第7話 2人だけの秘密        

 テストを終えた瑞樹達も、タブレットを落として一息ついていた。




「お疲れ……志乃~」

「あはは! お疲れ様、愛菜! ホントに疲れ切ってるね」

「出来れば、今日はもう勉強したくないって位頑張ったもん!」

「それ分かる! 今朝言われた事だけど、本当に体調管理って大事だなって思ったよ」

「だね! だから志乃も明日から、食パンのミミも残さずに食べるんだよ」

「え~!? それ関係なくない!?」


 疲れてはいたが、2人で談笑していると不思議と元気に声が弾けていた。


 まだ言葉を選んでいる事があるが、瑞樹にとって加藤は大切な存在になりつつあるのは確かだろう。

 外の空気を吸いがてら、テラスでお茶しようという事になり、2人はそのまま宿泊施設のテラスへ向かった。


 テラスへ到着すると、間宮の周りに瑞樹達と同じ英語のCクラスの生徒達が集まっていた。

 集まっている皆の笑顔が絶えない。余程テストの出来が良かったのだろう。

 そんな間宮達を見た加藤は飲み物を受け取ると、一目散に間宮の元へ駆けていく。

 瑞樹も慌てて加藤の後を追うが、間宮に近付けば近付く程足が重くなるのを感じた。


「間宮せんせ~い!」

「加藤さん、瑞樹さん、テストお疲れ様でした」


 間宮は取り囲まれている中から、ヒョコっと顔を出して加藤と瑞樹を迎え入れた。


「ホントにマジ疲れでしたよ!」

「お、お疲れ様です」


 加藤と瑞樹は対照的な挨拶をして、間宮達の集まりの中に入っていく。


「はは! それでテストの出来はどうでしたか?」

「もう! バッチリっすよ! 一番苦手だった英語の手応えが最強だったから、余裕が出来たせいか他の教科の手応えもありました!」

「わ、私も英語が一番良い出来だったと思います」


 間宮はいつもの柔らかい笑顔で2人のテストの手応えを聞くと、加藤は大きなピースサインで答えて、瑞樹は俯いて照れ臭そうに答えた。


「そうですか。それは良かったです」

「はい! もう間宮先生のおかげですよ!」

「先生のおかげで、苦手な英語に自信が持てた気がします」


 2人の反応に安堵の表情を見せた間宮に、加藤は満面の笑顔で、瑞樹は小さくお辞儀をして感謝の気持ちを伝えた。


「いえいえ、2人が頑張った結果ですよ。僕は大した事はしていません」


 間宮は飲み終えた紙コップを手に持って立ち上がり、結果発表は17時から中央ホールで行われるから遅れないようにと、生徒達に注意してテーブルから離れていく。


「あれ? 間宮先生はどこに行くんですか? 皆で時間までここにいましょうよ!」

「すみません。そうしたいのですが、今晩の自主学待機の当番なので、準備しないとなので一旦失礼しますね」


 加藤は立ち去ろうとする間宮を呼び止めたが、事情を話して建物の中に姿を消した。


「そっか! 今晩の当番は間宮先生だったのか……」


 両手を組み右手の指を顎に当てて、加藤はブツブツと考え込みだした。


「愛菜、どうかした?」

「うん。今日はテストで疲れたから、自主学は休もうかと思ってたんだけど……間宮先生が当番ならやっぱり自主学しようか悩んでるんだよ」

「なにそれ? 珍しく真剣な顔していると思えば、そんな事で悩んでたの?」

「珍しくは余計だよ!」

「あはは! ごめん! ごめん!」

「志乃はどうするの?」

「私? 私は今日も自主学するつもりだったよ? 今日のテスト問題を完全に自分の物にしておきたいからね」


 瑞樹は得意気にタブレットをトントンと叩いて見せた。


 だが、加藤を揶揄ってはいたが、瑞樹も本当は間宮が当番という事を意識していなかったわけではなかった。


 間宮が立ち去った後もCクラスのメンバー達と談笑しながら休んでいると、集合時間が迫り指示されていた中央ホールへ皆で向かう事にした。




 定刻の17時になり全員が中央ホールに集まった事を確認すると、司会進行役のスタッフが壇上に上がり挨拶を始める。


「皆さん、中間テストお疲れ様でした。テスト結果を踏まえて役員会議を行い、講師を含めたクラスの再編成の結果が纏まりましたので、これから正面のスクリーンで発表します!」


