第3話 オムライスとナポリタン
合宿から帰った週末の日曜日。
仕事から離れていた間に溜まった仕事を、合宿明けの翌日から取り掛かっていた間宮だったが、どうしても追い付かない為、止む終えず土曜、日曜と出勤して残務処理に奮闘していた。
オフィスチェアに体重を預けて、グッと背筋を伸ばして大きく息を吐く。
「――やっと粗方片付いたな。後は天谷社長のプレゼンを詰めれば完全に追い付くぞ」
肩の力を抜いて腕時計に目をやると、間宮は苦笑いを浮かべる。
「もう1時過ぎてるのか」
今の時刻を知った途端に、腹が減っている事を自覚した間宮は席を立ち、PCの電源を落とす。
「プレゼンは明日から本格的にやるとして――腹減ったし、何か食って帰るかな」
そうと決まればと、間宮は手早く帰宅支度を済ませ、殆ど人がいない会社を後にして、指を顎に当て少し考える。
「さてと……よし! 久しぶりに杏さん『いつもの』食べに行くか」
間宮は人通りが少ないオフィス街をのんびり歩いて、目的の店に向かった。
杏の店とは、間宮の会社から3分程の近場にある『scene』というカフェバーの店だ。昼間はオーナーの奥さんの杏が営んでいて、夜のバータイムは杏の主人である関 和正がマスターとしてシェイカーを振っている。
常連からは関さんや、せっちゃんと呼ばれて親しまれており、間宮も入社当時に先輩と訪れてから度々通うようになり、今では1人でも足を運ぶ事が多くなった常連の客だ。
のんびりと歩いても5分とかからずsceneに到着して、慣れ親しんだ店のドアを開けて店内に入ると、ママの杏が間宮に気付いて、いつもの明るい笑顔を向けてくれた。
「あら、間宮君! 久しぶりじゃない。元気にしてたの?」
「杏さん、久しぶり! 元気にやってたよ。杏さんも元気だった?」
「私は相変わらずよ。それにしても本当に久しぶりね! 何かあったの?」
杏は間宮の顔を見て嬉しそうに声をかけて、まるで息子が帰ってきたように迎え、いつものカウンター席を薦めて、そっとおしぼりを手渡した。
「うん。静岡に1週間程出張に出てて、急な事だったから事前に片付けないといけない仕事が山積みになってて、満足に昼休憩をとる時間もなかったんだ」
「間宮君が出張って珍しいんじゃない? 確か担当している顧客って殆ど都内って言ってわよね?」
「まぁね。ちょっと特殊な出張だったんだよ。色々あったけどようやく落ち着いたとこ」
「そうなのね。でも無事にこなせて何よりね。あ、注文は何にする?」
にこやかに微笑んで注文を聞いてくる杏に、間宮は当然と言わんばかりに人差し指を立てる。
「当然、いつものやつでしょ!」
「了解! 久しぶりなんだし、いつもより気合い入れて作るわね」
杏は得意気な笑みを浮かべ、材料を準備しながらコンロに火を灯す。久しぶりに見る杏の手際の良さが、間宮の食欲と心を躍らせた。
外が熱くて喉が渇いていたから、差し出されていた水を一気に飲み干そうとした時、隣の席にいる客から声をかけられる。
「――間宮……さん?」
グラスの水を口に含みながら、隣の席を見るとキョトンと首を傾げた女性がこちらを見ていた。
その女性を見た間宮は、思わず口に入った水を吹き出してしまい、カウンターのテーブルを濡らしてしまった。
「ご、ごめんなさい」
隣に座っていた女性は、慌てて自分のおしぼりで濡らしてしまったテーブルを拭きだすと、卵をかき混ぜていた杏が「なにやってんのよ!」と新しいおしぼりを投げ渡す。
「ごめん! 杏さん」
俺は受け取ったおしぼりでテーブルと少し濡れてしまったスラックスにおしぼりを当てた。
「――大丈夫ですか!?」
テーブルの水を拭き取り終えた女性が、覗き込むようにそう訊いてきた時に、改めてその女性に視線を移すと、そこには共に合宿を過ごした藤崎の姿があった。
「――藤崎先生!?」
