第34話 嬉し恥ずかし朝帰り 前編
「これが私の黒歴史でした――なんちゃって……えへへ……」
この話をしたのは2度目で、初めて話したのは愛菜だった。
愛菜は聞き終えると、自分事のように悔し涙を流してくれた。
2度目といってもこの話をするのに慣れる事なんてなくて、私は間宮さんの顔を見るのが怖くて俯きながら、話を続ける。
「でも結局、岸田君にも裏切られていた事を、今日平田に聞かされて知ったんだよね……」
話を聞き終えても間宮さんは何も話す事なく、部屋に沈黙が流れて、壁に掛けてある時計の秒針が時間を刻む音と、キッチンのシンクに水が落ちる音だけが聞こえた。
そんな沈黙に耐えられなくなった私は、ゆっくりと顔を上げて間宮さんに目を向けると彼も私を見ていたみたいで、目がバッチリと合ってしまった。
その時の間宮さんの表情が今まで見た事がない程に優しくて、ツンと鼻先に刺激を感じた。
重い話をした事は自覚してる。
だから話し終えた時、無理にでも茶目っ気を出して重くなった空気を少しでも変えようとしたのに、このタイミングであんなに優しい顔を見せる間宮さんは反則だと思う。
重くしたくない。でも、どうしても聞いて欲しかった。
矛盾している2つの気持ちに、絶対にやってはいけない事。
それは涙を見せる事だ。
だから、我慢してたのに――私に意思を無視して視界が歪んでいく。
「瑞樹……」
優しい声で名前を呼ばれて、歪んだ視界が更に歪んで、もう目の前にいるのが誰なのか分からなくなった。
私は視界を確保しようと涙を乱暴に拭った。
「ご、ごめんね。涙なんて流しちゃったら、もっと重い話になっちゃうよね――ごめんなさい」
謝りながら乱暴にゴシゴシと涙を拭っても、後から後から瞳から涙が溢れてくる。
歪む視界と自分の手の甲を交互に見ていると、やがて視界に間宮さんの胸元が見えた時、私は抗う事を止めて拭っていた両手を降ろした。
途端、温かい温もりに包まれる。
その温もりが何なのかなんて、考える必要はなかった。
過去を自分で乗り越える。
そう決めて挑んだ文化祭だったはずなのに、結局愛菜達に助けられて、今私に温もりを与えてくれている間宮さんに守られた。
情けなさと悔しさで嗚咽が漏れる。
結局、私1人では何も出来ない。あの時と何も変わってなんていなかった。
その事実が私の心を掻き毟る。
「よく頑張ったな――瑞樹は本当に頑張った。もう大丈夫だから」
「どこが頑張ったの!? 結局私は何も出来なかったじゃない! どうして間宮さんも愛菜達も、何で私を責めないの!?」
いつも私を弱くする間宮さんの言葉に、抱きしめてくれていた腕を振り解いて初めて反論した。
どこが頑張ったのか言い方が悪いけど、もう嫌味にしか聞こえなかったんだ。
今日間宮さんに昔の事を話したのも、同情を引こうとしたわけじゃない。
惨めな自分を曝け出して、結局変われなかった自分を戒めて欲しかったからだ。
――なのに……なんで……。
叱ってよ。怒ってよ……どれだけ周りに迷惑かければ気が済むんだって!
私のせいで。皆を危険な目に合わせたんだよ!?
許されるわけないんだから、せめて間宮さんだけでも――私に怒ってよ!
「責める? 何を責めたらいいんだ?」
「全部だよ! 皆を危険な目に合わせた元凶なんだから!」
「元凶はあいつらであって、瑞樹じゃない。それにお前は大きな勘違いをしてる」
「は? 勘違い!? 何が――」
もう何が言いたいのか分からない。
どれだけ言っても、間宮さんは私を責める事もせずに、勘違いしているなんて言ってくる。
何が勘違いなの!?
私はそう怒鳴ろうとしたんだけど、その時の間宮さんの目が私の動きを止めた。
怒っているわけでもなく、優しく見てくれているわけでもない。
――今までの間宮さんじゃない。ううん、私の目の前にいる人って本当に間宮さんなの!?
「誇るんだよ、瑞樹」
「え? ほ、誇る?」
「……そうだ。自分の為に、これだけの人が行動を起こしてくれた事を誇れ!」
誇るって……何言ってるの?
「瑞樹志乃という1人の人間が、どれだけの人間に愛されているかって事をだよ」
あ、愛されてる?こんな私が?
