再び、歓談を駆け下り、玄関へ行くと、自分よりも遅く食べ終わったはずの兄がもう、教科書を入れたバッグを背負い、靴を履こうとしていた。


「————って、早っ! いつの間に‼」


 希は、兄の動きの速さに驚いた。


「お前が遅いんだよ。それに高校生は、いくら自転車通学とはいえ、朝課外が四十五分から始まるんだよ」


 少年は、希に高校生の苦悩を言う。


 中学とは違い、高校になると、一時間目の授業の前に朝課外の授業が四十分間設けられている。これが、三年に上がると、高校総体明けから部活動が終わった人間から放課後課外が始まるように、学生を縛るための恐ろしいものが待っている。


「お前も早く学校に行けよ。この時間帯だと、走ってギリギリだろ?」


 少年は、靴を履き終えると、先にドアを開いて、外に出て行った。


(もう、お兄ちゃんの意地悪……)


 希は頬を膨らませて、急いで靴を履き、兄の後を追って外に出た。


 少年は、既に自転車に乗り、今にも漕ぎ始めようとしていたところだ。


 希は、少年を呼び止めようと、大きな声で叫ぶ。


「待って、お兄ちゃん‼」


 少年は、漕ごうとするのを止め、希の方を振り返る。


「なんだ?」


「ちょっ……ちょっとだけ、待ってて!」


 希は家の鍵をしっかりと二重ロックして、すぐさま少年の自転車の後ろに飛び乗る。


「おい、ちょっと待て……。もしかして、このまま二人乗りで学校の近くまで送って行けって言うんじゃないだろうな……?」


「ふ、ふーん」


 希は微笑み、少年の背中に自分の腕を回す。


「はぁ……」


 少年は溜息を漏らし、ハンドルを再び握る。


「ったく……。振り落とされても、文句を言うなよ!」


 少年は、週の始めの朝っぱらから動きの鈍い自分の足を全力で漕ぎ始めた。




 希が通う天海中学校は、兄が通う天海西条高校の通学路にある。


 この交差点を右に曲がれば、そこから希とは別々の道を行くことになる。


 信号が赤になり、希と別れた少年は、高校に向かって、自転車を走り始めた。


 すると、少年の真横を同じスピードで黒い物体が視界に入ってくる。


「相変わらず。朝っぱらから大変だったわね……」


 その黒い物体は、少年の肩に止まり、羽を休めて話しかけてくる。


 羽。黒く、綺麗な羽。黒い瞳に黒いくちばし。


 人間が生きていく生活の中で、最も天的な動物の一種————




 ————『烏』である————




 その烏は、なぜか、言葉を話せるらしく、少年と話をしているのだ。


「うるせぇ。見てたんなら、少しくらい助けろよな……」


「私の物が、朝から女の尻に敷かれるなんて、情けない……」


 烏は、溜息をつく。


「別にお前の物じゃねーぞ、クロエ。それに通学時間に俺の肩に乗るんじゃねぇ……。周りから気味悪がられるだろうが……」


 少年は、烏の名を呼ぶ。


「颯馬、烏は、漆黒に包まれた集団だ。それに勝手に行動する奴だっている。私は、気まぐれな烏だ。烏を気味悪いと思われるのは仕方がない。お前は、私のもう一つの姿を知っているだろ?」


 クロエは、少年、いや、希の兄でもある颯馬にそう言った。


 雪城颯馬、十六歳。天海西条高校二年。


 黒髪の短髪、身長一七五センチ。


 現在、時間ギリギリで、謎の烏と会話をしながら高校へと急いで自転車を漕いでいる。


「それにここ最近の悪魔や魔女の出現が多くなっているのを知っている?」


「ああ、やたら倒しても、次から次へと、うじゃうじゃと湧き出てくるんだ? 調べはついているんだろ?」


「いいや。その点については、まだ捜査中だな。私にも分からない事が起こっているのは確か。そもそもこの町自体が、嫌なものに包まれている」


「天海町が……?」


「そう。この町を中心に何かが集まりつつあるのは本当よ。まぁ、とにかく忙しくなるのは確定事項だけどね」


 クロエは、意地悪そうに告げた。


「おいおい……。俺以外の契約者とか見つけてくんねーのかよ……」


「無理ね。私の場合は、あなた以外の契約者は、絶対に無理。でも……」


「でも?」


 颯馬は視線だけ、クロエの方を見る。


「いいや、何もない……。それよりも後十分もしないうちに朝課外とやらの授業が始まるんじゃないのか?」


 クロエは、颯馬の時計を見ながら言った。


「分かっている! この距離なら後五分後には、靴箱の前だ‼」


「そう言うが……あの高校、坂が本番みたいなもんじゃないのか?」


「……」


 クロエに言われた颯馬は黙り込む。


 西条高校は、この町で唯一、山の上にある高校だ。


 家から学校までの道のりは楽だったとしても、坂から校門までの距離を駆け上がるのが、この学校の生徒にとっては、朝の地獄である。


 それでも、この学校は、この坂を『絶望』の坂ではなく、『希望』の坂と呼んでいるのが、どうもおかしい。


 県立の高校でありながら、在校生は約八百人の進学校である。


 一学年、六から七クラスあり、三年間で交友関係を結ぶ同級生はそこまでいない。


「お、もう、桜の花びらも散ってしまったか……。早いな、咲き始めて散るのも……」


 クロエは、小さな堤防に植えてある桜を見ながら、どこか、遠い目をしていた。


「そうか? 去年も満開の桜のロードを通っただろ?」


「満開もいいが、散った後も見応えがあると思うんだが……」


 堤防を降り、最後の信号を右に曲がると、ようやく長い坂が見えてくる。


「クロ、そろそろ離れてくれないか? 高校生がカラスと一緒に登校なんて、気味悪がられるからな……」


「……」


 クロエは、颯馬をじっと見る。


「はぁ……。いつになったらお前と最後まで一緒に登校できるんだろうな?」


「一生ない!」


 それを聞いて、クロエは颯馬の肩から飛び立つ。


「じゃあ、また後でな……」


 そう言い残して、姿を消した。


(————てか、毎朝、一緒に登校しなくても家で会えるからいいんじゃないのか?)


 颯馬は、最後の坂を全力で駆け上がっていく。




 自転車を駐輪場に置き、急いで玄関へと走っていく。


「やあ、颯馬。今日は遅刻ギリギリだね。やはり、いつものアレ?」


 と、颯馬よりも早く靴箱でスリッパに履き替えている少年が話しかけてきた。

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