「は、はい。やっぱり間宮さんですよね? まさかと思って声をかけてしまったんですが……」
「どうしてここに藤崎先生が?」
「どうしてって、ここでランチをしていただけですよ。間宮さんこそどうして? 今日はお休みのはずですよね?」
藤崎は間宮が普通の会社員だと知っていた為、日曜日にスーツ姿でここにいる事が不思議だったようだ。
「僕も今日はさっきまで会社で仕事をしていて、昼時だったのでランチをここで食べようと思って――」
「なにやってるの! 間宮君!――お客さんごめんなさいね。大丈夫でしたか? どこか濡れませんでしたか?」
料理を中断した杏が、藤崎に新しいおしぼりを手渡しながら、間宮に変わって頭を下げた。
「あ、いえ。私は大丈夫ですから、気にしないで下さい」
藤崎は頭を下げる杏に、気にしていないと告げながら、両手を左右に振っているのを見て、間宮も申し訳なさそうに後頭部を掻いた。
「失礼しました――藤崎先生」
杏に続いて間宮も頭を下げると、藤崎は慌てて席を立ち2人に頭を上げてと促した。
「い、いえ、ホントに気にしないで下さい。それよりさっきまでお仕事してたって言ってましたが、勤めている会社ってこの辺りなんですか?」
「あれ? 言ってませんでしたっけ? 僕の勤めている会社は、ゼミの並びにあるんですよ」
頭を上げながらそう答えると、藤崎は目を大きく見開いていた。
「えぇ!? そうだったんですか!? 間宮さんがこんなに近くにいたなんて――」
「そうなんですよ。それで昔からよくこの店に足を運んでいたんです。藤崎先生もよく来られるんですか?」
「いえ、昼間に来たのは初めてなんです。いつもはお弁当を作っていたんですが、昨晩は遅くまでテスト問題を作っていて、寝坊してしまって……。このお店で歓迎会を開いてもらった時に、ランチも美味しいと伺っていたので来てみたんですけど、間宮さんに会えるとは思っていませんでした」
「そうだったんですか。それでここのランチデビューはナポリタンってわけですね」
「はい。私的にはカフェのフードメニューはナポリタンだと思ってて、ナポリタンが美味しかったら、他のメニューも絶対に美味しいはずなんです」
「言ってる事は解りますよ。それで、ここのナポリタンはどうでしたか?」
「それがとっても美味しいんですよ! 特にこのケチャップが……」
藤崎がアツくナポリタンの感想を語っている最中に、間宮が注文していた『いつもの』を杏が運んできた。
「おまちどう! 間宮君。いつものオムライスね!」
「おっ! きたきた! ありがとう。杏さん」
オムライスを乗せた皿を間宮の前に置いてから、杏は藤崎を見て指を顎先に当てながら、得意気な表情を作る。
「お客さん。そのケチャップの味が分かるのねぇ――それ拘りの自家製なんですよ」
「自家製なんですか!? それでこんなにまろやかな酸味なんですね。凄く美味しいです」
「フフ、ありがとう。それはそうとさっきから気になってたんだけど、お客さんと間宮君は知り合いなんですか?」
杏にそう問われ、間宮と藤崎はお互いの顔を見合わせて、クスっと笑みを零した。
「うん。藤崎先生は天谷さんのゼミで講師をしていて、さっき言った特殊な出張ってのが、ゼミの夏期合宿の講師をする事だったんだよ。その合宿で藤崎先生と知り合ったんだ」
「あっはっは! 間宮君が講師にねぇ! それは確かに特殊な出張ね――でも、そうなんですか……天谷さんのゼミの先生だったんですね。天谷さんも時々来てくれるんですよ」
「社長も来られるんですか。それは会話に気を付けないとですね」
すっかり藤崎と杏が仲良くなり会話が盛り上がったところで、間宮は久しぶりの杏特製オムライスを頬張り始めた。
「ん~! やっぱオムライスはこれだなぁ!」
