第8話 2度と見たくなかった顔

 8月21日 登校日


「いってきます!」


 今日は夏休み最後の登校日。

 瑞樹は登校するのには、かなり早い時間に家を出た。

 登校前に寄る所があるからだ。


 学校があるU駅を通り越し、W駅で下車した瑞樹は、表通りを真っ直ぐに目的地に向かう。


 まだ8月下旬だが、早朝だと幾分か爽やかな風が吹き、気持ちがいい。


 表通りを歩いていると、カフェなどの一部の飲食店が開店していて、爽やかな風に乗っていい香りが漂ってくる。

 そんな歩き慣れていない通りを歩いていくと、より一層香ばしい香りが瑞樹の嗅覚を刺激した。


 ベーカリー OOTANI


 以前メロンパンを試食した店だ。


 店に到着すると、立ち止まらずに勢いよく店内に入る。


「おはようございます。大谷さん!」


 元気に挨拶しながら、まっすぐにレジへ向かい、レジの後方にある工房に呼びかけると、少し小太りの店主がひょっこり顔を出した。


「おはよう瑞樹ちゃん。随分早かったね」

「あははっ、気になっちゃって早く来ちゃいました」

「わっはっは! そうかぁ! 丁度今焼きあがった所なんだよ。これが頼まれてた試食用のパンだ」


 瑞樹は大谷に工房へ通してもらい、焼きあがったばかりのパンを目の前のテーブルに並べて貰った。


 試食用に用意して貰ったパンは、通常の大きさから比べると25%の大きさで、とても可愛らしいパンだった。

 この店のウリであるメロンパンを筆頭に、他に4種類の計5種類の可愛らしいパン達に、瑞樹の目はキラキラと輝く。


「可愛い! これ試食用だからこのサイズでお願いしましたけど、実際に販売するパンもこれ位か、半分の大きさでもいいかもしれませんね!」

「そうだなぁ! それはいいかもしれないね! もしこのサイズで仕入れるとなれば、一度に焼く個数が増やせるから、前に話した価格より安く出来ると思うよ」

「ホントですか!? じゃあサイズも含めて、今日のプレゼン頑張らないとですね!」

「わっはっは! 期待してるよ!」


 実は瑞樹の誕生日会の翌日、仕事の邪魔になりにくい時間帯を狙い、単身突撃交渉に出向いていた。

 交渉を持ち掛けた時は、高校生の文化祭で売りたいと申し出ると、大谷は難色を示したのだが、瑞樹の熱意という名の執念に打たれた大谷は「負けたよ」と交渉に応じてくれたのだ。

 交渉の結果、価格もかなり安く見積もって貰えた事とパンの味で、今日クラスで行われるプレゼンになんとしても勝たなくてはならない。


「あっ、大谷さん。全部でおいくらですか?」

「えっと……計算面倒臭いから、試食用の分はサービスでいいよ」

「え? いえ! そういうわけにはいきませんよ」

「遠慮はいらない。実はさ、初めてウチに来て、熱心に今回の話を持ち掛ける瑞樹ちゃんを見て、嬉しかったんだよね」

「嬉しかった……ですか?」

「あぁ! 瑞樹ちゃんがウチと取引がしたいと決めた理由が、メロンパンだったのが嬉しかったんだよなぁ」


 大谷はテーブルに置かれているメロンパンに眺めて、ふふっと嬉しそうに微笑む。


「ウチのメロンパン凄く美味しかったって誉めてくれたでしょ? 俺としてもメロンパンには特別な思い入れがあってね、どこにも負けないメロンパンって奴を追求してるんだよね。俺のパン職人としての原点はこのメロンパンなんだよ――だから単純に嬉しかったし、瑞樹ちゃんとなら一緒に仕事がしたいって思ったんだ」


