2章 終話 仲間達との誓い……そして自分へのけじめ act 6

 下り線のホームに向かっている途中で、間宮は何気なくスマホを取り出して画面を立ち上げた。


「あれ? 充電切れてる……いつから切れてたんだ?」


 ボソッと呟きながら、間宮は一応持ってきていた携帯用のバッテリーにスマホを繋ぎ電源を立ち上げると、凄い件数の不在着信の履歴と無料通話アプリのトーク欄に未読のメッセージが届いていた。

 内容をザっと確認してみると、全て同僚の松崎からだった。

 恐らく出張中に任せていた仕事の進捗具合の連絡だろうと、エスカレーターの手前で通路の端に寄り、壁に凭れる恰好で松崎の番号をタップしてスマホを耳に当てた。


 電話に出た松崎の話を聞くと、やはりゼミの前にある駐車場へ出向いた事以外は仕事の進捗状況報告だった為、間宮は松崎と暫く話し込みだした。


「うん、そうだな。サンキュ! 大体把握出来た。詳しい事は明日会社で話すけど、その女子高生に変な事言ってないだろうな?」


 ――遠くから息を切らす声と、通路を走る足音が聞こえた気がした。


「はは! 分かったよ! あぁ、じゃあ明日会社で……」

「間宮先生!!」


 松崎と通話を終えようとした直前に大きな声で呼ばれて振り向くと、そこには息を切らせて、両手を両膝について苦しそうな表情をしている藤崎がいた。


 間宮は唖然としてスマホを耳に当てたまま、藤崎を見て立ち尽くしていると、電話越しに松崎が女の声がしたぞ!誰か来たのかと聞かれた気がしたが、思わず途中で電話を切ってしまっていた。


「どうされたんですか? そんなに息を切らせて……」


 改めて藤崎に振り返った間宮は、息苦しそうな藤崎を心配そうに声をかけた。


「す、すみません……はぁはぁ……お酒を飲んでいた事を忘れて……走ったから息が上がってしまって……あ、あと30秒! あと30秒待って下さい」

「わ、わかりました」


 何事かとオロオロとしながらも、間宮は藤崎の言う通り待つ事にした。

 少し待っていると、藤崎の呼吸が段々と落ち着いてきたのが分かる。

 最後に大きく深呼吸をして、呼吸を完全に整える事が出来た藤崎は、間宮の顔を真っ直ぐに見つめる。


「あの……先程は失礼な態度をとってしまって……すみませんでした」


 そう言った藤崎は頭を下げて、間宮に謝罪した。


 下り線に向かう通路には、まだそんなに遅い時間ではなかった為か、人通りが少ないわけではなかった。

 通行人には、この若い女性が男に頭を下げている構図を、どんな風に映っているのだろうか……。


 きっと男の間宮が、ろくでもない奴に見えているのではないだろうか。

 普段から自分に向けられる視線は気にしない間宮だったが、これ以上藤崎に余計な恥をかかせるわけにはいかないと、慌てて頭を下げる藤崎に駆け寄り、頭を上げるように促した。


 間宮にそう言われた藤崎も、人通りの多い場所でこんな事をしたら迷惑をかけてしまうと気付いたのか、慌てて上体を起こして恥ずかしそうに俯いた。


「あ、あの……まさかその事を謝る為に、わざわざ走ってきたんですか?」

「え、えぇ……それもありますけど、まだちゃんとお礼を言えてなかったので……」


 間宮にそう話すと、藤崎は顔を上げて真剣な顔を見せた。


「間宮先生には、本当にお世話になりました。講師として大切な事を教わったおかげで、無事に面接試験を合格出来ました……本当に感謝しています!」

「いえ、藤崎先生が努力された結果であって、僕が何かしたからではありませんよ」

「そんな事はありません! そんな間宮先生が私の目標になっていますから」

「僕が目標なんて小さくないですか? 藤崎先生ならもっと高い目標を持っても必ず達成出来ると思いますから、これからも頑張って下さい。応援しています」

「ありがとうございます。間宮先生の期待に応える為にも頑張ります! それと間宮先生の目標が達成出来るように、私も応援しています。短い間でしたが、凄く楽しかったです――ありがとうございました」