「分からないか?」
分かるわけないじゃん! 私は只の疫病神みたいなものでしかないんだよ!?
「本当に愛される人間ってのは、周りの人間を愛する事が出来る人間の事を言うんだ」
間宮さん……ごめんなさい。
私には本当に分からないよ………。
「ん。今はそれでいい。時期に分かる時が必ず来るから、瑞樹は今まで通りでいいんだよ。――ただ」
「ただ?」
「これからは、あんな無茶をする前に必ず周りに相談しろ! 加藤とか神山とか……佐竹君だっているし――それに俺だっているんだからな!」
叱られた。
でも、これは私が望んだ内容じゃない。
こんなの嬉しいだけでしかないんだもん……。
――いいのかな。こんなに幸せで、本当にいいのかな。
「――ごめんなさい」
何に対して謝っているのか分かっていない。
そんな馬鹿な私に、間宮さんは何も言わずに頭を優しく撫でてくれる。
何度か抱きしめて貰った時に思ってた。
間宮さんに頭を撫でられるのって、凄く気持ちよくて好きだって事。
だから思わず言ってしまった。
「……もっと、撫でて」
間宮さんは何も言わずに優しく撫で続けてくれて、もうそろそろブレーキが壊れてきた気がする。
「ギ……って……て」
「え? 何だって?」
「ギュ、ギュってしてって言ったの!」
恥ずかしい。すっごく恥ずかしい!
今までは気が付いたら間宮さんの腕の中にいて身を任せてきたから、こうやってお願いする事なんてなかったから……。
どうしよう……自分で言っておいて、恥ずかしくで間宮さんの顔が見れないよ。
そんな事を俯いて考えてたら、フワッと空気が動いた気がして、そう感じた瞬間に私の体が温かいものに包まれた。
自分の身に何が起こったのかは直ぐに理解出来た。
私から頼んだ事なんだから、当然だ。
でも、私は何かを確認したくてモゾモゾと温かい空間から顔をだして見上げると、そこには優しい笑みを零した間宮さんの顔があった。
本当に優しい顔だ。本当に……優しい顔だったんだ。
今まで優しい間宮さんの顔が好きだった。
見ていると、心から安心出来たから。でも、その優しさが自分を弱くするって怖く感じてた。
それは違ったんだね。この優しさに救われてから、私は強くなりたいって思えるようになったんだ。
だから、私は言ってなかった言葉を口にする気になった。
「間宮さん。助けてくれて、守ってくれて――ありがとう」
怒ってもらう事じゃなく、叱ってもらう事でもない。ましてや、謝る事でもなかったんだ。
――ありがとうって感謝の気持ちを伝える事が、今の私に欠けていた事だったんだ。
「どういたしまして」と返してくれた間宮さんの顔は、凄く嬉しそうだった。
そんな間宮さんを見て、私も凄く嬉しくなった。でも……困ったな……。
急に体が軽くなった気がした途端、これまでの辛かった事が頭を巡っては、1つ1つ色褪せていくんだけど、その度に涙が溢れそうになる。
どれだけ私は泣き虫なんだろうって呆れてしまう。
でも、私は泣いた記憶がないけど、卒業式で泣いちゃう子だっているわけだし、ようやく昔の自分から卒業出来るって思えば、変じゃない……よね?
「……間宮さん。お願いがあるんだけど」
「ん? なんだ?」
「ちょっと……このまま泣いていい?」
そう訊くと、間宮さんは何も言わずに、優しい手つきで髪を撫でてくれた。
その感触が心地よくて心から安心出来た私は、両手で間宮さんの服を力いっぱい握って、それからはもう……ただ……堰き止めていた感情を全部押し流した。
う、ううっ――うわあぁぁぁぁん!! うわあぁぁぁぁぁ!!!!