 スタッフがそう告げると、スクリーンに光が当てられた。


 生徒達は勿論、講師達もスクリーンに注目する。


 スタッフがタブレットをタップすると、スクリーンに再編成の結果が一斉に映し出される。


 結果が映し出された時、一瞬だけ会場が静まり返ったが、その後会場内は歓喜の声や悲鳴に似た声、それに泣き声までと、様々な声がホールに響き渡った。

 それはまるで、大学入試の結果発表が行われたような雰囲気が、ホールを支配する。

 それだけ参加した生徒達、それに講師達が真剣に合宿に取り組んでいる証明でもあった。

 瑞樹も自分の名前を探していると、急に後ろから加藤に抱き着かれる。


「きゃー!! わ、私! 英語がAランクに上がってる! 他の科目もCクラスだったのが全部Bクラスになってたよ!!」


 少し涙ぐんでいる加藤の横顔を自分の肩越しから見た瑞樹は、加藤が指さしている方に視線を向けた。


「ホントだ! やったじゃん! おめでとう! 愛菜!」

「ありがとう! これも初日に志乃が励ましてくれたおかげだよ! ホントに嬉しいよ! ありがとう!」

「ううん! 愛菜が頑張った結果だって! 私も英語がAクラスになってたから、また同じ講義を受けられるね!」

「うん! Cクラスだった皆も殆どが上がったみたいだし、当然間宮先生もAクラスの担当だよね! またstory magicで一緒に勉強出来る……ね……あれ?」



 結果発表して少し経過してから、ホール全体が騒めきだす。


 あちらこちらから、困惑した声が広がっていく。


「え? なんで?」

「いや! これはおかしいだろ……」

「え~!? なんで!? 絶対また同じクラスだと思ったのに!」


 生徒達が騒めいたのは、講師達の再編成の結果だった。

 従来なら受け持ったクラスの生徒達のテスト結果で、講師達が評価を受けて再編成される事になっている。

 確かに結果を見る限り、テスト結果で講師達も再編成されていた。


 ただ1名を除いては……。


 何故か間宮の担当クラスがCクラスのままだったのだ……。


 生徒達の困惑の声の内容は、この1点に集約されていた。

 間宮が担当したCクラスは、Cクラスのままだったのが2名、Aクラスまで飛び越えた生徒が10名、残りの生徒達はBクラスへ上がっている。


 この結果ならば、文句なしでAクラスの担当は藤崎から間宮へ交代するのは間違いないはずだと考えるのが当然だった為、生徒達が困惑するのは無理もなかった。

 この結果の経緯を知っている藤崎は平静を装うと努めていたようだが、周りの反応を見て複雑な心中は隠せるものではなかった。

 天谷の隣に立っていた間宮に周りの視線が集まったが、間宮本人は苦笑いを浮かべているだけで、無言を貫いていた。。


「この再編成されたクラスで、明日から講義を行いますので間違えないように!」


 スタッフがそう締めて、再編成の結果発表は終了した。


 結果発表の後の夕食の席では、間宮に物凄い質問や説明を求める声が殺到したが、自主学当番だった間宮にはあまり時間がなかった為、後日ちゃんと説明すると言っただけに留めて、そそくさと食堂を後にした。