 そう話した藤崎は、さっき拒否してしまった握手を求めると、間宮は拒否された事など全く気にする素振りもなく、いつもの柔らかい笑顔で握手に応えた。


 握手を交わした数秒後、間宮の繋いでいる手から力が緩んだ瞬間、藤崎は腰を引いて自分の体重を乗せて力いっぱい繋いだ間宮の手を引き込んだ。

 大の男とはいえ、完全に不意を突かれてそれだけの力で引っ張られると、大抵は上半身が引っ張られて前傾姿勢になる。


 そのまま引き寄せ続け、間宮の顔の高さが丁度いい高さまで下がったところで、藤崎は左手を間宮の右肩の添えて、繋いでいた右手を離し間宮の右頬へ当て目標がブレないように固定した。


 そして、間宮の左頬に柔らかくて温かい感触を落とす。


 その柔らかい感触は少し湿り気を帯びていて、触れた頬に濡れた感覚があり不意の出来事だったが、その感覚で触れたのは藤崎の唇だという事は理解出来た。


 藤崎は僅か2秒程のキスを間宮の頬に落とした後、添えていた左手と頬に当てていた右手を肩に移して、前傾姿勢になっていた間宮の体の動きを止める。

 僅かな沈黙の後、上目遣いで間宮を見つめて、右の指を自分の唇に当てて潤んだ瞳のまま3歩後退した藤崎は、置いてあったスーツケースの取っ手を握りしめた。


「またね! 間宮さん」


 藤崎は体を翻し頬を赤く染めた笑顔で、それだけを言い残して元来た通路を駆けて行った。



 ……まだ思考が現実に追い付けないでいる間宮は、キスをされた左頬を手でそっと触れて藤崎に止められた体制で固まったまま「へ?」と間抜けな声を出すだけしか出来なかった。


 その後、思考が定まらないまま下視線のホームへ繋がっているエスカレータ―を昇りホームに着くと、反対側にある上り線のホームに藤崎がいるのが見えた。


 間宮に気付いた藤崎は照れ臭そうに、視線を外して俯いている。


 藤崎の大胆ともいえる行動から、ようやく思考が追い付いた間宮だったが、向かい側にいる藤崎に対してどう接すればいいのか分からずに間宮も俯くしかなかった。


 線路を挟んで向かい合う2人の間に、まるで2人の繋がりを断ち切るように上り線の電車が滑り込んでくる。

 減速しながら入って来た電車の窓から、切れ切れに真っ直ぐにこちらを見つめている藤崎が見えた。


 その藤崎の表情は優しくもあり、儚くも見えて間宮の心を締め付ける。


 電車が完全に停車してすぐに電車に乗り込んだ藤崎は、下り線側のドアの前に立った。


 ドアの窓から再び間宮を見つめている。


 間宮もそんな藤崎から目を逸らす事が出来ずに、黙ったままドアのガラス越しに見える藤崎を見つめていると、電車が再び発車し始めて藤崎がゆっくりと離れていく。

 その時、藤崎は照れ臭そうな笑顔で小さく手を振り、何やら口を動かしていたが、声が全く聞こえずに何を言ったのか確認出来なかった間宮は、なにも返す事が出来ないまま電車はホームを出て行ってしまった。