誰にでも見せられるものじゃない。
ううん。好きな人に見せるのは駄目だと思う。
だけど、間宮さんが優しいから……優し過ぎるから……。
胸を借りて泣くのは何度目だろう。
もう何も考えられなくなってきてて、思い出せなくなってる。
だからもう私は諦めて、何も考えずにただ、泣いた。
あの悪夢のような日から、ずっと、ずっと……気を張り続けて生きてきた。
中学を卒業して高校に進学しても、それは変らなかった。
裏切られるのが怖くて、クラスメイトと笑っていても、ずっと周囲にアンテナを張り巡らせて、ずっと警戒して生きて来たんだ。
気を緩めると、あの悪夢が襲ってくるかもしれないから……。
その恐怖から自分を守る為に、色々な事を犠牲にして自分を押し殺してきたのに……間宮さんの『よく頑張った』『もう大丈夫だ』、この2つの言葉だけで、ガチガチに固めていたハズの殻が一瞬で溶かされてしまった。
その時に気付かされたんだ。
私にとって間宮さんの存在がどれだけ大きくなっていたのかって事を。
本当は誰かにそう言って貰いたかったのかもしれない。
1人で生きるとか言ってても、どこかで助けを求めていたんだと思う。
気が休まる事のなかった長い時間が、嘘のように溶けていく。
本当に不思議な人だね。
この人の優しさと、器の大きさ、そして心の強さの前には、私の意地なんて霞んでしまうんだもん。
それを認めさせられたけど、不思議と悔しさとか情けなさとか、そういった感情が湧いてこないんだから。
それどころか、そんな間宮さんの腕の中に身を預けられている事に、私は何故か誇らしい気持ちになっているんだから。
◇◆
午後23時21分
長い――本当に長かった孤独な瑞樹の戦いが、間宮の腕の中で終戦……いや、戦いから解放された瞬間だった。
10分……いや、20分は経っただろうか。
間宮の腕の中から聞こえていた鳴き声が止んだのと同時に、ずっと感じていた瑞樹の重さが増した気がして、間宮は上体を維持する力を込めながら、腕の中にスッポリと収まっていた瑞樹の肩に触れて少し距離を開けて覗き込むと、微かに小さな寝息が聞こえた。
「ね、寝てるのか?――嘘だろ?」
思えば、猫耳カフェの看板メニューのリサーチから始まり、仕入れ先との交渉にプレゼンを経て契約を結ぶ。
慣れない接客を人前に出るのが苦手な瑞樹が、猫コス姿でクラスの為に奮闘した挙句、その夜は遅い時間まで追加のパン造りの手伝いをこなした。
そして今日も朝早くから搬入の手伝いを行って、そのまま連日大盛況のカフェで大奮闘。
これだけでも激務だったはずなのに、この上、平田達との騒動を体を張って乗り越えたのだ。疲労のピークなんてとっくに超えていたのだろう。
そんな状態で、完全に気を許している間宮の腕の中で、残りの力を振り絞る様に泣き尽くしたのだ――そのまま安心出来る場所で全てを間宮に預けて眠ってしまうのも、仕方がない事なのかもしれない。
間宮は慌てて起こそうとしたのだが、瑞樹のあまりに気持ち良さそうな寝顔を見てしまうと、伸ばそうとした手が自然と止まってしまう。
少し考えた後、止めていた手を瑞樹の太ももの裏に回して、反対の腕を肩を抱く様に滑り込ませた間宮は、なるべく衝撃が伝わらないように注意しながら、そっと立ち上がった。
所謂お姫様抱っこで眠り続ける瑞樹を持ち上げた間宮はゆっくりと隣の寝室へ向かい、自分のベッドに横たわらせた。
床に設置している、薄暗いルームライトだけの灯りだけが支配する間宮の寝室で、ベッドに横たわる瑞樹の姿が小さな光に照らされて、さっきまでワンワンと子供の様に泣きじゃくっていた女の子とは思えない程、美しく色気のある姿を無防備に間宮に晒している。
瑞樹のそんな姿を見てしまった間宮は、何かを堪えるようにグッと手に力を込めて離れようとした時「……んぅ」と少し呼吸を乱しながら体を間宮の方に捻る様に寝返りを打つ。そのはずみで、胸元の外しているボタンの部分から、豊かな胸の谷間が姿を現して、ワイシャツの裾に隠れていたはずの、スッと伸びていた白くて細い太ももが露わになってしまった。
目を逸らそう。間宮の理性がそう命令したはずなのに、その無防備な姿の瑞樹から目を離す事が出来ずに、間宮の思考が鈍りクラクラした感覚に陥ったかと思うと、気が付けば離れたはずの距離を戻して小さな寝息をたてる瑞樹の顔に近付いていた。
(――止まれ!やめろ!)
間宮は必死に無言の叫びを繰り返すのだが、自分の意志と関係なく体が勝手に動き続けてしまっている。
(こんな事したら、絶対に傷つけてしまう。許される事じゃない!絶対に許される事じゃないんだ!)