 夕食を終えた瑞樹と加藤は予定通り自主学室へ向かい、タブレットを立ち上げて勉強を始めた。


「あ~あ……折角私もAクラスに上がれたから、また間宮先生の講義を受けれると思ってたのになぁ……」

「ほら! いつまでもそんな事言ってたら、藤崎先生に悪いよ!」


 まだ納得がいかないと、ボヤいている加藤を隣に座っていた瑞樹が注意する。


「ん~、それはそうなんだけどさ……」

「それに藤崎先生の講義だって、凄く良かったって評判だったじゃん」


 瑞樹がそう話しても、加藤から何も反応がない。

 静まり返った隣の席を見てみると、加藤は静かな寝息を立てて眠っていた。

 やはり疲れているのだろう。

 成績を上げる為にそれだけ努力していたのは、いつも一緒にいた瑞樹が1番知っている。


「愛菜、もう今日はこの辺にして、部屋に戻って休んだほうがいいよ」

「あっ! 私寝てた? ……ん、そうだね。やっぱり今日はもう休むよ」


 気持ち良さそうに眠っている加藤に、クスっと笑みを浮かべて瑞樹が声をかけると、加藤は諦めて道具を眠そうな顔で片付けだした。


「うん、それがいいよ。明日からも講義があるんだしね」

「ん~、ごめんね、志乃。お先に~」

「気にしないで! おやすみ、愛菜」


 瑞樹は、眠たい目を擦って自主学室を出て行く加藤を見送り、再びテキストに視線を落とした。


 その後、自主学を終えた瑞樹は壁に掛けている時計に目をやると、時刻は自主学室が閉まる15分前を指してした。

 時間を確認した瑞樹は手早く帰り支度を済ませて、部屋に戻ろうと自主学室を出たところで、ピタリと足が止まった先に、間宮が待機している英語の待機室があった。


 ついさっきまでは人気講師である間宮が待機講師だった為、かなりの行列が出来ていたのだが、もう自主学室が閉まる時間だったからか、誰も待機室にいる気配がなかった。

 瑞樹の足が、自然と間宮が待機している部屋に向かい、ドアの前で止まった。


 特に質問したい事があるわけではない。

 なのに、瑞樹の手はドアをコンコンとノックしていた。


「どうぞ」


 中から間宮の声が聞こえた時、無意識にドアをノックしていた事に気付く。

 このまま部屋に入らずに逃げる事も考えた瑞樹だったが、どうしても自分の足が加藤達がいるコテージに向いてくれない。


 諦めに似た息を吐き、瑞樹は待機室のドアを開けた。



「失礼します」


 意を決して部屋の中に足を踏み入れる。

 中には小ぶりなテーブルとパイプ椅子があり、机の奥にはデスクチェアに腰掛けている間宮がいた。


「こんばんは、瑞樹さん」

「こ、こんばんは」

「ん? どうかしましたか?」

「え? あ、いえ! 大丈夫で……ん? 何だか甘い匂いがしませんか?」


 微かにではあるが、学習室に似つかわしくない甘い香りに気が付き、ずっとこの場にいた間宮に尋ねると、ピクリと間宮の眉が不自然に動いた。


「この匂いって……メロンパン?」

「……すみません。やっぱり匂いましたか?」


 部屋にかすかに残る匂いの正体にアタリを付けた瑞樹に対して、間宮は観念するように膝の上に隠していた、食べかけのメロンパンを取り出した。


「夕食を殆ど食べれなかったので、ここへ向かう途中に買っておいたんですけど、生徒達の流れが切れたので時間的にもう誰も来ないと思ったものですから……」


 夕食の時、再編成の事で生徒達に囲まれて質問攻めにあっていて、食事に殆ど手を付けずに食堂を出て行った事を思い出した。


 あんな状況じゃ、食事どころではなかったはずだと、瑞樹はクスっと笑みを浮かべた。


「い、いえ! 気にしないで下さい。あれじゃお腹が減って当たり前ですから」


 瑞樹に気にするなと言われた間宮は、嬉しそうに食べかけのメロンパンを見つめる。


「そう言って貰えると助かります。あの……もう少しで食べ終えるので、質問は食べ終えた後でも宜しいですか?」


 大事そうに食べかけのメロンパンを見せながら、そう頼む間宮の口元にパンクズが付いている事に気が付き、ただでさえ間宮とメロンパンが結びつかない上に、そんな子供みたいな所を見せられた瑞樹は可笑しくても堪えていた笑いが吹き出してしまった。


「プッ! んふふふふ……ご、ごめんなさい、間宮先生とメロンパンってどうしても結びつかなくて……つい……あ! 大丈夫ですよ。待ってますから食べて下さい……んふふふふ!」

「あぁ、それですね。よく言われるんですよ……僕メロンパンが凄く好きなんですけど、これを話しただけで笑われたりするんですよね……何故なんでしょう」

「んふふふふ! これ以上笑わせないで下さい」

「別に笑いをとろうとなんて思ってないんですけどね……」


 間宮は少し拗ねたような仕草を見せて、食べかけのパンを食べだした。

 微かに残っていた甘い香りが強くなっていく。

 ついさっきまで、拗ねていた間宮が美味しそうにパンを食べている。

 そんな姿を見ていると、何故だか自然と微笑んでいた。


 (わ、私……何やってんだろ……)