 上り線の電車を見送っていると、すれ違いざまに下り線の電車が到着した。

 無機質な扉が開き、乗客達が我先にと降りてくる。

 そんな乗客を見送りながら、間宮は小さく溜息をついて電車に乗り込んだ。


 最寄り駅に到着しても、まだ微かにキスを落とされた頬が熱を帯びている感覚がある。


 あの時の頬を赤らめた藤崎の顔が、ずっと頭から離れない間宮は、合宿で初めて会った時からの事を思い出していると、いつの間にかA駅に到着していた。




 疲労と困惑が入り交じった複雑な表情で、A駅の改札を抜けて駅前の広場に出た時、視界の端に違和感を感じた。


 視界の片隅に、黄色い物体が見えた気がしたからだ。


 その物体で我に返った間宮は、咄嗟に顔を向けた瞬間ボフンッ!と、何かが避ける間もなく顔に直撃して視界を奪われた。


 間宮の顔に勢いよくめり込んだ物体は、やがて勢いを失い間宮の手元に落ちてくる。


「ぴよ助……か?」


 視界が回復した間宮は手に落ちた物体を確認すると、そこには見覚えのある大きなひよこのぬいぐるみがあった。


「あったり~~!!」


 突然、聞き覚えのある大きな声が、間宮の鼓膜を刺激する。


 まさかと、恐る恐る声の持ち主の方に顔をあげると、そこには両手で何かを投げ終えた格好をしている瑞樹がいた。


「……瑞樹」


 何故この駅にいるのか、そもそも疾うに帰宅しているはずだ。


 何が何だか分からない間宮を他所に、瑞樹はぬいぐるみを返せと言わんばかりに、両手を広げてこちらへ近づいてくる。


 間宮は両手に収まるように優しくぬいぐるみを瑞樹に投げると、ぬいぐるみをキャッチしてギュッと気持ち良さそうにぬいぐるみを抱きしめた。


「おかえり! ぴよ助! 痛かったねぇ……可哀そうに」


 自分で投げておいて何を言ってと思いはしたが、今の間宮にはツッコミを入れる程、状況を把握出来ていなかった。


「遅い! どれだけ待たせれば気が済むのよ!」


 そんな間宮の思考などお構いなしに、瑞樹は一方的にブスっと膨れた顔で文句を垂れてくる。


 状況が呑み込めず、聞きたい事が山ほどあった間宮だったが、とりあえず間宮先生から間宮良介に戻り反撃に転じる。


「はぁ!? 別に待ち合わせの約束なんてしてないだろ! それにこんな所にこんな時間まで何してたんだよ! 危ないだろうが!」

「だから、ずっとあそこの物陰に隠れてたから、全然平気だったもん!」


 瑞樹は駅前の隅に立ててある柱を指さして、間宮の指摘を否定した。


「隠れてたって言ってもだな! ……え? ずっと?」


 合宿が解散してそのままここへ隠れていたとしたら、軽く4時間は待っていた計算になる。


「瑞樹……お前合宿が終わってから、ずっとここで隠れてたのか?」

「そうだよ! おかげであちこち蚊に刺されて、すっごく痒いんだからね!」

「だから、何でそんな事してたのかって話だよ!」

「だって……だって! 先生が私の事避けてたからじゃん!」

「――!」


 瑞樹は瞳を潤ませてながらも、訴える目で間宮を睨みつける。


「いや……別に避けてたってわけじゃ……」

「絶対避けてたよ!!」


