第8話 2人の決意と覚悟   

 4日目 朝


 セットしていたスマホのアラームが鳴った瞬間に、目覚ましよりも早く起きていた瑞樹がアラームを解除した。


「はい! 朝ですよ~! 皆起きて~!」

「う~ん……あと5分だけ……お願い」

「朝ごはんいらないから、もうちょい寝かせて……」


 瑞樹は元気に同室のメンバーを起こして回ったが、全く起きる気配がない。

 特にグズっているのが加藤だった。


「今日はテスト休みって事にしよ……昼まで寝ていい日って事でよろ……し……く」


 加藤は再び夢の中に戻ろうとする。


「もう、愛菜! そんな休みなんてないよ! ホラッ! おっきなさ~い!!」


 瑞樹は加藤の布団を、勢いよく捲り上げる。


「ヒャアッ!! もう……分かったよ~」


 加藤は観念して、眠い目を擦りながら上体を起こす。


「おっはよ! 愛菜」

「おはよ~志乃……ん?」


 他のメンバーも加藤と同様に起こして回る瑞樹を見て、加藤は瑞樹の変化に首を傾げる。


「ねぇ志乃ってば、何かあった?」

「ん? どうして?」

「ん~? 何か今朝はやたらと元気だし、凄くご機嫌だからさ」

「へ? べ、別に何もないよ? いつもこんな感じじゃん!」

「いやいや! ないから! 何があった!? 素直に吐くのじゃ!」


 加藤は瑞樹の脇腹をくすぐり、昨日までとは別人になっている原因を吐かせようと、朝っぱらから悪い笑みを浮かべた。


「きゃははは! や、やめて! 死ぬ! ホントに死ぬからやめてー!」


 瑞樹が加藤の攻撃に抵抗していると、2人の体制が崩れて加藤の手が瑞樹の胸に被さる。


「ん? なんだこれは! けしからん大きさだな! 半分よこせ!」

「ちょ! そこはホントにやめて! んっ! く、くすぐったいから!」


 朝から賑やかな2人のやり取りを見せられた神山達は、いつの間にか着替えを済ませていた。


「はいは~い! 2人のコントで起きたから、早く着替えて食堂行こ!」


 今朝も瑞樹達の部屋は、賑やかにスタートを切ったのである。






「はぁ……愛菜のせいで笑い過ぎて、一日分の体力使っちゃったじゃん」


 食堂に到着した瑞樹達はトレイを持って、朝食を受け取ろうと並んでいた。


「あはは! それは志乃が素直に何があったか、吐かないからだからね」

「だから、何もないってば……」


 そんな追及されても無理だと、瑞樹は溜息をついた。


 昨日の事は間宮に秘密だと言われ、些細な事なのだが、2人だけの秘密をもてた瑞樹がどれだけ加藤に追及されようが、話すわけがない。



「おはようございます、皆さん」


 グッタリとしていた瑞樹だったが、後ろから声をかけられて反射的に背筋をピンと伸ばした。

 瑞樹達が振り返ると、そこには瑞樹の予想通り間宮がニッコリと微笑んでいた。


「お、おはようございます……間宮先生」


 いつもなら加藤が先陣を切って、最後におずおずと挨拶をしていた瑞樹だったのだが、昨夜の事があり舞い上がっていたのか、真っ先に間宮と挨拶を交わした。


「おはよ~皆朝から元気だねぇ」


 瑞樹の変化に加藤が驚いていると、間宮の後ろから藤崎も会話に交じってきた。


「おはようございます! 藤崎先生はあまり元気ないですね」

「そう? 昨日寝るのが遅かったからかなぁ」

「おやおやぁ? 昨日何してたんですかぁ? もしかして間宮先生と?」


 藤崎と挨拶を交わして様子を伺っていた加藤は、ニヤニヤと笑みを浮かべながら、突っ込んだ質問をする。


「さぁ、どうだろうねぇ?」


 藤崎は加藤にそう返答したが、視線は瑞樹に向けられていた。