 我に返った瑞樹は慌てて間宮から視線を逸らそうとすると、嬉しそうにメロンパンを食べていた間宮の様子がおかしい事に気付いた。

 パンを食べるのを止めて、苦しそうな表情で激しく自分の胸をドンドンと叩いている。


「これって、まさかパンを喉に詰まらせた!?」


 瑞樹は間宮の机にあった缶コーヒーを、咄嗟に手渡す。


「はい! これ飲んで先生!」


 間宮は缶を受け取って、すぐさま缶を口に運んだのだが、聞こえてきたのはゴクゴクと喉を鳴らす音ではなく、何も入っていない缶を必死に吸い込む音だった。


「えっ!? うそ!? 他に飲み物は……ないか。もう少し待ってて!」


 大急ぎで自販機に走ろうとした瑞樹だったが、鞄の中に飲みかけのペットボトルがあるのを思い出した。


 これを飲ませれば、また……とあの日の中庭での記憶が蘇り、ペットボトルを手渡そうとしていた手が止まってしまったのだが、間宮は自力で詰まったパンを取り除けないで、益々苦しそうな顔つきを見てしまうと、止まった手を再び動かした瑞樹は、勢いよくペットボトルのキャップを開けながら、口を開く。


「あぁ!! もう! 分かったわよ!」


 瑞樹はそう言うと、キャップを開けたペットボトルを間宮に差し出す。


「はい! 先生! これ飲んで!」


 間宮は勢いよく受け取り、文字通りペットボトルに入っていたミネラルウォーターを凄い勢いで流し込んだ。


「ゲホッゲホッ!! はぁ、はぁ……助かった……」


 何とか詰まったパンを流し込めて、激しく呼吸を乱している間宮を見て、瑞樹の中で何かが壊れた。


「バッカじゃないの!? 昭和の漫画みたいな事を、リアルでやる大人とか初めて見たわよ!」

「バッ! はぁ!? 死ぬかと思った奴に対して、第一声がバカはないだろ! バカは!」


 瑞樹の様子が突然変わった事に釣られるように、間宮の口調も明らかに変わっていく。


「バカ以外に何も思いつかなかったよ! 私がどれだけ焦ったと思ってるの!」

「知るか! 俺だって好きで詰まらせたわけじゃない! 待たせたら悪いから急いだんだぞ!」

「はぁ!? 何その恩着せがましい言い回し! 待ってるって言ったじゃない!」

「だからってだなぁ……あ」

「何よ!? 途中で切らないで……あ」


 2人は睨み合った状態で、我に返っていく。


 空気が重い。


 室内はさっきまでの言い争いが嘘だったかのように静まり返り、時計の秒針が時を刻む音だけが耳に入ってくる。


 ギギギという擬音が聞こえてきそうな重たい動きで、間宮は天井を、瑞樹は床に視線を落とした。

 10秒程だろうか……この状況に居たたまれなくなった2人は、お互いの方へゆっくりと視線を向ける。


 顔が真っ赤になっている顔が目に入った時、そのタイミングの良さが相まって、2人は込み上げてくる笑いが我慢出来ずに恥ずかしい感情を吐き出さんと、涙が出てくる程笑い合った。


「いや! 本当に助かったよ! ありがとう!」

「ホントそれ! 自販機に買いに行ってたら、マジでヤバかったんじゃない?」

「そうかも! 今度からはメロンパンは食べ終えるまで飲み物必須! って覚えとくよ」


 少し落ち着いたところで、改めて礼を述べる間宮を瑞樹が揶揄うと、今度は自然と笑い合った。


「さて! 本題に入りましょうか。分からなかった箇所の質問を受け付けますので、教えてください」

「え? は、はい! ここがイマイチ掴み切れなくて……」


 パチンと音が聞こえてきそうな程、瞬時にスイッチを切り替えた間宮に対して、瑞樹はさっきまでの空気が消えてしまった事に動揺しながらも、一応用意していた質問内容を説明した。