 堪えていた涙が、瑞樹の頬を伝って落ちていく。


 瑞樹を泣かせる為に、距離を置こうとしたわけじゃなと、間宮は後悔の念に囚われた。


「――何で?」

「え?」

「何で私の事避けだしたの? 私ってさ他の男子には心当たりあるんだけど、間宮先生にはそんな事してないつもりだったんだけど……」


 瑞樹にそう言われて、自分は瑞樹を避け始めた本当の理由に気付かされた。


 瑞樹の信用を裏切ってしまうとか、そんなのはただの儀弁だった。

 本当の理由は、もっと単純でガキっぽい理由だっただけで、ただ……瑞樹に嫌われたくないだけだったんだ……と。


 だが……それは口には出来ない。

 口にしてしまったら……間宮は瑞樹の事を女性として見ていた事を認めてしまうからだ……。


「……避けてなんかいない」

「……は?」

「避けてない! 絶対に避けてなんかいないんだ!」



 涙を流しながらも、瑞樹の目は再び間宮を突き刺す。

 だが間宮も負けじと、瑞樹から目を逸らさずに対峙した。


「……だから」

「え?」

「だからお前の話もちゃんと聞くから、話せよ……話したい事があるんだろ?」

「……」

「そもそも話したい事があったにしても、何で待ち伏せみたいな事までしたんだよ」

「……運命の神様に期待するのは、やっぱりやめたんだよ」

「は? 何の話だよ……それ」

「こっちの話! まぁ避けてた疑惑に納得してないけど、とりあえず今は話を聞いてくれるなら、それでいいよ……」

「お、おう!」


 不完全燃焼と言わんばかりの顔を向けられたが、とりあえず話を戻す事が出来て安堵した間宮だったが、イレギュラーというのは立て続けに起こるものだと思い知らされる事になる。


「とりあえず、私の話は向こうの駐輪じょ……」


 瑞樹は用件を話そうとしたが、間宮の顔に違和感を覚えて話を中断して、間宮との距離を詰め左の頬を指さした。


「これ……なに?」

「は? 何がだよ」


 間宮が首を傾げていると、ムッとした瑞樹の指が間宮の頬にめり込んでいく。


「いて! 何すん……」

「これって、口紅の跡だよね?」


 瑞樹にそう指摘されて、ハッとした間宮の顔色が変わった。


 こんな跡をぶら下げて電車に乗っていた現実と、瑞樹にこの跡を見られてしまった事実に、間宮は軽いパニック状態に陥ってしまったのだ。


「こ、これは!」


 焦った間宮は、慌てて手の甲で口紅の跡を拭おうとした時、瑞樹がその手を掴み動きを止めた。


「ストップ! 手で拭き取ったりしたら、跡が伸びてもっと酷くなるよ!」


 間宮の手を制止させた瑞樹は、鞄からメイク落としシートを取り出す。


「動かないでね!」


 瑞樹は慎重にシートを間宮の頬に当てると、ひんやりとした感触が伝わってくる。

 その感触が間宮には気持ちが良く、黙ってされるがままになっていると、段々拭き取る力が強くなっている気がした。



 ◇◆


 口紅の跡を見つけた時から、瑞樹は気付いていた。

 こんな事をするのは、藤崎しかいないと。


 (なによ!私に対して牽制したつもり!?どうせ私は18にもなって、恋愛経験がありませんよ!こんな事、恥ずかしくて出来ないお子様ですよ!)