「違いますよね。間宮先生だけじゃなくて、藤崎先生は講師の人達とお酒を飲んで、寝不足なだけじゃないですか」


 悪戯っぽく笑みを浮かべる藤崎に対して、何故だか苛立ちを覚えた瑞樹は藤崎から視線を外して、意味深な藤崎の台詞を否定した。


 そんな瑞樹の反応が面白かったのか、藤崎はクスクスと笑った。


「そうなんだって……あれ? 何で志乃がそんな事知ってるの?」

「別に何でもいいじゃん」


 ふくれっ面の瑞樹はトレイに朝食を乗せて、加藤に愛想のない返事を返して空いている席に足早に移動した。

 瑞樹と藤崎のやり取りに挟まれていた間宮は、状況が呑み込めず苦笑いを浮かべるしかなかった。




 朝食を済ませて、再編成された各クラスで4日目の講義が始まった。


 間宮は新しいCクラスの出席をとった後、再編成の一連の説明を始める。


「昨日発表があった通り、僕は引き続きCクラスを担当するのですが、この件で随分と問い合わせがあったので、講義の時間を少し頂いて簡単に説明させて頂きたいのですが、よろしいですか?」


 生徒達から反対意見は一切出なかった事を確認して、間宮は今回の騒動の詳細を話し始める。


「何故クラスが変わらなったのかですが、それは僕はCクラスだけ担当する事が予め決まっていたからです」


 間宮がそう説明を始めると、生徒達から「何故?」と当然の質問が返ってくる。


「それは僕の役目は、皆さんの英語への苦手意識を取り除く事だからです。そして、その苦手意識を取り除く為のstory magicなんですよ」


 間宮は生徒達に、自分の講義法をBクラスやAクラスの生徒達に行っても、大した効果は望めないと話す。


 このクラスで苦手意識を取り除いた後、藤崎や村田の講義を受講すればしっかりと理解出来るようになっているからと話して聞かせた。そして自分の究極的な目標は全員の苦手意識を壊す事だから、しっかりついてきて欲しいと生徒達に訴えた。


 間宮の説明を聞き終えた生徒達は、納得した様子でこれから始まる間宮の講義に純粋に心を躍らせた。


「では! これより講義を始めます!」

「宜しくお願いします!」


 会議室に間宮と生徒達の声が響いた後、間宮は昨日までよりも熱の入った講義を展開した。


 その後も、2年生、1年生の講義の席で同じような説明を行い、3年生と同様に1人でも多くの生徒が英語を好きになれるように、間宮は全力を尽くして4日目の全講義を終えた。




 ◇◆




 同時刻 別室にて藤崎のAクラスでも、生徒達に間宮と同じ内容の説明を終えた。



 説明を終えた藤崎はふぅっと軽く息を吐いて、目の前にいる生徒達に本音を話す。


「えっと、説明は以上ですが、正直悔しい気持ちはあります……。ですが、間宮先生のような講義は私には出来ません。……それでも私に出来る事の全てをかけて頑張りますので……ついてきて欲しい……です」



 やはり藤崎は変わったと、Aクラスに上がり同じ会議室で藤崎の話を聞いた瑞樹は、嬉しそうに頷く。


 神山に聞いていた、合宿が始まった頃の藤崎とは別人のようで、その変化にきっと間宮に叱られた事が原因なんだと、あの時の2人を見ていた瑞樹には分かった。

 

 間宮によって変わっていく事は、瑞樹にも理解出来た。

 自分自身が己を守る為に作り上げた殻のような物を、間宮と出会ってから少しずつ壊すというか、優しく溶かされだしているのを実感していたからだ。

 自分を守る為の殻だから、不安な気持ちはあったのだが、不思議とまた殻の中に戻るという選択肢はなかった。

 そう考えると、瑞樹と藤崎は間宮に育てられている気がしてきた。

 

(私も頑張れば、今の藤崎先生のように笑えるのかな……。ずっと諦めていた、あの頃の自分に戻る事が出来るのかな……)