 質問した箇所は、正直教えて貰う程ではなかった。

 時間をかければ自力でも解けると判断した箇所だったのだが、質問する為に来た事になっているのだからと、とりあえず取り上げた問題だった。


「あぁ、なるほど。テストの時に若干意味の捉え方がズレて、完全な回答にならなかったところですね」


 間宮は自分のタブレットで、瑞樹の解答データを見ながら説明を始める。

 だが、元々理解出来かけているからなのか、間宮の説明が頭に入ってこない。

 ……違う。

 本当に解けなかった所の説明を受けていたとしても、きっと頭に入ってこなかったという確信があった。


 今の瑞樹の頭の中には、さっきのパンを喉に詰まらせてからの、別人かと思える程の子供っぽい間宮の事で一杯になっていたからだ。


 楽しかったのだ。

 僅かな時間だったが、間宮と話をしていて楽しかったと感じた。

 男の人と話をしていて、楽しいなんて思えたのって何時以来だろうと、瑞樹は間宮の説明を聞き流して、そんな事を思い出そうとする。


 ――チリン。


 頭の中で綺麗な鈴の音が響く。


 (……そっか。岸田君と最後に話した時以来だ)


 楽しかったから、間宮が先生モードに戻って寂しく感じた。

 勿論、元に戻った間宮が嫌いなわけではない。

 嫌われたくないと思えたのだから、その気持ちに嘘はない。


 でも……さっきの間宮の前だと自然体の自分でいられた。

 その事実が、今の瑞樹にとって嬉しかった。

 自分の前だけでは間宮先生ではなく、間宮良介でいて欲しいと望むのは我儘なのだろうか……。


「瑞樹さん?」

「えっ! は、はい!」

「今の説明で解りましたか?」

「は、はい! 大丈夫です。ありがとうございました!」

「本当ですか? 上の空って感じに見えましたけど」


 上の空……確かにそうだ。


 間宮は、きっと丁寧に説明してくれたのだろう。

 それなのに、全く違う事を考えていたなんて、失礼以外の何物でもない。


「い、いえ! そんな事ありませんよ」

「まぁ、解って貰えたのならそれでいいんですけどね。他に解らない所はありませんか?」

「はい、大丈夫です」

「そうですか。それじゃ今日はここまでにしましょうか」


 間宮がタブレットを落として、席から立ち上がり締めていたネクタイを少し緩めながら、かけていた眼鏡を外した。

 机の上に置かれた眼鏡を見て、瑞樹は確認したい事があった事を思い出した。


「あ、あの!」

「はい?」


 帰り支度を進めている間宮に、自身の仮説を確かめたくて思い切って声をかける。


「勉強の事ではないんですが、間宮先生は普段からずっと眼鏡をかけているんですか?」

「眼鏡? どうしてですか?」

「いえ、その……私も眼鏡にしようか迷ってまして」


 かなり苦しい嘘だとは思ったが、それ以外に言い訳が思い浮かばなかった。


 間宮は首を傾げていたが、常時眼鏡をかけているわけではなく、仕事中が殆どで、基本的には裸眼でいる事のほうが多いと話す。

 裸眼でいる方が多いと聞いて、瑞樹は外出先でもなのかと問うと、元々眼鏡やコンタクトに頼らないといけない程、視力が悪いわけではなくて、あくまで予防の意味合いが強いと返した。


「じゃあ、裸眼でも私生活に困らないって事ですか?」

「ええ、基本的には問題ありません。でも、夜や薄暗い場所などでは、ピントが合うまで少し時間がかかる事があるんです。見ようとする物をジッと見つめないと、ボケてしまって認識が出来ない場合があるので」