 嫉妬心に支配された瑞樹は、間宮の頬にキスを落とした藤崎の勝ち誇った顔が、脳裏にチラついた。


「い、痛い! 瑞樹! 痛いってば!」


 自然とシートを押し付ける力を強くした瑞樹だったが、間宮の悲鳴を無視して結局最後までゴシゴシと擦り切ったのだった。


「はい! 痕跡を一切残さずに綺麗に駆除出来たよ!」

「く、駆除?」


 極力表情に出ないように努めていた瑞樹だったが、避けられていた寂しさと嫉妬心が入り交じり、小さな両手が小刻みに震えていた。

 だが彼女でもない自分が、ここでいちいち腹を立てるのは筋違いだと、瑞樹は自分に言い聞かせながら、何でもないように振舞った。


「さ、さんきゅ……」


 間宮はバツの悪そうな様子で、シートを片付けている瑞樹に礼を言う。


 そのバツの悪さと、こんな時間までこんな所で待っていた瑞樹の気持ちを酌み、間宮は瑞樹との距離を一旦元に戻す事にした。


 間宮は改めて用件を聞くと、瑞樹は間宮が利用している駐輪所へ案内を始めた。


 ◇◆



 久しぶりの駐輪所は、何だか帰ってきたんだと実感できた。


 平日だからだろうか、1階の契約者外の駐輪スペースには殆ど自転車が停められていない空間を横切り、瑞樹は契約者専用の2階へスロープを慣れた雰囲気で登っていく。


「なぁ、瑞樹はここを利用した事があるのか?」

「……」


 契約者専用の通路を迷う事なく歩く瑞樹に違和感があった間宮は、そう尋ねたが、瑞樹は何も話す事なく黙々とスロープを昇り2階の駐輪スペースに着いた。

 間宮は自分の自転車を横目で確認していると、黙って歩き続けていた瑞樹の足が止まり、後ろを歩いていた間宮に振り返った。


「何で話をするのに、こんな場所へ来たんだ?」

「ここが一番いいと思ったからだよ」


 そう言った瑞樹は、鞄にそっと手を入れて何か小さい物を取り出した。

 手に包まれていて、何を取り出したのか見えなかった間宮は怪訝な顔をしていると、瑞樹は意を決して握っていた手の指を解いた。


 チリン……


 どこかで聞いた小さくて、でも凄く綺麗な音。


「このキーホルダーに見覚えないですか?」


 瑞樹は手に持っていたキーホルダーを、間宮に見やすいように目の前に差し出した。


「これって、駅のホームで拾った……」


 (――――え!?)


「そうです。私が親切にこれを届けてくれた間宮先生に、お礼を言うどころか、酷い事ばかり言った馬鹿でどうしようもない……最低最悪の女です」

「……瑞樹が、あの時の女子高生?」


 2人の間に沈黙が流れ、その沈黙が瑞樹の心を折ろうと襲い掛かる。

 この場から逃げ出した気持ちを必死に抑え込んで、間宮の次の言葉を待った。


「そっか……瑞樹があの女子高生だったんだな。それで?」


 間宮は怒るでなく、ショックを受けるでもない、冷静は表情を崩さずに瑞樹に話の続きを促した。


「あの時これを届けてくれて本当に嬉しかったんです。私にとって凄く大切な物だったから……でも、本心とは逆にあんな馬鹿な態度をとってしまった事を、帰ってから……いえ! 間宮先生に背中を向けた時から凄く後悔してました」

「……うん」

「実は昔に色々あって男性にトラウマを抱えていて、そのトラウマが原因で過剰に男性を近づけないようにしていたんです……」

「……そっか」

「でも! 見ず知らずの私にあんなに親切にしてくれた先生にまで、あんな事する必要なんてなかったって、ずっと! ずっと後悔していたんです!」

「そっか……それで出席をとった時」

「はい……中央ホールの壇上で間宮先生を見かけた時、驚いたし、怖かった……逃げ出したい気持ちも正直ありました。でも、今思うと心のどこかで喜んでいたのかもしれません。でも、講義を受ける以上隠し通せるわけがない……それならいっその事自分からバラそうと思ったんです」

「なるほどな」


 間宮の中で、瑞樹に対して足りなかったピースが、1つ1つ揃っていく。

 そしてピースが揃う度に、ぼやけていた瑞樹の形が鮮明に見えてきた気がした。


「でも間宮先生は私の事に気付かなくて、他の生徒達と同じように接してくれて嬉しかったんです」

「それならどうして待ち伏せまでして、本当の事を話したんだ? こう言っちゃなんだか、黙っていればやり過ごせたはずなのに」


 時折見せていた瑞樹の辛そうな表情の正体を知った間宮は、当然といえば当然の質問を瑞樹に話した。


「はい……隠していても問題はなかったので、本当は最後の最後まで迷いました」


 そうだろうなと、間宮は黙って頷いた。


「それでも話す気になったのは、この合宿で間宮先生がどんな人なのか知ってしまったから! 私にとって凄く影響力を持っている人だったから! そして……合宿が終わってもお別れしたくない人だったから! その為に全部清算してけじめをつけようと思ったん……です」


