正八面体に関する記録

@hrpo

プロローグ 

 廊下まで響くような野太く擦れた声が一人用の病室から聞こえてくる。

その病室のベットにはその不快な声にのせられた憎しみや怒りが後ろに見え隠れする見舞いの言葉を浴びせられる、俯きうな垂れた男がいた。


 「いやしかしホント急なことでびっくりしたよ。あの神田さんがこんな事故起こして怪我するなんてさ。みんなも驚いて心配してるんだよ。」

「自分の注意不足ですみません。その、、すみません。」


その男は若くも老いてもいないが、謝罪を繰り返しながらも冷たい病院のべットの白い金属性の手すりを擦る姿は怪我人というだけでは言い表せない弱さが滲み出ていた。


「塚本さん。神田さんも疲れているので今日のところはここまでで、、」

気を利かせてか初老の看護婦がでかい声の主に言う。


「あぁすんません。じゃあ神田おれかえるわ。処理しなきゃいけないこともあるし、まぁ落ち着いたら連絡してくれや。話合いたいこともあるしさ。」

「....はい。ほんとすみませんでした。」


塚本と呼ばれた男の反響する足音が聞こえなくなり神田はやっと顔を上げた。

その顔は焦りと失望によって歪んでいたが、それは塚田によって告げられた事実上の解雇宣告によるものでも、死にぞこなった自分に課せられる社会の”制裁”によるものでもなかった。


その虚ろな目はただ、視野のやや上あたりで浮かんでいる薄青紫で無機質な正八面体を見つめていた。


「どうして、どうしてなんだ」


怒りながらも許しを乞う子供のような気弱なその呟きとは関係なくわずかに振動する正八面体はあの瞬間から変わらず目のまえにある。


 一週間前、ビルの屋上にある熱交換機の冷却塔の整備作業をいつもより手早く終えていた神田の顔には達成感とは違う穏やかな表情があった。


「ここにしよう」


同伴していた同僚は片づけなどせず神田に一切押し付けて先に立ち去っており、屋上にただ一人の男はそう呟いた。


命を絶つ理由として、人間関係が辛いとか仕事が辛いとか探せばもっともなものがあたかもしれない。

ただ失望していたのだ。

自分の命に意味を与えられない自分自身に。


屋上にある安全柵を整備用の工具で手際よく外して下を覗いた神田はその新鮮な光景にもうなくしたはずの興奮のような感情を覚えた。

そんな自分がおかしくて笑いながら遠い記憶にある様々な意思や感情を励起させて、最後にそこには決意という意思が生まれていた。


それは命を絶つために飛ぼうと足を一歩二歩と進めた神田の前に出現した。

薄い青紫で無機質ながら正確な正八面体の形状、そして振動する姿はこれまで見てきたどんな物にも形容しがたい異質さがあった。

妄想というにはあまりにも実態がある非現実的な姿に神田は実行しようとしていた行為を一瞬忘れさせたが、また可笑しく笑うと最後の歩みを進め飛んだ。


そうして神田は正八面体に見初められた。

意味を与えられずにすてられるはずの命を強制的に繋ぎとめた無機質な力の根源は

その命に役割をあたえた。


 死んだはずの男はその役割に気づくはずもなく、今はただ延命という罰と圧倒的で絶対的な正八面体の存在にまた頭を下げてうな垂れるしかなかったのだった。

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