 この状況に至った経緯と、本音、そして決意を話し終えた藤崎が、不安気に視線を瑞樹達が座っている席の周辺に向けられていた。

 藤崎の視線の先を追った瑞樹は、視線を向けている理由に気付く。

 瑞樹の周りにいた生徒達は、皆、元間宮が担当していたCクラスの生徒達だったのだ。

 恐らく、この結果に一番納得していないのは、元Cクラスの生徒達だろうと考えた結果なのだろう。


 会議室に重苦しい沈黙の時間が経過する度に、藤崎の視線が下がっていくのが、あからさまに見えた。

 藤崎もこの講義室に入ってくるまでに、相当な葛藤があった事は、今の藤崎を見ればよく分かる。

 この何とも言えない空気を嫌った瑞樹は、勢いよく席から立ち上がった。


 立ち上がった瞬間、藤崎を含めた皆の視線を感じる。

 注目されるのが苦手な瑞樹にしては、思い切った行動をとった。

 こんな行動をとるのは、合宿初日の講義以来の事である。

 だが、あの時と決定的に違うのは、今回の行動はこの会議室にいる全員の意識を自分に向ける為だったという事だ。

 周りの視線を一心に浴びた瑞樹は「ふっ!」っと小さく息を吐き、真っ直ぐに教壇にいる藤崎と視線を絡めて口を開く。


「はい! 私達も全力で頑張りますので、宜しくお願いします!」


 瑞樹は壇上にいる藤崎に力強く宣言した。

 決意に満ちた大きな瞳が、藤崎を捉えて離さない。

 だが、その決意は藤崎だけに向けられたものではない。

 半分は自分自身への決意でもあった。


 (もう間宮先生から逃げるのはやめよう)


 必ずあの時の女子高生は自分なんだと打ち明けて、大きくなり過ぎた後悔にけじめをつけると、瑞樹は自分自身に誓いを立てたのだ。


 困惑した空気の中で、突然起こした瑞樹の行動に加藤を含めた生徒達は驚きを隠せない。

 だが、藤崎だけはこの決意表明の真意を察したのか、講師が生徒に向ける眼差しではなく、同じ女を見る目を1人席を立っている瑞樹に向けた。


「ありがとう。全力で頑張るから、瑞樹さんも頑張って!」


 藤崎の頑張れという言葉は、勉強だけに向けられた言葉ではないのは、瑞樹だけには分かっていた。


「はい! 頑張ります!」


 1人立ち上がった瑞樹の姿を、ただ呆気にとられて眺めていただけだった加藤だったが、瑞樹の力強い台詞に感化されたのか、勢いよく立ち上がり「宜しくお願いします!」と藤崎に軽く頭を下げた。


 加藤の姿に、他の生徒達も呼応するように、各々席を立ち「お願いします!」と藤崎に頭を下げだした。


「ありがとう! こちらこそよろしくね!」


 藤崎は生徒達に、この合宿が始まってから一番の笑顔で応えた。


「それでは! 講義を始めます!」


 藤崎は講師モードにスイッチを切り替えて、これまでより更に熱の入った講義を展開する。

 疑心暗鬼に陥りそうになっていた生徒達は、藤崎の熱弁に応えるように会議室に一体感が生まれ、どこの有名進学塾にだしても恥ずかしくない素晴らしい講義となった。


 藤崎の熱意は3年生だけではなく、下級生にも十分に伝わり充実した藤崎の全講義が、こうして終了したのだった。




 ◇◆




 4日目の全講義が終了して、各会議室から講師や生徒達が出てくる。


 藤崎も最後の講義を終えて、宿泊施設へ繋がる通路を歩いていると、目の前にある会議室のドアがガンッ!と荒々しく開いた。

 そのドアから出てきたのは、英語のBクラスを担当している村田だった。


「村田先生、お疲れ様です」

「……チッ!」


 村田に声をかけたが、藤崎を睨みつけて舌打ちする音だけを残して、藤崎に背を向けて姿を消した。

 村田に対していつも不敵な笑みを浮かべている印象しかない藤崎だったが、初めて笑みが消えて殺気立った目を見た時、背筋に寒さを感じて足が竦んだ。


 村田の変貌に驚いた藤崎だったが、まだ事件は終わっていなかった。

 村田が出てきた会議室から、生徒が一人も出てこないのだ。

 異常事態に藤崎は会議室へ駆け込んだ。


 会議室へ入り室内を見渡すと、やはり生徒達は誰も退室していないようだった。

 駆けこんだ藤崎に気が付いた生徒達は、やり場のない怒りをぶつけるように藤崎を睨みつけている。

 異様な雰囲気に気後れしそうになった藤崎だったが、後方の席に数人の生徒が集まっていて、その輪の中心から嗚咽を聞いた藤崎は止まった足を動かして、嗚咽が聞こてくる席へ駆け寄った。


