『騙してやろう』
僕もマルチや宗教の勧誘を何度か受けてきたけれど、きっかけになる人間はそう思って近づいて来たりしない。彼ら彼女らの背後に悪意があったとしても、当人には純粋な感情だけがある。
語り手の高校時代の友人、A君はまさに、純粋な善意によって勧誘してくる。説得は出来ず、むしろA君にとって悪は書き手の側ですらある。そういう考察を、高校時代のA君との経験から導き出す。
善意であるがゆえに価値観の違いが浮き彫りになってしまうもどかしさと悔しさ。
友人にカルトやマルチに勧誘された体験談は世の中に溢れている。やり込めたとか論破してやった、というような話もよくある。そうして、体験を消化しようとする。
しかし語り手とA君との間にはそれがない。価値観の相違と、それに基づくもの哀しさという事実が残るだけ。それはある意味、もっとも残酷な結末なのではないだろうか。