 自分の思いの丈を吐き出した瑞樹は、差し出していた手を戻して両手をビシッと両太ももの外側に揃えた。


「あの時は失礼な事ばかり言って、間宮先生の事を沢山傷つけてしまって……本当にすみませんでした!」


 瑞樹は頭を深く下げて、心から申し訳ないと謝罪した。



 間宮はそんな瑞樹を見て、少し考えた。

 実のところ、本当はもう気にしていなかった。

 忘れかけてさえいた事だったと言ってもいい程に。


 大人になれば、この程度の理不尽な目に合う事などよくある事で、勝手に自己解決して忘れてしまうものなのだから。


 でも目の前で謝罪している瑞樹は、まだ高校生だ。

 勿論高校生でもこの程度の事なんて一切気にしないで、ヘラヘラしている人間も沢山いるのだろう。

 だが瑞樹はそれが出来ない人間で、普段は生意気なところがあるが、本当は心の優しい女の子なのだろう。


 受験で大変は時期なのに、今回の事から逃げ出さないで悩んで苦しみながら、今日まで頑張って来たのだから……。


 だとすれば、今の瑞樹にしてあげられる事は1つしかないと、間宮は謝罪する瑞樹の対応を決めた。


 でも気にしていなかった事は、内緒にしておこうと思った。

 悩んでいた事が無駄だったと知れば、瑞樹は安堵するよりもショックを受ける恐れがあると判断したから。


 間宮は小さく息を吐いて、頭を下げたままの瑞樹に声をかける。


「……顔を上げてくれないか?」


 間宮がそう話しかけても、瑞樹は断固としてそれを拒否したまま口を開く。


「いえ! 先生の判断を聞かせてくれるまでは、頭を上げるわけにはいきません! どんな罵倒だって受け止める覚悟は出来ていますから!」


 そう言い切った瑞樹の肩が小さく震えている事に、気付かない間宮ではない。


「そうか……わかった」


 瑞樹は頭を下げたまま、ギュッと目を瞑った。


「隠し通す事だって出来たのに、よく話してくれたな。俺の心を心配してくれたんだろ? その気持ちが嬉しかった」


 これは本心だろう。


 間宮は逃げる事も容易だった事を逃げずに、正直に話して謝罪してくれた事が、本当に嬉しかったのだ。


「だから、もういいよ! 俺から瑞樹に言う事はもう何もないから、だから頭を上げてくれないか?」


 下げている頭の上から、優しい言葉が降ってきた。

 瑞樹はゆっくりと頭を上げて、目を見開き間宮の優しい目を見つめた。


「ほ、ホント? 本当に許してくれるの? 私あんなに酷い事したのに……」

「あぁ! もういいって! 何回も言わせんなよ。もう忘れたから安心しろって」


 間宮はそう言って、瑞樹の頭を優しく撫でた。


「よく頑張ったな。もういいんだ……もういいんだよ」


 瑞樹は間宮の言葉と優しく撫でられた感触で、ずっと間宮に嫌われる恐怖と、その現実から逃げ出したいと抑えていた感情が、涙となって溢れ出してくる。


 零れる涙を見た間宮が、あの祭りの時のように優しく包み込むように抱きしめてくれた瞬間、いよいよ本格的に涙腺が決壊を起こし始めた瑞樹は、間宮の胸にギュッと顔を埋める。