 嗚咽を漏らしていたのは、1人の女生徒で俯いたまま肩を震わせていた。


「何があったのか、私に訊かせてくれないかな?」


 怯えた様子だった女生徒に、藤崎は刺激させないように出来る限り優しい口調で問うと、女生徒は顔をゆっくりと上げてボソボソと何があったのか話し始めた。


 この女生徒は再編成前は間宮が担当していたCクラスにいたらしい。

 女生徒の話によれば、村田が会議室に姿を見せて定刻通り講義を始めようとした時、昨日から騒ぎになっていた間宮の再編成の事を女生徒が質問したらしい。


 その質問は、この会議室にいる生徒達も気になっていた為、女生徒に続けと説明を求めた。

 村田は少しの間、何も話さずに黙っていたそうなのだが、やがてホワイトボードを激しく叩いたのだという。

 ボードを激しく叩く音で、生徒達の口が止まり室内が静まり返ったかと思うと、突然村田が大声で叫びだしたのだ。


 自分がBクラスのままなのは、お前達が馬鹿だからだとか、間宮の紙芝居なんてお遊びで喜んでいるようじゃ、志望大学なんて受かるはずがないだとか、俺の言う事だけ聞いていればいいだとか、生徒達に浴びせた罵倒はどれも聞くに堪えない酷い言葉ばかりだった。

 そんな罵倒を講義時間が終わるまで繰り返して、村田は会議室から出て行ったと聞かされた。


「……なんて事を」


 怒り……そうこれは怒りだ。


 胸が締め付けられて、口内がカラカラになる。

 ギリっと音が聞こえてきそうな程、歯を食いしばる。

 握りしめている手が、どうしようもなく震える。


 でも、今は生徒達と一緒になって怒りを表す場面ではない。


 ゆっくりと深呼吸をした藤崎は、体中に入っていた力を意識的に抜き表情を歪ませている生徒達を見渡して、深々と頭を下げた。


「皆、ごめんなさい! 今夜の自主学時間を私に貰えないかな」


 頭を下げた藤崎の突然の提案に、生徒達が騒めきだす。


「え? どういう事ですか?」


 生徒の1人がそう尋ねると、藤崎は頭を上げ手を胸に当てて口を開く。


「今回受講出来なかった講義を、私にさせてもらえないかな」

「で、でも藤崎先生が悪いわけじゃないんですから……」

「それを言ったら、あなた達が一番何も悪くないのよ?」


 藤崎は、まるで母親の様な優しい口調で、遠慮する生徒に訴えかける。


「それに私達講師側のせいで、貴重な時間を無駄にさせてしまったお詫びをさせて欲しいの」


 藤崎がそう生徒達に話すと、歪んでいた生徒達の表情に笑顔が戻っていく。


「は、はい! 宜しくお願いします!」


 嗚咽を漏らしていた女生徒が席から立ち上がり、藤崎の臨時講義を歓迎した。


「うん! こちらこそよろしくね!」




 藤崎は夕食の場で詳細を話すと告げて、生徒達を会議室から解散させてから、その足で真っ直ぐに村田の部屋を訪れたのだが、部屋のインターホンを数回鳴らしても、中から何も反応がなかった。


 時間が時間だった為、夕食を摂っているのかと足早に食堂に向かっていると、中庭が見える通路に差し掛かった時、視界に不自然な白い煙が流れているのが見えた藤崎は、踵を返して中庭に出た。