本当に美味そうに食べる間宮を見て、藤崎はメニューを見てみたのだが、どこにもオムライスなんてメニューは記載されていない事に首を傾げた。
そんな藤崎を察したのか、間宮はスプーンを置いてこのオムライスについて口を開く。
「実はこのオムライスはsceneの裏メニューなんですよ。数に限りがあって一部の常連客にしか提供されないんです」
「オムライスが裏メニューなんですか?」
「僕も詳細は知らないんですが、色々と仕込みに手間がかかるそうで」
そう話し終えた間宮が、再びスプーンを手に持ち美味そうにオムライスを食べだしたのを眺めている藤崎の喉がゴクリと鳴る。
「ま、間宮さん……一口でいいので……その」
「はは、構いませんよ。杏さんごめん。スプーンを……」
藤崎用にもう一本スプーンを頼もうとしたのだが「大丈夫です」と、杏にスプーンはいらないと告げた藤崎を見ると、オムライスを眺めながら小さい口を開けて待っていた。
「は、早くしてくれないと……は、恥ずかしいんですが」
催促する藤崎の頬が少し赤く染まっていた。
(恥ずかしいのなら、しなきゃいいのに……俺も恥ずかしいし――)
間宮は観念して、藤崎の小さな口に入る大きさにオムライスを掬うと、少し震えるスプーンを藤崎の口に届けた。
「……ん」
僅かに悩ましい声を出して、スプーンを加える唇が妙に色っぽく見えて、間宮はあの日、不意に藤崎が頬に口づけを落としたシーンを思い出して、思わず目を逸らした。
そんな事を知ってか知らずか、藤崎はオムライスをじっくりと味わいながら飲み込むと、両手を頬に当て両足をパタパタと前後に動かしながら目を輝かせた。
「ん~~!! 美味しい! こんなに美味しいオムライス食べたの初めて!」
藤崎は間宮以上に幸せな表情で、杏特製オムライスを称賛した。
そんな藤崎を眺めながら、女性っていくつになっても、美味い物を食べている時が一番幸せな顔をするなと思いながら、間宮は食事を再開しようとすると、目の前にあったはずのオムライスが皿ごと消えている事に気付く。
「あ、あれ?」
目の前にあったはずのオムライスがない。そして隣でまた美味しいと連呼する声が聞こえる。
(……まさか)
恐る恐る隣に座っている藤崎にゆっくりと顔を向けると、そこには満面の笑みで見覚えのある皿を手に持ち、最後の一口分のオムライスを口へ運ぼうとする藤崎がいた。
「あっ!」
そう声を出すのと同時に、藤崎の口に最後のオムライスが吸い込まれた。
絶望の瞬間を目の当たりにしたような顔をした間宮が、ガクッと肩を落とすと、藤崎と杏が吹き出しお互いの顔を見合わせて笑う。
杏は笑い合っている藤崎に興味をもったのか、藤崎の座っているテーブルに手を添えて、ニカっと笑みを向ける。
「いいねぇアンタ! 気に入った! 藤崎先生だっけ? そんなにウチのオムライスが気に入ったのなら、今日はもう材料がないけど、これからは事前に連絡くれれば、藤崎先生の分も準備しておくよ」
杏は初見の藤崎に、常連にしか提供しないはずの裏メニューの提供を約束した。
「本当ですか!? 凄く嬉しいです! お給料が入ったらガンガン食べに来るので、宜しくお願いします!」
藤崎は感激を隠さずに、杏の手を握りしめて嬉しそうに満面の笑みを零す。
「あ、あのですね……藤崎……先生?」
そんな藤崎にジト目を向けて、力ない声で訴える。
「あっごめんなさい。つい手が止まらなくなってしまったんです。ご馳走様でした! 間宮さん」
ナプキンを口に当てて、満足そうに笑みを浮かべ悪びれる事なく、藤崎はペコリと会釈した。
間宮は溜息をつき、もう一度オムライスを注文しようとしたが、杏からもう材料がないと無情な返答を受け項垂れながら、仕方がないとナポリタンを注文した。
しょげる間宮を藤崎と笑い合った杏が再び鍋とフライパンに火を当て、ナポリタンを作り始めるのを、頬杖をついて水が入ったグラスを弄りながら、杏の手元を眺めている間宮に、藤崎が申し訳なさそうに話題を変えてきた。