 間宮はメロンパンに目がない。

 この事実だけで動き始めた自分に、そのメロンパンのおかげでこんな素敵な出会いがあるなんて、瑞樹は想像もしていなかった。


「だからさ! この試食用のパンは俺からのプレゼン成功を祈るエールだと思って、受け取って欲しいんだよ」


 ビジネスパートナーにそこまで言われてしまうと、もう何も言えなくなり、瑞樹は手に持っていた財布を鞄に仕舞った。


「分かりました、ではこのパンは有り難く頂きます。ありがとうございます」


 瑞樹は大谷の気持ちを酌み、準備されていたパンを紙袋に詰めて、プレゼンの成功を誓い店を後にした。

 話し込んでしまい少し時間に余裕がなくなった為、小走りで駅を目指した瑞樹だったのだが――。


「あれ? 瑞樹じゃね?」


 その声を聞いた瞬間、駅に急いでいた足がピタリと止まった。


 この声――忘れたくても忘れられなかった声。

 顔から血の気が引いていくのが、分かる。

 脚が震え、喉が一気に乾く。

 震える唇をギュッと噛み締めて、声をかけられた方に恐る恐る顔を向けた。


「おぉ! やっぱり瑞樹じゃん! 久しぶりだなぁ、おい!」


 瑞樹を呼び止めた男は、不敵な笑みを浮かべてながら、咥えていた煙草をプッと吹き出す。


「……平田」


 瑞樹はその男の事をそう呼んで、憎しみの籠った目で睨みつける。


「おい平田ぁ。瑞樹って前にお前が言ってた女の事か?」


 平田と呼ばれる男の他に、2人の男が一緒に立っていて、その内の1人が平田にそう訊いた。


「あぁ!そうだ。お前その話で爆笑してたよなぁ」

「クックックッ! あれは傑作だったからな!」


 2人はいやらしい目つきで、瑞樹を舐めまわすように見ている。

 その視線が、瑞樹には気持ちが悪くて仕方だなかった。

 吐き気すら覚える程に……。


 3人の視線に後退りした瑞樹は、そのまま離れようとしたのだが、また聞きたくない声で呼び止められる。


「おい! 待てよ! 俺達オールで遊んでたんだけどよ。まだ遊び足りねぇなって話しててさぁ! お前も付き合えよ」

「は? 何で私がアンタなんかに付き合わないと、いけないわけ!?」

「いいじゃん! 付き合えって!」


 平田はそう話すと同時に、まるで蛇に睨まれた蛙のように、固まっている瑞樹の腕を掴んだ。


 掴まれた腕から、全身に鳥肌がたつ。


「離せよ!! 私に触るなぁ!!!!」


 瑞樹は大声をあげながら、掴まれた腕を力いっぱい振り払う。


「おいおい、そんなに拒否られると、傷付くなぁ」

「ふざけんなっ!! どの面下げて私にそんな事言えんのよ!! アンタのせいで私がどんな目にあったか、知らないわけないでしょ!!」

「……あの時は悪かったって! 本当に反省してんだぜ?」

「白々しい! お前が反省なんて絶対にしない! それは私が一番知ってる!!」


 平田はヤレヤレと肩をすくめて、ニヤリと品の無い笑みを浮かべる。


「その制服って英城だよな? 今英城ってネットで話題になってんじゃん! 神楽優希が単独ライブするってよ! チケットなんてすでにプレミアム化してるって話じゃねぇか」

「それが!?」

「俺達も神楽優希って結構好きでさぁ。お前の文化祭のチケット3枚程俺達に回してくれよ」

「は? 何で私がアンタらなんかに、そんな事してやらないといけないわけ?」


 瑞樹は睨みつけたまま、平田の理解に苦しむ要望を拒否した。


「さっきから酷い言われようで、流石の俺も傷付いたわ」


 瑞樹は平田の戯言を無視して、震える足に無理矢理力を込めて立ち去ろうとしたが、背中から平田の威圧した声が届く。


「じゃあ、英城の奴を適当にシメてチケット頂くしかないなぁ! そうなったらそいつがシメられたのはお前のせいだからな! 瑞樹!」


 平田の台詞に肩がビクッと跳ねて、握り拳を作った両手が震える。


「……なにそれ? 脅しのつもり?」


 背を向けたまま、瑞樹は視線だけ平田に向け睨みつけた。


「さぁ……どうかなぁ」


 ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべている平田達が瑞樹の方に歩き出し、擦れ違い様に呟くように話しかける。