 ◇◆


「いくら野外だといっても、施設の敷地内は指定の場所以外は、禁煙のはずですよ」


 藤崎は通路からは見えなかった壁際に回り込むと、壁に凭れかかった村田が煙草を燻らせていた。


「これはこれは、優等生の藤崎先生じゃないですか。お疲れ様ですねぇ」

「そんな挨拶は結構ですので、早く煙草を消して貰えませんか? 施設の関係者に見られて騒ぎになったら、生徒達に迷惑をかけてしまいますので」


 煙草を注意された村田は、いやらしい笑みを浮かべながら煙草を地面に落として靴で踏みつぶして火を消した。


「相変わらず、ポイント稼ぎに精が出ますなぁ!」


 村田は嫌味たっぷりに、藤崎を馬鹿にするように煽ってくる。


「……私の事はどうでもいいです。そんな事より今日の講義ですが、何を考えているんですか?」

「何って、あいつらが馬鹿過ぎて俺についてこれなかったせいで、正規雇用の道が閉ざされたんだって文句を言ってやっただけですよ」

「あなたねぇ……」

「藤崎先生! ポイント稼いだって無駄ですよ! もう我々の担当教科の採用者は間宮先生で決まっているんですからねぇ」


 藤崎は再び怒りを覚えて、村田に詰め寄ろうとした時、藤崎の言葉を遮って無駄な事はするなと言い切った。

 間宮が採用されるのは、藤崎にだって分かっている。

 だが、不採用になるから講義を投げ出していい理由にはならない。


 そんな事を言わないといけないのかと深い溜息をついた時、藤崎の導火線に完全に火をつける決定的な言葉を村田の口から発せられる。


「それにあの間宮って男だって怪しいもんだ! 天谷の推薦ってだけあってこの採用試験だって出来レースだったんじゃないか? 天谷は独身って事だし、もしかして肉体関係になって採用させたんじゃねえの!? ぎゃははは!」


 藤崎は自分の中で何かが確実に壊れる音が聞こえたと思った瞬間、気が付くと村田の頬を全力でひっぱたいていた。

 叩いた手がジンジンと痛む。

 だが、今の藤崎にはどうでもいい事だった。


「私の事は何を言われても構わない!! でも、でも! 間宮先生の事を悪く言うのは絶対に許さない!!」

「ってえなぁ! これで俺と同じで脱落確定だな!」

「クビにしたいならすればいいじゃない! そんな事より、さっき言った間宮先生に対する暴言を取り消しなさい!!」


 藤崎は大きな声を張り上げて、もう一発と振りかぶった手を振り下ろそうとしたが、直撃寸前で村田に腕を掴まれて阻まれてしまった。


「おいおい、そう何発も殴らせるかっての!」

「い、痛いっ!」


 村田が掴んだ藤崎の腕に力を込め、藤崎の表情が苦悶に歪みながらも、村田を睨みつけるのは止めようとしない。


「撤回して、謝罪しなさい!!」

「はぁ!? んなもんするわけねぇだろうが!」


 お返しとばかりに、今度は村田が腕を振り上げる。


「おい!! なにやってんだ!!」


 突然2人の尖った空気を壊す声が、明後日の方から聞こえてきた。

 2人に駆け寄ってきたのは、偶然にこの場を通りかかり、藤崎の大きな声を聞きつけた奥寺と藤井だった。


 奥寺と藤井は、取っ組み合いになっていた藤崎と村田を引き離しにかかる。


「離して!! 間宮先生への暴言を撤回しなさい!!」


 奥寺に両腕の自由を奪われた藤崎は、力いっぱい振りほどこうとしながら、藤井に抑えられている村田に引き続き暴言の撤回を求める。


「うるせえ!! いつまでもあいつにケツ振ってんじゃねえ!」


 村田も藤井を制止を振り切ろうと、藻掻きながら藤崎に怒鳴りつける。


「いい加減にしろ!! 2人共!!」


 奥寺が2人に怒鳴りつける。


 温厚で少し気が弱い印象を持っていた2人は、奥寺の怒鳴り声に驚いて抵抗する力を緩めて、奥寺に視線を向けた。


「ここをどこだと思ってるんですか! こんな事をしていい場所ではない事は言わなくても分かりますよね!?」


 トーンを少し下げてはいたが、促すというより説教をされている気がした藤崎と村田は呆気に取られて、思わず抵抗する力を完全に抜ききった。

 そんな騒動に気が付いた、ゼミのスタッフが数人現場に駆けつけてくる。

 藤崎はもう抵抗する姿勢を見せずに、駆け付けたスタッフと奥寺達に謝罪すると、その姿を見た村田は苦虫を噛んだような顔つきで施設の中に姿を消そうとすると、スタッフの1人が慌てて後を追っていく。


