第35話 嬉し恥ずかし朝帰り 後編

 チュン!チュン! チチッ――


 カーテンから漏れる温かい光が、深く沈んでいた瑞樹の意識を照らす。

 その光に導かれるように、意識をゆっくりと覚醒させて閉じていた目を開く。


 開けた視界の先に、見覚えのないタオル生地と見覚えのないシーツがある事を認識した途端、ぼんやりとしていた意識が一気に目覚めて飛び起きるように上体を起こして、周囲を伺う。


 見覚えのない家具に、見覚えのない壁や天井。

 そして何より明らかに自分の物ではないベッドに、寝起きから早々に思考が乱れる。


「うえっ! ちょっ……えっ!? ……んん?」


 意識がハッキリすればするほど、瑞樹の困惑が深くなっていく。


 こういう時は、まず状況把握だと、無理矢理にでも落ち着こうと努めた瑞樹は、可能な限り思考を巡らせてみる。


「確か間宮さんに会いに行って、昔の話を聞いて貰った後に、ワンワン泣きじゃくって――泣きつかれて……寝た?」


 瑞樹はそう独り言ちた後、みるみる顔から血の気が引き、グルグルと視線を巡らせて、ようやく自分がいる状況を理解した。


「という事は、ここは間宮さんの家で、私が寝てたのって……間宮さんのベッド!?」


 瑞樹は自分の置かれている状況を把握すると、今度はとんでもない疑惑が思い浮かび、かけられていたタオルケットを勢いよく捲り着ている衣服に視線を落とした。


 結論から言えば、心配されていた衣服はちゃんと着ていた。ボタンも留めた箇所は全部留められたままで、間違いが起こったような様子ではなかった。

 瑞樹はホッと安堵した様子だったが、次第に複雑な表情をしながら、胸周りが少し苦しかったのか、留めてあったボタンを1つ外して「はぁ」と溜息に似た息を吐きだしながら、昨夜の事を鮮明に思い出そうと思考を巡らせる。


(確か眠っちゃったのって、リビングじゃなかったっけ?)


 昨晩覚えているまでの記憶を弄り、今の状況までの経緯を推測を進める度に、瑞樹の顔が物凄い勢いで真っ赤に茹で上がる。

 状況から見て、間宮が寝室まで自分を運んだのは明白で、自力で歩いた記憶が全くない事から、間宮がどうやってここまで運んだのか想像するには容易かったからだ。


(もしかしてっていうか、それしかない……よね。私……間宮さんにお姫様抱っこされて……?)


 包まれていたタオルケットに顔を埋めて、モジモジと悶えながら肺一杯にタオルケットに染みついた間宮の匂いを吸い込んだところで、瑞樹は我に返った。


「……わ、私……何やってんだろ。こ、これじゃ変態みたいじゃない!」


 間宮の匂いを嗅いだからか、妙に落ち着きを取り戻した瑞樹は、ここまで状況を把握したところで、次はここまで運んだ当人である間宮の姿が見えない事が気になってくる。

 慌ててベッドから降りた瑞樹は、部屋のドアを恐る恐る開けて隣の部屋を覗くと、この部屋と同様に朝日がカーテンの隙間から差し込んでいて、その光が照らす先に、ソファーで眠っている間宮の姿を発見した。