「必ずお前んとこの文化祭に行ってやる。傷付いた俺が何をするか……お前ならよく知ってるよなぁ。楽しみにしてろよ」


 平田はそう言い残し、他の2人を引き連れて瑞樹の傍を立ち去った。


「っ!……は、はぁはぁ――ゲホッ! ッ! はぁぁ、はぁはぁ……」


 3人が完全に視界から消えた途端、瑞樹は膝から崩れ落ちるように、その場にしゃがみ込んだ。


 呼吸がし辛い。心臓が苦しい――体に力が入らない。


 瑞樹は思い出したくもない、あの時の事が走馬灯のように頭の中で流れていく。


「ゲホッ! ゲホッ! オェ……フゥ、フゥ、フゥ……」


 ついには吐き気を覚え、慌てて手を口元に当てた。


 瑞樹の傍を通りかかった何人かの通行人が、そんな瑞樹を心配してかけってきた声も耳に届いていおらず、放心状態になり動けなくなってしまった。


 そんな時、鞄に入れていたスマホが震えているのに気付き、力なくスマホを取り出し着信内容と確認すると、加藤からトークアプリにメッセージが届いていた。

 トーク画面には『今日プレゼンの日だったよね? 結果が気になるから前から行こうって言ってたショップにランチに行かない?』という内容だった。

 加藤は自分の過去を知っている、数少ない友人だ。


 瑞樹は縋る思いで、加藤に平田の事を書きこんで送信すると、すぐに返信が届く。


『今はその事は忘れて、プレゼンに集中しな! あんなクソ野郎の為に、これまでの努力を無駄にするつもり!? 間宮先生を文化祭に呼ぶんだよね!? 平田の事はお昼に訊くから、志乃は今出来る事を頑張れ!』


 加藤の心強い返信に、体に力が入り目に輝きを取り戻した瑞樹は、ゆっくりと立ち上がる。


 (――そうだ。プレゼンだ……頑張らないと協力してくれた大谷さんにも迷惑をかけてしまう)


 瑞樹はまだ小刻みに震える足に鞭を打ち、覚束ない足取りではあったが、確実に一歩、一歩と学校へ向かい始めた。


 ◇◆


 少し遅刻してしまった瑞樹は、教室に入り担任に頭を下げて席に着くと、丁度これから文化祭の打ち合わせが始まるところで、前回同様教壇に委員長達が立ち、打ち合わせ会議が始まった。


 始まってすぐに殆どの生徒から、同じ問題が報告される。

 その問題とは、神楽優希が単独ライブを行う事がどこからか漏れてしまったようで、その事がネットに上げられてしまったという事だった。

 それにより、チケットを求めるメールや着信が鳴りやまない事態に陥っているというものだった。


 この問題はすでに学校側も周知していて、大きなトラブルになる前に即座に対応すると、委員長に変わって担任が生徒達に返答を返して、一先ず生徒達は様子を見る事で合意した。


 次に各役割分担の確認と、それぞれ必要な備品のリストアップを行い、予算内で収まるように話し合いを行った。

 その予算の振り分け次第になるのだが、裏方以外のスタッフに制服が必要か不必要かの論議にはいる。

 男子達は当然のように必要だと主張するのだが、これに女子達が猛反発。

 この議題はかなり難航したが、最終的にデザイン次第で決める事で保留になった。


 そうなると当然モデルが必要になるのだが、議長がモデルを誰にするか投げかけると、男女共に1人の女子に視線を集める。



 会議が白熱する中、瑞樹はどうしても今朝の事が頭から離れなかった。

 考えないようにしようとすればするほど、平田のいやらしい笑みを思い出してしまう。

 いつの間にか、瑞樹は会議から意識を外し窓の外を眺めていた。

 誰かが遠くで自分の名前を呼んでいる気がしたが、気に留める事も出来なくなっていた。


 すると、クラス中から沸き起こる拍手と男子達の歓声が響き、頬杖をついていた瑞樹の意識がクラスの中に戻る。


「え? な、なに?」

「瑞樹またやったな! てことでモデル頼んだぞ!」

「え? モデルってなに!?」

「何ってカフェで着用する制服を実際にデザインして、サンプルを制作して、採用するか決める為に瑞樹にそのモデルをやってもらう事になったから」


 バンッと机を叩き席から立ち上がる瑞樹は、当然のように議長を務める委員長に噛みつく。


「はぁ!? 何で私がそんな事しないといけないの!? フロア担当は私だけじゃないじゃん!」

「いや、だって……」

「だって? なによ」

「お前またこの場にいながら、会議に参加してなかっただろう?」

「ングッ!」


 またやってしまった事にようやく気付いた瑞樹は、自分の馬鹿さ加減に腹を立てた。

 それはモデルを押し付けられた事ではなく、この文化祭で外部おおたにの人間を巻き込もうとしているのに、そんな大事な会議に私情を持ち込んで、挙句の果てに話し合いを上の空で会議に参加していなかった自分に腹が立ったのだ。