「とにかく事情の説明をお願いします」


 スタッフが厳しい顔つきで、この騒動の説明を求めてきた。


「お騒がせしてしまって、本当に申し訳ありません。事情は後でいくらでも話しますから、その前に夕食の後に1コマだけ講義をさせてもらえませんか?」

「え? こんな時間から講義ですか?」


 驚くスタッフに、村田が潰した講義のやり直しをしてやりたいとだけスタッフに話すと、事情を察したスタッフは急いで施設側に掛け合って会議室を借りるように交渉を行い、講義を受けれなかった生徒達に説明をする為に、食堂へ走り去っていく。


「奥寺先生、藤井先生にも御迷惑をおかけしまって、本当に申し訳ありませんでした」


 藤崎が深々と頭を下げて、奥寺と藤井に謝罪した。


「いえ! 僕も怒鳴ってしまってすみませんでした」


 藤崎に釣られて、奥寺と藤井も頭を下げる。


「あの、これから講義の準備をしないといけませんので、お詫びは改めて必ずしますので……失礼します!」


 もう1度、奥寺と藤井に頭を下げてから、藤崎は急ぎ足で施設の中に駆けて行った。


 ◇◆




 夕食の時間が終わり、生徒達はそれぞれ自由に時間を使いだした。

 いつも通り、自主学をする為の会議室が解放されて生徒達が意欲的に勉強に励んでいる。

 各教科の待機当番になっている講師達も、それぞれの待機室へ姿を消した。


 コンコン!


「驚きました。今日は来ないと思ってましたよ」


 英語の待機室を訪れて、ドアを開けてからノックした間宮が少し驚いた顔を見せる。

 驚いていたのは、夕食前に騒動を起こした村田が待機室にいた為だった。


 間宮もスタッフに簡単にだが何が起こったのか知らされていた為、村田の当番の日だったが、来ていないだろうと代わりに待機室に来たのだ。


「ふん! 部屋にいるとスタッフが煩いから、ここに逃げてきただけだ。どうせ俺が当番じゃ誰も来ないだろうと思ってな」


 少し頭を冷やしたのか、村田の口調が随分と落ち着いていた。


「はは! まぁ、村田先生が潰してしまった講義に参加していた生徒達は来ないでしょうけど、それは当番が村田先生だからじゃないですよ」


「はぁ!?」


 間宮は村田が壊してしまった講義の穴埋めの為に、藤崎が率先して別室であの時の生徒を集めて臨時講義をしている事を、話して聞かせた。


「……あいつが……ククッ! まだポイント稼ぎしてんのかよ!」

「……」

「なんだよ!」

「いえ、確かにここへ来た時は、生徒達の気を引こうとしていましたけど、今の藤崎先生は余計な雑念などなく、純粋に講師として生徒達に出来る事を、全力で取り組んでいるだけだと思いますよ」

「……だからって、もう結果は出てるようなもんだろ! そんな事したって意味なんてないだろうが!」


 村田はドンッ!と机を叩いて、藤崎の行動は不毛な物だと訴える。

 だが、その時の村田の目に迷いが滲んでいるのを、間宮が見逃すはずがなかった。


「……いつまで拗ねてんだよ」


 それは村田が知る間宮の声とはかけ離れていた。


 一瞬、誰か他の人間がこの部屋に入ってきたのかと錯覚するほどに……。


「え?」


 机を睨みつけていた視線を、聞き覚えのない声が聞こえた方へ向けると、眼鏡を外した間宮がいるだけだった。

 やはり、あの声の主は間宮で間違いなかった。

 だが、違うのは声だけではない事を、間宮の顔を見た村田は知る。


 いつもニコニコと柔らかい表情だったはずの間宮が、鋭い目つきで村田を射抜いている。

 間宮の視線に晒された村田だったが、不思議と殺気のようなものは感じなかった。


 怒りというよりも、叱られているような感覚があり、頑なに自分の置かれた状況を自分以外のせいにしていた村田だったが、自然と心の声が漏れ始める。


「……そんな事言っても、生徒達に暴言吐いたり、藤崎先生にあんな事してしまったんじゃ……もう手遅れだろ」

「それは今回の正規雇用の事を言ってるのなら正直難しいとは思うけど、生徒達の信用を得るのは手遅れじゃねぇよ」

「……でも」

「本当は生徒達に慕われるようになった藤崎先生の事が、羨ましかったんだろ?」

「そ、それは……」


 村田が言葉に詰まった時、コンコンとこの部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 鳴るはずがないと思っていたノックの音に、村田はガタッ!とデスクチェアから立ち上がり「どうぞ」と入室を促した。


