して安いものではない事を示している。
分厚くシックな雰囲気を殺さない造りになっている看板には、ステーキハウス『verdan』と表示されており、その店名が只者ではない事を松崎に伝えた。
高校生が御馳走する店なのだから、当然気軽に入れるファミレスと予想するのが普通で、まさかこんな高級店に案内されるなんて考えてもみなかった松崎は、思わず店構えに構えてしまう。
「な、なぁ。こんな高そうな店じゃなくていいからさ……その辺のファミレスにしないか?」
どこかで聞いた台詞だなとクスリと笑みを零した加藤は、再び松崎の腕を掴み重厚な扉に手を掛ける。
「遠慮なんてしないで下さい。さぁ入りますよ!」
「お、おいっ!」
加藤は扉を開いて、松崎を店内に誘う。
扉の外と中はまるで別世界のようだった。
松崎を招き入れ扉を閉めると、そこには耳障りな騒音など皆無で心地よいジャズが流れて落ち着かせてくれる。
店内にいる客層もそういった品のある客ばかりで、僅かに聞こえてくる話声もまるでBGMのように耳に馴染んた。
「いらっしゃいませ。ようこそ、verdanへ」
店に入り少し進むと、これまた高級店らしく教育が行き届いているホールスタッフが2人を出迎える。
そんなスタッフに加藤が近付き、ニッコリと笑みを向けて口を開いた。
「西野さん、こんばんは。えと、結衣から訊いてると思うんですけど」
「はい、お嬢様から伺っております。どうぞこちらへ」
ネームプレートに『西野』と表示されているスタッフが取り置きしている席にスッと手を向ける。
以前、瑞樹の誕生日会を仕切ってくれたホールチーフのスタッフだ。
事前に今日の事を親友であり、ここのオーナーの娘でもある神山に話を通して貰っていたのだ。
案内された席に腰を下ろした松崎は、店内をキョロキョロと見渡している。
「もう、大人がそんな事したらみっともないですよ」
「いや、だって……まさかこんな店に連れて来られるなんて思いもしなかったからさ」
向かい合って席に座る2人は対局だった。
もう30歳が目の前に迫っている松崎が落ち着きが無く、まだ若輩者である制服姿の加藤が落ち着いてメニューに目を通しているのだから、周囲からみれば逆だろうと思う光景だったに違いない。
暫くして西野がミネラルウォーターを運んできた時に、松崎も慌ててメニューに目を通すと、「えっ!?」と思わず声を漏らす。
メニューに表示されている価格が、どう考えても高校生が気軽の支払える額ではなかったのだ。
この店の佇まいからすれば、それを想像するのは容易い事ではあったのだが、加藤が連れてくるのだからこんな店でも実は比較的リーズナブルな物があるんだと考えていたのだから、松崎の漏れる声も当然といえば当然だった。
加藤はメニューを閉じて、西野に注文を始める。
「お願いしていたセットと、ビールを1つと烏龍茶をお願いします」
「畏まりました」
注文を受けた西野は会釈して、席を離れて厨房に姿を消した。
「な、なぁ……」
「はい?」
「ここ俺が払うから、無理なんてしないでくれよ」
「え? 何言ってんですか? そんな事されたらここへ連れてきた意味がないじゃないですか」
確かに加藤が言う事は正論なのは分かっていたが、どう考えても高校生が支払える値段ではないのだから、ここは大人の松崎が支払うと言う事も至極当然の流れだろう。
「いや、高校生がポンと払える額じゃないだろ? 愛菜ちゃんの気持ちだけで十分だからさ」
「無理なんてしてないから、心配しないで下さい。文化祭の時に志乃と私ともう1人女子がいたでしょ? その子がここのお店のオーナーさんの娘なんですよ」
「マジか!?」
もう1人の女子というのは、瑞樹達がピンチの時に校舎裏に駆けつけた見た事もない格闘技を駆使して戦った女の子だというのは直ぐに理解が及んだ。
「マジですよ。その子がお店に口をきいてくれたので、高校生の私にでも払える金額で提供してくれる事になっているんですよ」
「そう……なのか。それなら折角だし御馳走になるけど、無理だと思ったら絶対に言ってくれよ?」
「りょ~かいです!」
そう返事する加藤だったが、絶対にそんな事は言わないだろうなと分かる程度には、松崎は加藤の事を理解していた。
暫く談笑した後、セットメニューが運ばれきてテーブルに並べられると、松崎の目がキラキラと輝いた。
「これはマジで美味そうだな」
「美味しそうじゃなくて、ホントに美味しいんですよ」
「ははっ、そうだね。それじゃ冷めないうちに早速いただこうかな」
「はい。沢山食べて下さいね」
フフっと笑みを零し合った2人は、ビールと烏龍茶が注がれているグラスを軽く合わせると、チンッと澄んだ綺麗な音が鳴った。
「これは確かに滅茶苦茶美味いな! これだけのハンバーグを食べたのなんて何年振りだろうって程に美味いよ」
「でしょ! 私も初めて食べた時に感動しちゃいましたもん」
松崎の反応に満足気に笑みを浮かべながら咀嚼する加藤に、微笑む松崎。
この時の松崎は自分自身でも気付いてはいなかった。
松崎の周囲の印象。それは陽気で明るく誰にでも分け隔てなく接する、所謂お調子者。
松崎自身もそんな周囲の印象は知っているが、それを否定する事はない。
そんな松崎が今見せている表情はいつもの『それ』ではなく、一回りも年下の女の子を見下ろすものでもなく、加藤が見せる底抜けの明るさに、何かを求めるような表情になっていた事に松崎自身が気付くのは、まだ先の話である。
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