 トテトテと小さな足音と共に、瑞樹は無意識に引き寄せられるように、間宮が眠っているソファーへ近づくと、その前で正座してジッと動きを止める。

 七分丈のパンツにTシャツと、如何にもな部屋着に着替えていたせいか、昨晩は気付かなかったモノに気付き、瑞樹は表情を曇らせた。


 全く気が付かなかったわけじゃない。


 でも、それはほんの一部で、今の間宮の体のあちこちに絆創膏やガーゼが歪な形で張り付けられていたのだ。


「……ごめんなさい」


 痛々しい傷跡を見ていた視界が歪む。


 この傷で、またどれだけの迷惑をかけてしまったのかを知ったからだ。


 茜が高校生6人なんて問題ないと言っていた事は、確かに間違いではなかったが、それでも無傷というわけには流石にいくはずもなかった。


 自分と関わる事なんてなかったら、こんな怪我を負う事はなかったはずで、もう自分のせいで周りの人達に迷惑を掛けたくなくて、意地を張った結果がこれでは。

 今回の行動は自分の独りよがりだったのだと、改めてそう痛感する他なかった。


「ごめんね……間宮さん」


 申し訳なさと、感謝の気持ちが複雑に入り交じり、気が付けば瑞樹は間宮の頬に張り付けていたガーゼにキスを落としていた。


 ガーゼ越しの初めてのキスは、温もりを感じる事もなく、気持ちもガーゼによって伝わらない、消毒液の匂いだけが残る寂しいキスだった。



 ◇◆



 ――コポコポコポ


 優しく心が落ち着く香りが、鼻孔をくすぐる。

 そんな香りを少し強く吸い込み、間宮は意識をゆっくりと覚醒させた。


 視線だけを香りが漂う方に向けると、瑞樹が立ち込める香りをスゥと楽しみながら、珈琲をドリップしている。


 どうやら時間がない時に、使っていたドリッパーと水差しを見付けたようで、鼻歌を歌いながら珈琲を淹れている瑞樹をぼんやりと眺めていると、視線を感じたのか、ふと視線を上げた瑞樹と目が合った。


「お、おはよう……間宮さん。えっと……勝手にキッチン使ってごめんね」


 顔を赤らめた瑞樹は、ソワソワと落ち着きをなくした様子で間宮から目を逸らしながら挨拶をする。


「……おはよ。それは別にいいんだけど、珈琲淹れてたのか?」

「あ、うん。間宮さんも珈琲好きだって言ってたから、朝起きたら飲みたいかなって思って」


 いそいそと丁度ドリップを終えた珈琲を二つのマグカップに移し終えた瑞樹は、慎重にリビングのテーブルに運んで来ると、淹れたての珈琲の香りがより一層リビングに広がっていく。


 朝はこの香りがないと落ち着かない間宮は早速マグカップを手に持ちゆっくりと深く香りを楽しみ、満足げに笑みを浮かべた。


「ありがとうな。瑞樹って珈琲淹れるの上手いんだな。いい香りだ」

「ありがとう。あ、私も珈琲頂くね」


 2人は一緒にマグカップを口に運び、殆ど同時に「はぁ」と息をつく。


「うん! 香りだけじゃなくて、美味いよ」

「ほ、ホント!? ドリップって淹れるのって、人によって好みがあったりするから心配だったんだけど……そう言ってくれると嬉しいな」


 瑞樹はそう言って嬉しそうに笑顔を見せたが、直ぐに神妙な顔つきになり、マグカップをテーブルに戻して、軽く頭を下げた。


「昨日はごめんなさい……強引に部屋に上がり込んで、重い話を聞かせるだけ聞かせて、泣き疲れて眠ったりとか……それにベッドまで占領しちゃって……」


 どうやら昨晩の経緯は覚えているようで、間宮はホッと安堵した顔つきで口を開く。


「……俺の方こそごめんな」

「え? どうして間宮さんが謝るの?」

「本当は瑞樹が起きたらタクシーで加藤に家まで送っていくつもりだったんだけど、シャワーを浴びてから起きるのを待ってたら、いつの間にか寝落ちしてしまったからさ」

「そんなの、間宮さんは全然悪くないよ――って愛菜の家って?」

「あぁ、昨日加藤に家に泊まりに行く予定だったんだろ? 連絡もせずに放っておいたら、心配するだろうと思って電話で事情を説明したんだよ」


 瑞樹は間宮が気を利かせてしてくれた事を感謝しつつ、加藤達との約束を思い出して、慌てて鞄からスマホを取り出して画面を立ち上げた。


 トップ画面のトークアプリに着信のアイコンが表示されていて、アプリをタップすると、予想通り何件かメッセージが届いていて、瑞樹は間宮に断りを入れてから、順にメッセージに目を通し始めた。


 始めは麻美達からでお疲れ様という労いの内容だったのだが、途中から加藤や神山からの催促の内容に変わっていき、残ったのがついさっき届いたばかりの加藤からのメッセージだけになった。


 嫌な予感を感じつつも、最後の内容を確認すると、『おっはよ! 結局うちに来なかったって事は、まだ間宮さんチにいるんだよね? お泊り会をすっぽかしたのは謝らなくていいから、今度会った時に、く・わ・し・く報告するように! 以上!』と書き込まれていた内容に、瑞樹は思わず顔を引きつらせる。


