あの子

 次々に起こる問題をひとつひとつと片付ける。

 もう遠い記憶となってしまった入社当初の自分、今なら数分で片付く問題を得意ではない人に聞くという方法を使ってこなしていた。

 

 都内にあるはずなのに無駄に横に広いオフィスに昼休憩を知らせる音楽が流れる。

 前までは集中している気持ちを途切らせてくる音楽は大嫌いだったが上司から休憩はしっかり取れと注意を受けてからは従うしかなくなっていた。端の席に座る上司に軽く会釈をしてから席を立つ。前までなら押すことの無かった電話の離席ボタンを押して昼食を食べに向かう。

 オフィスを一歩出ると広がっている休憩室、正式名称は小難しい横文字が頭についたラウンジだったと思う。休憩室はお弁当の評価をしあう女性と愛妻弁当を羨ましがる男性で埋まっていた。

 

 私がひとりで席に座ると机をひとつ潰してしまうので毎回諦めて隣の別棟に向かう。一階から四階まで吹き抜けになったオフィスとは思えないガラスで囲まれた建物にはあちらこちらにベンチが設置されている。いつもの場所に席を取る。ちょうど柱で周りから見かけられないベストポジション。エアコンの風が当たりすぎることもなく日差しも気にならない。コンビニの袋から代わり映えのしないおにぎりとカップタイプのお味噌汁を取り出す。

 遠くの受付から聞こえてくる喧騒をBGMに淡々とおにぎりを噛みちぎり小さくしていると後ろで明かに何かを落とす音が聞こえる。ここに人がいたことなんてないので驚いて振り向くと既にそこにはいつもの静寂が戻っていた。

 

 ・ ・ ・ 

 

 あの日の不思議な物音を気にしすぎなのかもしれない。

 なんだか見られているようん感じがして落ち着かない。もし、それが気のせいじゃないとするならそれは誰なのだろう。誰にも愛想を良く振る舞った記憶は全く無い、上司ならば、あの人は普通に話しかけてくるだろう。

 

 正体が何なのかを考えながらあの場所に向かう。

 自動扉が開くと立ち止まってしまうほどの湿度を含んだ空気が体にぶつかる。仕事に集中していて気がつかなったけど外は雨が降っているのだ。折りたたみ傘はロッカーに入っているけど取りに帰るのも面倒臭い。しかしちょっとの距離でもびしょびしょになってしまうようなドシャ降り。

 

「あの、これ一緒に使いませんか?」

 急に後ろからオレンジ色の傘が伸びてくる。振り返って確認すると中学生のような体躯の女の子が立っていた。首からぶら下がった社員証が無ければ見学に来た学生だと思うだろう。

 

「えーっと、あなたは先月から来ているとなりの部署の…」

 記憶を遡る。新しく入ってきた子だと説明はされたけど興味がなくて覚えていない。

 

「あ、やっぱり覚えてないですよねぇ、いいんです」

 崩れたニヤケ顔でペラペラと話し始める。どこか聞き覚えのある声だと思ったらとなりのブースから聞こえてくる声の中心的な人物の声だった。私とは対照的なお喋り上手ってことだろう。空気に含まれる湿度とこの子の体から発せられる熱で暑苦しい。

 

「ああ、また色々と喋ってしまいました、話しかけてみたいと思っててやっと話かけれたんです」

 先日の物音もこの子だったのだろう。傘を持ってくるのは面倒なので一緒にとなりの建物まで渡し船の役割をしてもらう。

 私がおにぎりを食べ始めると当然だという感じでとなりで菓子パンを食べ始める。無音だったいつもの場所には菓子パンが潰れて噛みちぎられる音と色々と飾りのついた服の擦れる音が聞こえる。

 

「それで、何か伝えたいことでもあるの?」

 不思議な顔をしたまま固まっている。

 

「あの、先輩を見てると何だか話しかけてみたいって思って。それだけなんですけど、ダメですか?」

 非常に答えに悩む質問だった。ダメかと言われればダメじゃ無いけど個人の気持ちとしては鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。

 

 ・ ・ ・

 

 私があの子に予定を合わせるなんてことは無いのにお昼休みになると結局は一緒にお昼を食べていた。私が一回喋るとあの子は十回は喋っていた。

 

 明るい髪色は黒に染めても落ちてしまうこと。

 カラオケで年齢確認をされなかったことがないこと。

 夜の繁華街は歩くのは危険だということ。

 豚汁は高いから豆腐のお味噌汁しか買えないこと。

 

 そんなある日、珍しく仕事の話があの子から飛んできた。

 プレゼンの資料の作り方の相談だった。前の会議で用意したスライドを幹部社員に苦い顔をされたことを気にしているようだった。

 私は二回おにぎりを飲み込んでからメールアドレスの記載された名刺を渡して添削する約束をした。私からあの子に関わるのは初めて。名刺を貰ったあの子はとても喜んで私にまで喜びの熱が伝わってくるようだった。

 

 オフィスに戻ると早速メールボックスに添付ファイルありのメールが届けられていた。

 本文には〝来週、またプレゼンなんですー〟と添えられていた。スライドの内容は思ったより悪くは無かった。編集履歴を見るとあの子なりに何度も直した履歴が残っていた。

 

 一通りの箇所を直してメールを送り返す。

 コメント欄に〝プレゼンも仕事も何でも強い行動力が必要! 〟と付け加えておく。誤送信を防ぐためのチェックソフトで自分の書いたメッセージを再確認すると恥ずかしくて送信ボタンをクリックする人差し指が震えた。

 

 あの子からの返信メールはプレゼンが大成功だったという内容を画面が埋まる程の絵文字で表現されていた。まだまだ修正しないといけないところはあるけれど今日はとりあえず良いだろう。

 

 自動扉が開くとあの日のように湿度が襲ってくる。

 本格的な夏、雨上がり後の湿度はこの前と比べ物にならない。あの子を待ってあげることにする、話したいことも溜まっていると思うから。

 

 遅れてきたあの子はどこかよそよそしい。

 いつもなら笑顔で飛んでくるのに今日はしんみりしていてどこか言いたいことを隠しているみたいだった。途中何度か言いかけて黙る。

 

 私のビニール袋の中には小さなお祝いの豚汁がふたつ入っているのに体調でも悪いのだろうか。

「今日は体調でも悪い? 無理しなくて良いのにあっちに休めるところが

 あるわ…」

 言いかけて黙る、あの子の顔が私の顔に急接近していたからだった。

 

「先輩……」

 手首を掴まれて後退りを塞がれる。実際の時間は数秒もなかっただろうけど大きなあの子の瞳の奥を見てしまった。

 

 それから電池が切れたおもちゃのように力が弱まって私の手首はあの子の手から離れる。

「あはは…ごめんなさい、ちょっと先輩に聞いてもらいたい話があって…強いこうどうりょく? をここでも使っちゃいました……なんちゃって」

 何でだろう、怒る気にならないどころか何かをとりこぼした感覚になる。

 

「話は聞いてあげるから、強引なのはやめなさい」

 こう返すのが精一杯だった。

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