昔を思い出して
会社の接待室には水面の位置がばらばらな湯呑が残されている。過ごしやすい春の空気が後押ししてくれたのか本日の商談も無事に終わった。
貰った名刺を整理するために自分の名刺を一度出す。
もうすでにこの会社で働き始めてから五年以上。大学に通っていた時間より長い時間が経過してしまった。名刺には会社名と連絡先の他に役職が記入されるようになっている。
契約書をまとめて接待室を出ると達成感を免罪符にして就業中に禁止されている喫煙室に向かう。なるべく本社が入っている階に止まらないように祈りながら一番下まで降りる。
警備員に軽く会釈をして二重の自動扉を抜ける。
周りにはコンクリートで形どられた人工物しかないはずなのに心に桜が浮かんでくるのは柔らかい気温のせいだろう。煙と喫煙者を世間から隠すための板に隠れて青色の箱に入ったタバコを取り出す。壁にもたれ掛かると煙をゆっくり吸い込む。ガツンとした味でタバコを吸い始めた頃のクラクラとした感触を遠くに思い出す。大学の時に吸い始めて最初は色々拘っていたライターも今はカラフルな原色のコンビニライターになっている。
遠くに走っている電車を意味もなく眺めていると声を掛けられる。
「うわ、先輩またサボってるんですか?」
ここまで来てしまえば相手もサボっていることは間違いないので驚きもしない。いつものサボり仲間、実際には後輩なので仲間ではないのだけど。
「うるさいなぁ、松原くんもひと段落したいかんじ?」
黙って頷いている。松原くんは営業部のそこそこの若手というポジションの男の子。
「先輩、タバコなんか吸ってカレシさんに嫌われないんすか?」
その言葉の一部をカノジョに変えてそのまま返したかったけど思うことがあって考える。この前したケンカはまだ元通りに戻っていない。
・ ・ ・
大学に入って間もない四月に私は告白された。
それまでも誰かと付き合うことなんて当然あったけど女の子は初めてだった。その時の優子の顔があまりにも必死でかわいいなと思って付き合い始めた。
付き合い始めて二か月。私は女の子とそういうことをするなんて想像もしていなかったから考えてもいなかったけど初めてのキスは優子からだった。私はキスは初めてじゃ無かったけど優子はどうだったのだろう。あの時のぎこちなさを考えると初めてだったのかも。
最初のキスは、優子から唇を近づけてきて最後は私が奪った。こんな感じのキスが多かった気がする。優子がキスしたいと詰め寄ってきて最後は私が唇と舌を動かすのだった。
私が連休と講義をサボって取った運転免許の記念に優子をドライブに誘ったことがあった。優子がドライブの後半から妙にスキンシップが多くなってこれ以上はかわいそうだな思って山道の待避所に車を停車させた。まだ何をするのか分かってない優子の後頭部をハンドルを握っていた手で抑えた。反射的にのけぞる優子を手で逃げれないようにして何か言う前に唇を押し付けた。後でさんざん、獣とかシチュエーションが分かってないなど言われたが本当は満足だったのかそれからも車でデートに行くことは続いた。
同棲を始めたのは就職をすることになって都内の家賃の高さに驚いたからだ。もちろん優子は家賃が安くても同棲したいと言ってきていたと思うけど。
私は飛ぶ鳥を撃ち落とす勢いだったIT業界を選んで、優子は昔から私のファッションまでに口を出してくる程のファッション好きで選んだ業界はアパレルだった。
あからさまにイチャイチャしない老夫婦が愛し合っていないのでは無いのと同じように私たちも社会人になってからは淡々とした関係になった気がする。
私も役職がついてしまって忙しいし、優子は今度は副店長として新規店の立ち上げがあって忙しいようだ。
キスも久しくしていない。
原因を考える、キスにかかる時間なんて多くて数分なのに。手に持っているタバコに視線が落ちる。もしかして匂いかな……。
優子がタバコの匂いに敏感なのかは分からないけど一度気になるとそうなんじゃないかと思えて仕方がない。
「松原くん、これ上げる」
まだ封を切って間もないタバコを箱ごと渡す。じっとりとした疑いの目をした松原くんを無視して会社に戻る。早く仕事を終わらせないと。
その日は仕事を早急に終わらせて定時に帰る。
会社に近い1LDKのマンション。ベットは優子の希望でダブル。ふたつ置こうと提案したら怒られたのを覚えている。結局、寝相の悪い私の攻撃をいつも受けているのだ。最近はお互いの帰宅時間も就寝時間もバラバラだけど、それでも夜中に目を覚ました時に横に誰かが寝ているのは安心する。
簡単な料理を作って優子の帰宅を待つ。準備が終わるころに玄関の鍵が解除される音が聞こえてくる。
「ただいま、あれもう帰ってたんだ」
優子の声が聞こえる。
「うん、おかえり。今日は早く帰ってきた」
疑問顔の優子を見ながらてコップに入れた麦茶を渡す。カバンを置いて麦茶を飲み干す。
かわいいよな。
ふんわりとした髪の毛、私より一回り小さくて華奢な体躯。女の子らしさが凝縮されている。大学の時に付けていた前衛的だけどかわいらしい服はもう着ないのだろうか。優子が副店長なのは間違いなのではないのか、デザイナーの方が向いているのでは。
タバコを吸っていないからなのか冷静ではなく体温が上がっていることを感じる。そろりと優子に近づく。
「優子こっち向いて」
優子の社会人になってから濃くなってであろうファンデーションの匂いが鼻をつく。つまりそれだけ近づいていた。
戸惑い驚く優子の手にあったコップを撫でるように取って机に置く。そして逃げられないように指と指を重ねる。優子の口より私の口の方が熱い。
優子の呼吸も考えて唇を離す。最初は冷静だった優子もしっかりと真っ赤になっている。
「もしかして、タバコ辞めたの?」
優子は机に放置されたコップの中身を飲みながら冷静を装って聞いてくる。やはり優子はタバコの匂いを気にしていたのかも。
「うん、タバコをやめると優子の味がよくわかるようになって楽しいよ」
変態!という怒号が聞こえるが無視して料理を温め直しに向かう。
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