 恥ずかしいなんて感情はどこかへ置き去りにして、許してくれて心の底から安心した瑞樹は、あの時とは違った涙を大声で泣きながら流した。


 ギュッと押し付ける力が弱まり、瑞樹の頭が間宮の胸から僅かに離れた。

 5分、いや10分はあったかもしれない。

 その間、瑞樹は力の限り泣き通していた。


「もう大丈夫……です」


 小声でそう呟いて、間宮の腕の中から出てきた瑞樹の顔は、目が真っ赤に腫れて鼻水まで垂らしてグチャグチャになっていたが、間宮にはどんな綺麗な顔より綺麗だと感じた。

 だが、瑞樹は「見ないで!」と叫びながら鞄からハンカチを取り出して、間宮に背を向けてグチャグチャになった顔を整え終わるまで、こちらに振り向く事をしなかった。


「そういえば、瑞樹があの時の女子高生だったって事は、住んでる所ってこの辺なんだよな? どの辺りなんだ?」


 何故瑞樹がこの駅前をピンポイントで張っていたいたのか、正体を知って初めて気が付いた間宮は、自宅の住所を訪ねた。


「えっと……4丁目だけど」

「ここから結構距離あるよな? 自転車で来てるのか?」

「ううん、スーツケースが大きくて前かごに入らなかったから、歩いてきたんだけど……」

「そっか! 俺も歩きだから、家まで送って行ってやるよ」

「え? い、いいよ! 先生だって疲れてるのに……」

「ばぁか! このままこんな時間に1人で帰したりしたら、気になって眠れるかっての! ほらっ! いいから行くぞ!」


 遠慮して断る瑞樹を抑えて、間宮は有無を言わさず瑞樹の自宅がある方向に歩き出した。


「うん! ありがと!」


 嬉しそうに後を追いかける瑞樹を見て、間宮は思わずクスっと笑みを零した。


「え? な、なに?」

「いや、どうしてさっきは敬語だったのかなって思ってさ」


 合宿で親しくなってから、いつの間にか敬語を使わなくなった瑞樹が何故敬語に戻っていたのか、瑞樹の嬉しそうな顔を見て気になっていた。


「あ、その……やっぱり敬語使った方がいい……よね」

「いや。別に気にならなかったからいいんだけど、何で敬語に戻したんだ?」

「それは……その……は、反省の表明っていうか」

「プッ、あははは! らしくない事言ってんな」

「う、うっさいし! どうせしおらしい敬語なんて似合わない子供ですよ!」


 久しぶりに、瑞樹とこんな風に笑えた気がすると思った時、間宮はこんな時間が割と気に入っているのだと自覚した。

 その時間を自ら手放そうとしていた自分に、苦笑いを浮かべる。

 

 (別にこんな砕けた雰囲気になれる、女友達がいたっていいじゃんか!片意地を張り過ぎると、周りの人間を傷つけてしまう事もあるって事が、分かったんだからな)


「ん? なによ!」

「いや、べっつに~!」

「なにそれ! ムカつく!」


 そんな他愛もない事を話しながら、瑞樹の自宅へ向かう。

 道中、他にも色々な事を話した。


 どこに住んでいるのかって事や、お互いの夏休みの予定だったり、瑞樹には妹がいる事や、自分は1人暮らしをしている事等、どうでもいい事を話して笑い合った後、合宿へ向かう朝は、こんな風に帰ってくる事なんて想像もしていなかったのだと間宮に告げると、間宮も同じような事を考えていたと笑みを零した。


 そんな楽しい時間は短いもので、2人は瑞樹の自宅前に到着した。


「んじゃ、俺も帰るな。ゆっくり休んで、また明日から受験勉強頑張れよ」

「分かってるってば! 先生みたいにうるさいなぁ!」

「おいおい! 俺はせんせ……」

「先生が本当は講師じゃないって事、私知ってるんだよ?」

「……誰から聞いた?」


 間宮はそう訊いてみたが、バラした犯人の顔はすぐに思い浮かんでいた。


「えへへ! 内緒だよ!」


 舌を出して悪戯っぽく笑う瑞樹を見て、いつもの元気な瑞樹に戻った事に、間宮は安堵した。


「まぁ、大体想像つくからいいけどな……じゃあな。おやすみ」

「うん。送ってくれてありがとう! おやすみなさい……えっと」

「……ん? どうした?」


 最後の挨拶の歯切れの悪さに、立ち去ろうとしていた間宮の足が止まる。


「おやすみ! 間宮さん!」


 瑞樹は間宮の事を先生と呼ばずに、さん付けで呼ぶと、照れ臭そうに慌てて家に帰っていった。


 間宮も何故か照れ臭くなり、頭をガシガシと掻きながら「おやすみ」と呟いて帰路につく。


 ゆっくりと自宅へ向かう間宮は、東京の霞んだ月に「ただいま」と呟いて、色々あった8日間の妙な旅は無事に終わりを告げた。




「29」~結び~ 2章 導かれて 完



 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 あとがき


 これにて2章完結となります。

 最後まで読んで下さり、ありがとうございました。


 3章以降につきましては、暫く様子を見させて頂いて、再開するか判断させて頂きます。


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