 スマホに視線を落としていると、不意に目の前に気配を感じて正面に顔を上げると、自分の視界の中に納まらないサイズの間宮の顔があった。


「ふにゅえっ!?」


 あまりに唐突だった光景に、瑞樹は説明不能な謎の言葉を発したが、間宮は全く動じる事なく、真剣な眼差しを向けたまま右手を瑞樹の顔に近付けてきた。


「あ、ああ、あにょ! ま、間宮さ、さん!? そ、その……いきなりこういう事は――ここ、心のじゅ、準備ぎゃ……」


 盛大に噛みまくった言葉とは裏腹に、顔を真っ赤に染めた瑞樹の瞳がトロンとゆっくり閉じていく。


「痛っ!」


 だが次の瞬間、瑞樹が期待した感触を唇から伝わることがなく、代わりに左頬からズキッと痛みを感じた。


「やっぱり少し腫れてるな……昨日から気になってたんだけど、眠ってる時に触るのは抵抗があってさ」


 瞳を開けると、間宮がそう話しながら心配そうな顔を見せていた。


「簡易的で申し訳ないんだけど、少し冷やした方がいいから、ここに座って」


 間宮は自分が座っていたソファーをポンポンと叩きながら、寝る前に自分が使っていた救急箱を手繰り寄せた。


「え? い、いいよ。大した事ないし、時期に治ると思うから」

「ばっか! 女の子の顔に傷なんて残ったらどうすんだよ! いいから座れって」


 真剣な顔でそう言われては何も反論する言葉が浮かばず、瑞樹は大人しく間宮に従ってソファーにチョコンと腰を落とした。

 救急箱を開けて間宮は、早速腫れた患部に軽く消毒をしてから、まるで壊れ物を扱うように、小さく切り取ったシップを貼った後に、こちらも丁度いい大きさに切ったガーゼを被せて、テープで固定して応急処置を終えた。


「あ、ありがとう。でも、これって大袈裟じゃない?」

「見た目はそうかもしれないけど、時間が経ったらどこまで腫れるのか分からないしさ」


 救急箱を仕舞う間宮を眺めながら、とんでもない勘違いをしていた事を今更のように思い出して、瑞樹は頭から湯気が上がりそうな程に顔を真っ赤にしながら、頭をブンブンと振って邪な考えを振り払った。


「腹減っただろ? 冷蔵庫の中身がかなり寂しいから、大したものは出来ないけど、とりあえず朝飯作るな」


 飲み終えたマグカップを手に持ち、キッチンに向かいながらそう話す間宮に、瑞樹は慌てて待ったをかける。


「ちょ、朝食なら私に作らせてくれない?」

「え? いや、でも……」


 瑞樹の申し出を遠慮しようとした間宮の返事を遮り、瑞樹もキッチンに入りながら、話を続ける。


「迷惑ばかりかけて、こんな事がお礼になるなんて思ってないけど、今はそれ位しか出来ないから、私に作らせて!」


 必死に訴えかける瑞樹の迫力に押されて、間宮は断る理由を見失ってしまい首を縦に振る。


「わ、わかった……でも」

「でも?」

「その前に制服はとっくに乾いてるから、着替えてくれないか? その……目にやり場に困るんだよ」


 頬をポリポリと掻きながら、目を逸らす間宮に首を傾げた瑞樹は、ふと顔を下に向けて硬直した。

 間宮のワイシャツを着ていた為、着崩れを起こしていて、肩回りの生地が華奢な肩から落ちてしまいそうにズレて、薄い青色の肩紐が顔を覗かせていた事にようやく気が付いたのだ。