「ごめん! モデルの件了解! 会議を続けて!」


 そんな自分に腹を立てたのをきっかけに、平田の事は完全に放り出してスイッチを切り替えた。


 そして今日の最後の議題である、パンの仕入れについての議論が始まった。


 試食用のパンを用意したのは、瑞樹の他に4人いた。

 壇上に立っている議長達が、パンを人数分行き渡るように準備する。

 プレゼンターはその間、黒板にプレゼン内容を書き込む。


 準備が整うと、早速プレゼンが始まった。


 瑞樹は思う。

 自分は間宮を誘う口実の為に、走り回ってパン屋を探して交渉を行い、今この場に立っているが、他の3人にはこんな事をして何のメリットがあるのだろうと……。


 自分の出番は最後だった為、瑞樹はプレゼンしているクラスメイトと、そのプレゼンに耳を傾けているクラスメイト達を見渡して、その理由が解った気がした。


 1年の時は、周りの顔色を伺いながら、目立たないようにしていただけだった。

 それが一番安全だと思っていたからで、あくまで自分の事しか見てなかった。それが最善策だと思っていたからだ。


 でも、今の自分は自分の事を考えて行動していない。

 それは確かに邪な理由かもしれない。

 でも、それでも、目的に向かって団体行動に参加している事は、自分にとって大きな意味を持つと思っている。


 そういう目で周りを見てみると、皆同じなのだと気付いた。

 理由は十人十色なのかもしれない。

 でも、同じ目標に向かって何かに取り組む事を、皆楽しんでいるんだ。

 カフェの成功の為に、クラスの為に、自分が楽しむ為に今こうして会議を行っているんだと思うと、瑞樹もその1人になれたんだと誇らしい気持ちになれた。


 負けるつもりは更々ないが、瑞樹は他のプレゼンを興味深く聞き入る事にした。

 プレゼンが行われる中、用意された試食用のパンも順に生徒達の口に運ばれて行き、どれも評判が良いようだ。


 最後に瑞樹の順番が回ってきた。

 定価の価格からどれだけ値引き引き出して仕入れるかとまず説明して、実際の仕入れ価格を報告した後、店側の条件を合わせて説明した。

 完売すればどれだけの利益を生むか熱心にプレゼンを行った後、生徒達にパンを実食して判断してもらいたいと告げる。


「う、うまっ!!」

「このパンヤバくね!?」


「美味しい! 特にメロンパンがヤバい!」

「だよね! これハマるんだけど!」


 次々に聞こえてくる生徒達の声に手応えを感じた瑞樹は、最後にパンのサイズをこの大きさにすれば、更に安く仕入れる事を説明して、プレゼンを終了した。


 試食会が終わり、すぐに投票に入る。

 皆の色々な意見が飛び交いながら、集まった投票用紙を集計した結果。

 瑞樹がプレゼンしたパンが圧倒的な票数を獲得して、文句なしでベーカリーOOTANIからパンを仕入れる事が決定した。


 プレゼンを行った4人は壇上で一礼して、それぞれの席に戻る。

 瑞樹も席に戻り、周りに見えない位置で小さくガッツポーズを作った。


 白熱したプレゼンを終え、今日の議題を全て消化した後、担任から今回の文化祭のチケットが生徒達に配布された。


 例年通り1枚で2名まで入場可能なチケットを、1人あたり10枚渡されたのだが、今年の目玉イベントに神楽優希の単独ライブが行われるとあって、ネットでもすでに騒がれている事も考慮されたからなのか、チケットが特殊な作りになっていた。

 複製を防止する為に、かなり特殊な紙が使用されており、更に転売等を防止する意味を含めて、チケット1枚、1枚に受け取った生徒達の顔写真とフルネームが印刷されていた。

 顔写真が印刷されている事は、一部の生徒達から反対の意見もあったのだが、あくまでトラブルを未然に防ぐ為の処置だからと、反対した生徒達に担任が説明すると、少し納得がいかない顔をしていたが、とりあえず了したようだ。