「間宮さんのその腕時計って『OZONE』ですよね?」
OZONEとは、ここ数年で急激に伸びてきた時計ブランドで、独創的なデザインが若い世代から支持を受けているメーカーだ。
「えぇ、そうですよ。これって有名なんですか?」
「あれ? 知らなくて買ったんですか? 雑誌なんかでもよく取り上げられている有名なブランドじゃないですか。間宮さんが使ってるのなら思い切って講師の初任給で買っちゃおうかなぁ――あっそうしたらペアウォッチになっちゃいますね!」
両手を口に当てて、恥ずかしそうにチラチラと横目で見ながらそう話す。
「はは、ペアウォッチと言っても、そんなに流行ってるのなら大勢の人達とペアになるんだから、気にする事ないじゃないですか」
藤崎とは対照的に涼しい顔でそう応えると、ムッとした顔で口を尖らせる。
「ムッ、それはそうですけど、こういうのは気持ちが大事なんですよ! 間宮さんと私だけのペアだと思ったら、そうなるものなんです!」
「なるほど……そういうものなんですね。勉強になりました」
間宮の反応を見た藤崎は、得意気に腕を組んでドヤ顔を見せる。
「分かればよろしい! この授業料でさっきのオムライスはチャラって事で!」
「えぇ!? 随分と高い授業料ですね……」
目を丸くする間宮に思わず吹き出し、可笑しそうに笑う藤崎に間宮は苦笑いを浮かべた。
注文していたナポリタンとサラダが運ばれ食事を再開しながら3人で談笑していると、カウンターに置いてあった藤崎のスマホからアラームが鳴りだした。
「おっと、いけない! 午後の講義が始まるので、杏さんお会計お願いします」
藤崎は慌ててカウンターの椅子から降りて、鞄から財布を取り出しながら、杏に伝票を渡そうとすると、その伝票を間宮が横取りしてニヤリと笑みを浮かべる。
「藤崎先生。ここは僕が払っておきますから、もう仕事に戻ってもらって構いませんよ」
「え? いえいえ! そんなわけにはいきません」
藤崎は両手を左右に振りながら、間宮の申し出を断ろうとしたが、横取りした伝票を自分の伝票に混ぜてしまった。
「合宿で散々御馳走になった缶ビールのお返しなので、気にしないで下さい」
「いえ、でも……あれは私が勝手に買ってきた物ですし」
手に持っている財布の行方が定まらない様子の藤崎を見て、杏は呆れる様に溜息をつき、2人のやり取りに割って入った。
「いいじゃない。間宮君はお返しがしたいだけなんだし、遠慮する事ないわよ。ここは間宮君の顔を立ててやったら?」
杏は片目を閉じて、ニッコリと笑顔でそう促すと、藤崎は大人しく財布を鞄に仕舞った。
「はい。では御馳走になります。ありがとうございました」
「どういたしまして。お仕事頑張って下さい」
「はい! それじゃ、また!」
間宮にペコリと頭を下げて、店のドアを開けて足を止めた。
「杏さん御馳走様でした! 凄くおいしかったです。また絶対に来ますね!」
「ふふ、ありがとう。待ってるよ」
間宮と杏に小さく手を振り、元気に仕事に戻る藤崎を店の窓越しに目で追った間宮は、クスっと笑みを零す。
すっかり日常の生活に戻った8月の昼下がり。
優しい
合宿に同行してから、自分にとって大切だと思える人が増えたように思う。自分の年齢では、この辺りが限界だと引いていた線が、呆気なくプツッと切れそうになっている事を自覚した。
そんな事を考える、自分が最近好きになってきた。
優しい空気、優しい時間が背負った重みを和らげてくれる気がする。
そんな繋がりを得た時間を大切にしたいと、出来たてのナポリタンを味わいながら、間宮はそんな事を考えていた。
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