「ば、馬鹿! 何でもっと早く教えてくれなかったのよ! エッチ! スケベ! 変態! 間宮!」

「ちょ、ちょっと待て! 俺が何したってんだよ! それに最後のは悪口でもなんでもないだろ!」


 そんな間宮の抗議を無視して、瑞樹は下着が見えないようにシャツを引っ張りながら、慌てて制服がある脱衣所のドアを開いたところで、間宮にジッと視線を向ける。


「覗かないでよ! エッチ!」


 そう言い残して、瑞樹は勢いよく脱衣所のドアを閉めた。


「……何で変態呼ばわりされないといけないんだよ」


 瑞樹の理不尽な物言いに、間宮はガックリと肩を落として脱衣所に向かってそう呟くと、中から吹き出し笑いをする声が聞こえた。

 何故だかすっきりと憑き物が落ちたような、瑞樹の明るい笑い声を聴くと、ボロカス言われたはずの間宮も何故だか無性に可笑しくなり大きな声で笑った。


 着替えるついでに顔を洗って出てきた瑞樹は、キョロキョロと何かを探し出したかと思うと、首を傾げて口を開く。


「ねぇ。エプロンってないの?」

「ん? あぁ、エプロンなら確かここに……」


 そう言って寝室にあるクローゼットの中から、エプロンを取り出して瑞樹に手渡す。


「何で毎日使うエプロンが、そんな所から出てくるの?」

「初めの方は使ってたんだけど、面倒臭くてさ」


 間宮の部屋に入った時は、男の1人暮らしなのに随分と綺麗だなって驚いていた瑞樹だったが、間宮のそういうズボラな面を知って苦笑いを浮かべた。


 エプロンを受け取った瑞樹は、早速冷蔵庫の中身を確認する。


 確かに冷蔵庫の中身は心もとない内容だったが、入っている食材で何が出来るか少し考えた瑞樹は、「うん!」とメニューが決まった様子で、迷いなく必要な材料を取り出して、早速調理に取り掛かりだした。


 手持ち無沙汰になった間宮は料理は瑞樹に任せる事にして、脱衣所へ向かい洗面台の収納棚から買い置きしてあった新品の歯ブラシを取り出して、タオルと一緒に洗面台に用意して、瑞樹に食後に使うように話すと、瑞樹は頬を染めて頷く。


 制服にエプロン姿の女子高生が、ウチのキッチンで料理をしている。確か昔、そんなラブコメディーのドラマを見た気がしたが、まさか本当に目の当たりにするとはと、間宮は少しの罪悪感に苛まれながら、機嫌よく料理をする瑞樹の後ろ姿を眺めていた。



「うわ~! 美味そう!」


 料理を始めた瑞樹の手から、次々と料理が生まれテーブルを彩っていく。


 その手際の良さは、日常的に台所を任されている賜物だ。


 よくあれだけの食材で、これだけの朝食を作るものだと、間宮は感心しながらテーブルに並べられていく料理が洋食中心のメニューなのを確認して、自慢のサイフォンで珈琲を淹れ始めた。


 髪を後ろで束ねていたシュシュを解き、エプロンを脱いだ瑞樹は、テーブルに並べられた朝食を眺めて、満足げに「うん!」と頷いて珈琲を淹れている間宮の側にマグカップを二つ置いた。


「間宮さん、朝ごはん出来たよ」

「うん、ありがとう。直ぐに珈琲淹れ終わるから、先に座ってて」

「は~い」


 間宮の言う通り瑞樹はいそいそと席に着くと、ドリップだけでは再現出来ない、まるでカフェではなく喫茶店にいるような香りが立ち込め始め、瑞樹はスゥっと肺いっぱいに香りを吸い込んだ。


 淹れたての珈琲をマグカップに移した間宮も、瑞樹の向かい側の席に着き、改めてテーブルを眺めると色々なメニューが並び、どれも盛り付けがとても綺麗で、見た目から既に美味しそうだった。


「それじゃ、いただきます」

「いただきます」


 手を合わせて合掌した2人は、朝食を摂り始めた。


 ◇◆


「うおっ、このサラダにかけてるドレッシングめちゃ美味いんだけど」

「ホント? 間宮さんのキッチンって調味料が凄く充実してたから、作ってみたんだけどお口に合って良かった」

「やっぱり手作りか。こんな美味いドレッシングなんて冷蔵庫に入ってなかったはずだから、ビックリした!」


 本当に美味しそうに食べてくれる間宮さんと見ていると、凄く嬉しい気持ちになる。

 家の事情だったからとはいえ、小さい頃から料理をしていて本当に良かった。


「このプレーンオムレツは結構美味く出来たと思うから、食べてみて」

「――うまっ! 卵がトロトロで最高!」


 今朝のメニュ―は、プレーンオムレツにサラダ、食パンがあったから野菜と卵のサンドイッチにコンソメスープを作ってみた。材料があればもっと美味しいものが作ってあげられたんだけど、オムレツが狙った味と食感が出せたから、とりあえず満足かな。