 瑞樹もチケットを受け取り、ここからが本当の勝負だと気合いを入れ直す。


 会議を終えそのまま解散の流れになったのだが、裏方担当の生徒はこのまま残り、店の内装や備品のリストアップの作業に入る。


 何だか一気に文化祭の空気に変わり、去年は他人事としか考えていなかった瑞樹にとっては、今年はクラスの一員になれた気がして心を躍らせた。


 ホール担当の瑞樹はすぐに下校しようと廊下に出たところで、麻美にカフェに行こうと誘われたが、行くところがあるからと断り足早に駅へ向かう。

 自宅とは反対側の上り線から電車に乗り、W駅で下車して表通りを駆け足で進み、ベーカリーOOTANIへ到着すると、今朝より勢いよくドアを開け店内に入った。


 店内には数名の客がパンを選んでいた為、迷惑にならないように気を付けながら、工房にいる店主に声をかける。


「こんにちは。大谷さんいますか? 瑞樹です!」


 弾けるような瑞樹の声を聞いて、工房から大谷が姿を見せる。


「いらっしゃい! プレゼンはどうだった?」


 大谷がすぐにプレゼンの結果を訊くと、瑞樹は満面の笑みを見せ大きなピースサインを作り、大谷の顔の前に突き出した。


「プレゼンは大成功でした! これで正式な契約を結んでもらえますか?」


 瑞樹は大谷が出した条件も全てクリアしたと報告して、契約の話をきり出す。


「おめでとう! 勿論契約させてもらうよ。商品の方も腕によりをかけるから、期待してもらって構わない!」


 大谷は瑞樹に向かって、サムズアップしてそう言い切った。


 細かい打ち合わせは後日にする事になり、瑞樹は店を出て加藤と待ち合わせている店に急いだ。


 ◇◆


 その日の夜。


 帰宅した瑞樹は、自室でスマホと向き合っていた。

 文化祭のチケットを渡そうと、間宮に連絡を取ろうとしていたのだが、電話をする勇気がでない。

 ならばとトークアプリを立ち上げ、試行錯誤の末に何とか文章を書き上げた――だが、送信ボタンをタップ出来ずにいた。


 送信を躊躇っているのは、断られたらという不安もあったが、それ以上の心配事があるからだ。


 ――もし文化祭に平田あいつが本当に来て、間宮さんと一緒にいる時に絡まれたりしたら……。


 間宮さんに昔の事で迷惑をかけたくない。


 中学と時と違って、私の学校で同じ事をやろうとしても、平田あいつにそんな権力はない。

 私1人でも学校内なら対処出来るはず……よね!


 ――でも……間宮さんと文化祭を楽しむ為に、ここまで頑張ってきたのに……何でまた平田あいつが私の前に現れるの――。


 悔しくて手が震える。

 これじゃあ、何の為に無理をして英城に来たのか、解らない……。

 瑞樹は悔しさで歯を食いしばりながら、間宮に宛てた文章を消去した。


 ――駄目だ……やっぱり間宮さんを巻き込むわけにはいかない。


 間宮にアプリでメッセージを送ろうとしたのは、今回が初めてではない。

 間宮から名刺を貰った翌日から、瑞樹は毎晩スマホと睨めっこしていた。

 特に用事があるわけではない。単純に間宮と話がしたかっただけなのだが、食事中だったらどうしよう、お風呂だったら迷惑かも……寝てて起こしてしまったら最悪だ。

 高校生である瑞樹には、社会人である間宮の生活リズムが解らず、タイミングばかり気にしてしまった為、結局一度もメッセージを送れずにいたのだ。


 ――でも、今日は大切な用件があったから、こうしてメッセージを送るのを楽しみにしていた。


 (――なのに……何でこうなるの?)


 ベッドの上でスマホを抱き込むように蹲り、瑞樹は声を殺して泣いた。

 だが、声を殺していても、悔し過ぎる気持ちが嗚咽となって漏れ、その声無き声が、瑞樹の部屋の前に立っていた希の耳に届く。


 (――お姉ちゃん)


 希は珍しくノックをしようとしていた手を下ろし、何も言わずに自分の部屋に戻って行った。


 ◇◆


 いつも通りの時間にゼミでの講義を終えて、駅までの道を一人で歩く瑞樹は、どうしても平田の事が頭から離れずに、苦しそうな表情を浮かべていた。

 足取りが重く、人混みを避けて歩く事が苦痛に感じた瑞樹は、まるで現実から逃げるように、普段なら遠回りになってしまうからと避けている、いつも人気が少ないホームのベンチに腰を下ろす。


 遠回りになってしまう原因は、電車を乗り降りする際、改札から一番遠い位置にあるせいで、時間がかかってしまうのだ。

 その為、普段からこの周辺は人気が少なくいつもガラガラの状態だった。

 そんな場所に、こんな時間だと人気が全くなく、まるでこの場所だけ切り取られたような疎外感を感じる場所だった。


 そんな孤立されたようなベンチで、瑞樹は深刻そうな顔つきで大きな溜息をつく。


 あの後、自分の過去を知っている加藤に相談した。

 加藤は気にしないで、間宮にチケットを渡して文化祭に誘うべきだと言ってくれたが、やはり間宮の身を案じると、チケットを渡す気にはなれなかった。


「お~い! 何でっかい溜息なんてついてんだよ。せっかくの美少女が台無しだぞ」


 耳に良く馴染む、低くて、優しい声。

 言ってる事は恥ずかしいものだったけれど、誰が声をかけてきたのかなんて、顔を確認しなくても分かってしまう――大好きな声が耳に届いた。

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