「失礼しま~すって、あれ? 間宮先生?」


 待機室に入って来た女生徒は、壁に凭れかかっていた間宮の姿を見て驚く。


「こんばんは」

「こ、こんばんは……あれ? 今日って間宮先生の当番でしたっけ?」

「いえ、村田先生に用事があっただけですよ」


 いつの間にか外していた眼鏡をかけて、間宮はいつもの柔らかい表情を女生徒に向けて、もう用事は済んだと話した。


「ですよね! 間宮先生が当番なのかとビックリしましたよ」

「ははは! それは失礼しました」

「……俺が当番ですまなかったな」


 女生徒の反応が、間宮が当番で良かったと喜んでいるように見えた村田は、バツの悪そうな顔を浮かべて呟くように話す。


「え? どうして謝るんですか? 私は村田先生のBクラスだから、今日質問に来たんですよ?」

「……え?」


 講義を壊してしまったのは、3年生の講義でこの女生徒には見覚えがあった。


 確か2年生だったはずだ。


「……でも、俺の講義なんて解り難いだけだっただろ?」

「ん~、確かに難しい事を言われましたけど、それは私達の努力が足りなかったのもありますからね」

「……」


 村田は言葉が出てこなかった。


 初日から間宮に出し抜かれ、翌日から藤崎が生まれ変わったように、熱心な講義を展開して、2人だけが生徒達の注目を集めて自分だけが取り残されたのだと焦っていた。

 でも、この生徒は分かりにくいのは、自分達にも原因があると言う。

 その言葉に村田の中で燻っていた物が、壊れていくのを感じた。


「……先生?」

「え? あ、あぁ! すまん! いや、解り難い講義をしたのは俺が原因だから、君は気にしなくていい……その、すまなかったな」

「村田先生が謝る事ないですよ?」

「そ、そうか。それと……だな……君の名前を聞いてもいいか?」

「あ、はい! 平下 瑠香って言います」

「平下……さんか。よし! じゃあ、平下さん! 解らない所を訊こうか!」

「はい! お願いします」


 しっかりと凝視しないと分からない位、村田の目には僅かに涙が滲んでいる。


 そんな村田と女生徒のやり取りを嬉しそうに眺めていた間宮は、静かにドアを開いてそっと出て行こうとした。


「間宮先生!」


 だが、2人に背を向けた間宮に気付いた村田が呼び止める。


「あ、あの! 先程はすみませんでした! 俺も藤崎先生のように最後まで頑張ってみます!」

「えぇ、お互い頑張りましょう。お先に失礼します」


 村田の決意を聞いた間宮は、軽く手を上げて待機室を出て行った。




 宿泊施設へ向かう間宮は、両腕を天井に向けてグッと伸ばして大きく息を吐く。


「ふぅ! 今夜は格別に美味いビールが飲めそうだな」


 村田の最後に見せた顔を思い出しながら、間宮は1人微笑みビールを販売している自販機に嬉しそうに歩を進めた。




 ◇◆




「今日はここまでにしようか! 皆遅くまでお疲れ様! 今日は本当にごめんなさい」


 村田が壊してしまった講義の埋め合わせに開いた臨時講義を終えた藤崎は、受講した生徒達に改めて謝罪して頭を下げた。


「藤崎先生が悪いわけじゃないんですから、謝らないで下さいよ!」

「そうそう! それに今日の講義は凄く解り易くてラッキーって感じなんだしさ!」


 生徒達が、この臨時講義をそう評価してくれたのは素直に嬉しいのだが、根本的には何も解決していない。


 この後、もう一度村田と話し合う必要がある。


 今度は感情的にならずに、冷静に話さないと本当に生徒達の合宿が台無しにしてしまう。

 何としても、それだけは回避しなければならない。


 次々と席を立った生徒達が会議室を退室しようとしている。

 藤崎はその流れを眺めていると、会議室の出入口に生徒達が溜まって流れが止まってしまっていた。

 不思議に思った藤崎は首を傾げながら、出入り口に向かうと会議室前の通路に村田が立っていた。

 村田と生徒達が対峙しているのを見て、藤崎は危機感を感じ慌てて仲介に入ろうとした時、村田は勢いよく深々と頭下げた。