 間宮さんは朝からでも沢山食べるイメージだったから、オムレツは特大サイズにしてみたんだけど、思った通りすぐに平らげそうな勢いで食べてくれてる。

 お父さんが食べるのを見てても1度も思った事がないけれど、男の人がモリモリ食べる姿って――作った甲斐があったっていうか、何かいいなぁって思う。


「瑞樹って何でこんなに料理が上手いんだ?」

「ウチの親って昔から共働きで、帰ってくるのが遅かったから、自然と私が作らないとって、小さい頃から料理をしてたからかなぁ」

「そっか。それじゃ、希の面倒も瑞樹がみてたんだな」

「うん。でも、妹が可愛く仕方がなかったから、全然いやじゃなかったけどね」


 希かぁ……いいなぁ、あの子。いつの間にか名前呼びっていうか呼び捨てにされてて。


 私も志乃って呼んでくれないかなぁ……。


「ん? どうしたんだ?」

「え!? う、ううん。何でもないよ」


 危なかった。思わず心の声が漏れてしまうところだった。


 そうだよ。私もそうだし、愛菜達も苗字呼びなのに、何で希だけ呼び捨てなのよ……。何かムカついてきた。


「な、なぁ瑞樹? 手に持ってるナイフの持ち方が相当変だと思うんだけど……」

「ううん。今の私の心境だと、この持ち方が正解みたい」

「い、いや、そんわけないだろ? だって、まるで誰かを刺そうとしてるように見えるし」

「……気のせいよ」


 妹に嫉妬する姉とかどうかしてるとは思う。

 だけど、面白くないものは面白くないんだ。

 自分が嫉妬深い女だって事は、合宿で思い知ったから仕方がないし、間宮さんは私の気持ちに気付いてないんだから、ここで私が拗ねてもどうしようもない事は分かってるんだけどね……。


 でも……そんな嫉妬染みた感情も、本当に美味しそうに私が作った料理を食べてくれる間宮さんと見ていたら、どうでもいい事のように思えてくるのが不思議だ。

 冷蔵庫にある物で作った他愛もない食事でも、好きな人と一緒なら、こんなにも美味しく感じるのだと、初めて知った。

 自分が作った料理を、好きな人が美味しそうに食べてくれるのを見る事が、こんなに嬉しい事なんだと初めて知った。

 好きな人の部屋にいる事が、こんなに幸せな事なんだと初めて知った。


 幸せで楽しい食事を終えた頃、洗い物は俺がすると譲らない間宮さんがキッチンに向かう。2人並んで洗い物をするのも捨てがたいとは思ったけれど、先に歯を磨いておいでと言われたから、素直に従う事にして、洗面台に向かった。


 洗面台には真新しい歯ブラシが、間宮さんが使っている歯ブラシと並んで立ててあって、何だか同棲でもしてるようで心臓が跳ねたのは秘密だ。

 ドキドキしながら歯ブラシを手に取って、歯磨き粉を付ける手が震えてた。何とか歯ブラシを口に運んで歯を磨き始めると、歯を磨くブラシの音に交じって、背中から流しの水が流れる音と、カチャカチャと食器同士が当たる音が聴こえてくる。

 こんな優しい朝が自分に訪れるなんて、少し前までは考えた事もなかった。

 ずっと自分を守る為に、自分を偽って生きていくものだと思っていたから……。

 もう、本当の私を隠さないで生きていってもいいんだよね。

 私は、自分の気持ちに正直に生きていいんだよね。


 ――そうだよね? 間宮さん。



 ◇◆


 後片付けを済ませて身支度を終えた私は、間宮さんと一緒に部屋を出る。

 正直名残惜しい気持ちでいっぱいだったけど、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。

 歯を磨き終えてから部屋を出るまでも、凄くはしゃいじゃった事が今頃になって恥ずかしくなったけど、やっちゃったものは仕方がないから、間宮さんには早急に忘れて貰おう。


 マンションのエントランスを抜けて外に出ると、気持ちの良い空が迎えてくれた。

 私のボストンバッグを持ってくれている間宮さんが、私の自宅がある方に歩き始めた時、ギュッと締め付けられるような気持が湧きあがってきて、それを間宮さんに悟られたくなくて、唇を噛んで我慢した。