心の中で激しく起こそうとしている行動を批判すればする程、間宮の支配下から外れてしまった体は言う事を全く聞かずに、とうとう瑞樹の寝息が顔にかかる距離にまで詰め寄ってしまっていた。
(――もうだめだ!)
そう諦めた時、瑞樹の口が小さく動いた。
「んぅ……まみ……や……さん」
小さくか細い声だったが、今の間宮の意識を取り戻すには十分の効果があり、手を離れてしまった本能が理性の手元に戻ったのを感じた間宮は、素早くもう数センチにまで迫ってしまっていた距離を一気に引き離す事が出来た。
もう同じ轍は踏まないと、間宮は目を逸らしながらベッドの足元に畳んでいたタオルケットを広げて、気持ち良さそうな寝顔を浮かべている瑞樹の胸元の高さまでかけてやった所で、「はぁ……」とおおきな溜息をついて両手を両膝に落として項垂れる。
すると、瑞樹はかられたタオルケットを肩の高さまで盛り上げて、気持ち良さそうにタオルケットに包まり、幸せそうな寝顔を間宮に見せた。
「まったく……戦士の……いや、天使の休息ってやつかな」
こんなに気持ち良さそうに眠る瑞樹を起こす事を躊躇った間宮は、1時間程寝かせてからタクシーで加藤の家まで送ろうと、リビングに戻りテーブルに置いてあったスマホから加藤の番号をタップして耳に当てた。
『もしも~し! どうしたの? 間宮さん』
数回コールした後、いつもの元気な加藤の声が聞こえてきた。
「あぁ、夜遅くに悪いな」
『いえいえ! それでどうしたの?』
「いや、それが……さ。瑞樹が今俺の部屋にいるんだよ」
この事を隠しながら今後の話をするのは不可能と判断した間宮は、簡潔にこれまでも経緯を加藤に説明した後、少し眠らせてからタクシーでそっちまで送るから、住所を教えて欲しいと頼んだ。
『なるほどねぇ。送ってくれるはいいけど、無理に起こす事はないんじゃないの?』
「は!? いやいや! それは流石にマズいだろ!」
思わず声を張ってしまった事に気付いた間宮は、慌てて口に手を当てながら隣に寝室の気配を伺ったが、どうやら起こさずに済んだようでホッと安堵した。
『シャワーなんて浴びさせて、間宮さんのベッドに眠らせた時点で、すでにマズい気がするんだけど?』
「うっ! そ、それはそうかもしれないけど、ここまでの状況は事故みたいなもんでな……」
ついさっき、眠っている無防備な瑞樹の唇を奪おうとしてしまった後ろめたいさと罪悪感に加えて、加藤の正論過ぎる正論に、間宮は歯切れの悪い反論しか出来なくなってしまった。
『大変な事になるのなら、もうとっくになってると思うし、こうして私に電話なんてしてこないと思うんだよね。だから、もし志乃が起きなかったら無理に起こさないで、寝かせてあげてくれない?』
加藤にそう頼まれた間宮は、スマホを手に当てたまま寝室のドアを開けて、変わらずぐっすりと眠る瑞樹の姿を見て少し考えた後、寝室のドアを閉めた。
「……分かったよ。じゃあそうさせてもらうから、送る事になったら1度連絡するよ」
『りょ~かい! まぁ、間違いが起こったとしても、無警戒で間宮さんの部屋に入った志乃にも責任があるんだから、間宮さんだけのせいじゃないと思うしねぇ』
「ばっ、馬鹿か!? そんな事するわけないだろ!」
そう反論する間宮の目は激しく宙を彷徨っていたが、電話越しの加藤にそれを知る術はなかった。
『あははっ、じゃね! おやすみ、間宮さん。今日は本当にありがとう!』
揶揄い口調でそう言う加藤は、そのまま一方的に電話を切った。
(あいつ! 完全に遊んでやがったな)
揶揄われて少しムッとした間宮だったが、とりあえず加藤に心配をかける事がなくなった事に安堵して、再び寝室のドアを開けて中の様子を伺うと、相変わらずタオルケットに包まれて幸せそうな寝顔を見せていた。部屋には小さな寝息が聞こえているだけで、その様子を入り口付近で腕を組んでいた間宮は諦めに似た苦笑いを浮かべた。
「まだ当分起きなさそうだし、今の内に俺もシャワー浴びてくるか」
今日は瑞樹と同様に色々な事があり、体の汚れと疲労を洗い流そうと、間宮はバスルームに姿を消したのだった。
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