 やはり立てていた仮説が正しかったようだ。

 あの薄暗い場所では瑞樹の事をジッと見つめていないと、ボヤけたままだったはずだ。

 でも、目が合っただけで睨みつけてくるような女に、そんな事をしたらどうなるかなんて容易く想像出来る。

 だから、最後までボヤけたまま2人は別れたのだろう。


「……こんな話が何かの役に立つんですか?」

「は、はい! 私もそこまで視力が悪いわけではないので、凄く参考になりました」

「それならいいんですけどね。それじゃ出ましょうか」


 待機室を出た2人は、講師達の部屋と瑞樹が宿泊しているコテージは途中まで同じ通路だった為、2人で並んで歩く。

 瑞樹は何か話題を振って間宮と話がしたかったが、気の利いた話題が何も出てこなくて、1人で悶々と考え込んでいると間宮の方から話しかけてきた。


「そういえば、さっきタブレットで瑞樹さんの成績を見たんですが、今日のテストで全教科Aクラスになったんですね!」

「あ、はい!」

「凄いじゃないですか! おめでとうございます!」

「あ、ありがとうございます……その、間宮先生のおかげです」


 テスト結果を褒める間宮の声が凄く優しくて、素直に心の中にストンと落ちた。

 隣を歩く間宮を見上げると、柔らかい笑顔で微笑みかけている。

 瑞樹は恥ずかしくなったのか、バッと視線を逸らしながら間宮にそう礼を述べた。


「いえいえ! 全て瑞樹さんが努力した結果ですよ」


 なんだろう……先生に褒められると素直に嬉しい。


 瑞樹の顔から自然と笑みが零れていく。

 そんな瑞樹に間宮が続けて話題を振ってくる。


「瑞樹さんって、来月誕生日なんですね」

「あ、はい。そうです」


 何故、誕生日を知っているのかと疑問に思ったが、恐らくタブレットでプロフを見たのだろうと察して何も言わない事にした。


「来月で18歳ですか。当たり前ですけど、若いですねぇ」

「……はい」


 この年齢差の話はあまり聞きたくない。

 何だか子供なんだから、俺に近付くなと言われている気がするからだ。

 異性として見ているわけではないのだから、特に気にする必要はないはずなのだが……。


「……そんな事……先生だって若いじゃないですか。周りの皆は実年齢より若く見えるって言ってましたし、わ、私もそう思います」

「はは! そうですか。それは誉め言葉として受け取らせて頂きますね」


 そんな会話をしながら歩いていると、自販機があるスペースの壁に背を当て凭れて、足を交差して立っている女性が目に入った。


「あ、間宮先生! 待機当番お疲れ様でした」


 間宮の存在に気付いて、声をかけてきたのは藤崎だった。


「藤崎先生お疲れ様です。こんな所でどうされたんですか?」


 近付いてきた間宮に、「はい! どうぞ!」と藤崎は手に持っていた缶ビールを差し出した。


「今夜はお酒を飲みながら討論会の続きをしようって事になって、中庭で講師の皆さんが間宮先生をお待ちですよ」

「はは! そうなんですか! それは参加しないとですね」


 間宮は差し出された缶ビールを受け取りながら、嬉しそうに微笑んだ。


「ふふ! そうこなくちゃです!」


 藤崎は瞬き程のウインクをして、中庭に向かいだす。

 藤崎に自分の気持ちを打ち明けた瑞樹には、そのウインクの意味を理解出来てしまい、ムスッとした表情で立ち去る藤崎の背中を見送った。


「それじゃ」と瑞樹に声をかけて中庭に向かおうとした間宮だったが、中庭へ出るドアの前で立ち止まり、再びご機嫌斜めな瑞樹の元へ歩み寄った。

「明日も朝から講義ですから、早めに休んで下さいね」

「……はい、分かってます」


 瑞樹は依然として、子供の様に膨れた表情を崩さない。


「それと……さっきの事なんですが……」

「はい?」


 間宮のさっきの事というのは、先生モードが切れた間宮の事だというのはすぐに分かった。


「合宿が終わるまでは、他の皆さんには秘密にしてもらえませんか?」

「えっ? えぇ、はい! 分かりました! 誰にも言いません!」


 瑞樹は間宮の頼みに対して真剣な表情でそう約束すると、間宮は少し安堵した表情を見せて小声で呟く様に話しかける。


「サンキュ! 約束だぞ、おやすみ」

「うん! おやすみなさい!」


 ニコッと笑顔を見せて、間宮は藤崎達が待つ中庭に向かおうと瑞樹に背中を向けた。


 間宮が何を秘密にしたがっているか理解している。

 それは、仕事中にメロンパンを隠れて食べていた事ではない。

 きっとこの合宿中に素の間宮良介を、誰にも見せないつもりだったのだろう。


 そんな間宮を予期せぬトラブルからとはいえ、この合宿に参加している人間の中で自分だけが知れた事に、なんだか2人だけの秘密を持てた気がして口角の角度が上がっていた。


 タブレットや勉強道具を自分の胸の辺りで、ギュッと抱きしめながらコテージへ向かう通路を歩くスピードが自然と小走りになっていく。


 頬を染めて、顔の筋肉が緩んでいるのが自分でも分かる。


「えへへ!」


 この秘密は誰にも知られたくない、誰にも知らせない。

 この秘密は2人だけのものなのだからと、瑞樹は満面の笑みでコテージに帰って行ったのであった。

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