 でも、人の様子に人一倍敏感な間宮さんは、私の様子に気付いたのか、何時も以上に意識的に明るい話題を振ってくれたんだけど、多分私は何時の通りには話せてなかったと思う。


 分かってる。間宮さんはこういう変化を見逃さない人だって事は……。だから、頑張って隠そうとしてるんだけど、これが出来ない。今までなら、簡単に出来ていた事のはずなのに……。

 それだけ、大きくなっちゃった事か――私の中にいる間宮さんの存在が。


「よかったら、また遊びにくれば?」


 ……うん。そう言ってくれると思ってたよ。

 私の思考なんて、この人にとっては大した事がないんだよね。

 良く言えば、私の事を見てくれているって事だけど、悪く言えば、チョロいのだろうか?


 ――何かムカついてきたんだけど。


「そう? それなら遠慮なく明日も行くからね!」

「あ、明日!? それは無理! 絶対」

「即答で言い切らなくてもいいじゃん!」

「当たり前だろ。瑞樹は受験生なんだぞ?」

「……え? じゃ、じゃあ、受験生じゃなかったら――いいの?」

「……まぁ、どうだろうな。その時になってみたいと分かんねぇけどな」


 ふふっ、誤魔化したね。

 昔の私の事を全部話しちゃったから、私の事をよく知ってる人になっちゃったけど、私だって少しは知ってるんだよ?

 実は間宮さんは押しに弱いってね!


 間宮さんが言うように、確かに今の私は受験生だ。

 でも、受験生っていう枷が外れたら、本気出すから覚悟しててよね!


 私は自分の中でそう決意表明をして、隣を歩く間宮さんの顔をジッと見つめてみた。


「ん? なんだ?」


 ――それまで、誰のモノにもならないで下さい。


「ん~ん。なんでもない」


 こんな日が来るのなら、例え裏切られていたとしても、彼の存在がなかったら、私はきっと壊れていたハズだから……やっぱり岸田君の事を悪くは思えないよ。


 軽くなる。本当にどんどん心が軽くなっていく。

 不思議な気持ちだ。ずっと引きずっていくんだと思っていた事が、たった2日で綺麗に過去に出来てしまった。


 本当に私の好きな人は凄い人だよ。


「ありがとう、間宮さん」

「ん? 俺は別に何にもしてないだろ」


 そう言うと思ったけどね、ふふっ。


「到着っと!」


 歩いたらそれなりの距離があるはずなのに、いつの間にか私の家に着いちゃった。

 楽しい時間は過ぎるのが早いっていうけれど、帰る時間までそう感じちゃうんだなぁ。


「ほら、荷物」

「うん。ありがとう」


 着替えを入れていた鞄を受け取って、改めて間宮さんを正面に見た時、彼はキョトンとした顔をしていたけれど、私は構わずジッと見つめる。


「明日から新しい自分で頑張るよ」

「あぁ、瑞樹は前を向いて歩く方が似合ってる」

「あははっ、私もね、今はそう思う」


 間宮さんは優しい笑顔を見せてくれた後、元来た道で帰ろうと私に背中を向けて、こっちを見てニッと笑みを見せた。


「じゃあ、またな」

「……うん、またね。ホントにありがと」


 言うと、間宮さんは苦笑いを浮かべた。きっと何もしてないって言いたいんだろう。


 でも何も言わずに帰って行こうとする間宮さんに、少し悪戯がしたくなった。


「ねぇ! 私の歯ブラシ捨てちゃヤダよ!」

「は? なんでだよ!」

「だって、次泊まりに行く時に必要じゃん!」

「ばっか! だから自分をもっと大切にしろって言ってんだろ!」

「あははっ! バイバイ!」


 はぁと大きな溜息をついて、間宮さんが帰っていく。

 角を曲がって完全に姿が見えなくなっても、私は見送る事を止めたくなかった。


 大切にしろか……。

 確かに、冷静に考えればとんでもない事したんだよね。

 一人暮らしの男の人の部屋に泊まったんだから。


 でもね、間宮さん。自分自身より大切な人が出来た時って、その人が求めたら嬉しかったりするんだよ?

 私は貴方が求めてくれるのなら、心から嬉しいって思えるし、求めて欲しいって思ってるんだよ。


 ――だから、間宮さんの事をもっと教えて欲しい。

 私が欲しいって思ってくれるように、少しでも貴方に近づきたいから。

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