「皆! 今日は……いや! 今まで本当に申し訳なかった!」

「……え?」


 藤崎は目の前にいる村田の行動に目を疑った。

 それは生徒達も同じだったようで、皆何も出来ずにただ目を見開いて固まっているだけだった。


 それはそうだ。


 あの横暴な村田が見下していた生徒達に頭を下げて、今までの事を謝罪しているのだから……。


「俺にもう一度チャンスをくれないか!? 今度こそ俺にお前達が描いている将来への手伝いをさせて欲しいんだ! 頼む! この通りだ!」


 あのプライドの高い村田が、恥やプライドをかなぐり捨てて謝罪する姿に、生徒達が藤崎に困惑した顔を向けてくる。

 村田の姿に藤崎も困惑していたのだが、村田の変貌ぶりに何かを察したのか、フフっと笑みを浮かべて両肩を少し上げて見せて、生徒達の目を強く見返した。


「村田先生に対して色々と思う所はあると思うけど、今は受験生である自分達の事だけを考えて判断しなさい。私達はあなた達の為だけにこの場にいるんだからね」


 そうなんだ。


 生徒達からすれば、何を今更と思う事は当然なんだ。


 でも、厳しい受験戦争を勝ち抜く為に夏休みを潰して、この合宿に臨んだ生徒達ならどうすれば自分の為になるか考えて欲しい。


 そんな感情を込めて生徒達の目を見ていると、藤崎を見ていた生徒達が次々と再び村田に顔を向けていき、そして1人の生徒が口を開く。


「……分かりました。明日から宜しくお願いします」


 そう言った生徒は村田の事を許したわけでもなく、信用したわけでもない。

 その証拠に、村田を見る目は警戒心に満ち満ちていた。


「あぁ! ありがとう!」


 それでも、再挑戦権を手に入れる事が出来ただけでも、今の村田には大きな事だった。


 分かったと話した生徒が軽く会釈して会議室から離れていくと、他の生徒達も何も話す事はなかったが、同じ様に会釈して先頭を歩く生徒を追うように藤崎と村田の前から立ち去った。


 生徒達の背中が見えなくなるまで見送った後、村田は藤崎と向かい合い生徒達と同じように、深く、深く頭を下げる。


「藤崎先生! 本当に申し訳ありませんでした!」

「……私こそ、感情に任せて叩いてしまってすみませんでした」


 藤崎も村田に向かって、静かに頭を下げた。

 2人の間に沈黙が流れる。

 村田はどうしたのもかと、思考を巡らせているように見える。

 そんな村田を見て、藤崎は訊こうかどうか迷っていた事を尋ねる事にした。


「あの……あんなに剣幕だった村田先生が、生徒達や私にこうして頭を下げたのは、何故なのか訊いてもいいですか?」

「……それは、藤崎先生と、1人の女生徒と……間宮先生に目を覚まさせて頂いたおかげです」


 やっぱりと藤崎はスッキリした顔で、ふぅと息を吐く。


 あの村田が人が変わったようになるなんて、誰にでも出来る事ではない。

 きっと間宮が自分自身を変えてくれたように、村田にも何か言ったのだろうと、村田の返答がストンと胸に落ちた。


「そうですか。でも、村田先生はまだ許されたわけではありませんよ」

「えぇ、分かっています。明日から全力で生徒達に接していく覚悟です!」

「そうですか、分かりました。それじゃ……」

「え?」


 藤崎はスッと村田に手を差し出す。

 村田は藤崎に差し出された手を、ポカンとした表情で眺めている。


「それじゃ、明日から共に生徒達の為に頑張る仲間って事で!」

「は、はい! 宜しくお願いします!」


 差し出された手の意味を理解した村田は、表情を崩して藤崎と握手を交わした。




 きっと今日の出来事は、今後の自身の成長に繋がる。

 例えこの最終テストに敗れてしまっても、この経験が生きる未来がきっとある。

 握手を交わした藤崎と村田は、お互いにそう確信した夜だった。

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