ノクターン

増田朋美

ノクターン

ノクターン

春が間近の暖かい日だった。相変わらず風の強い日が続いているが、気温は比較的暖かくなっていて、穏やかに過ごせる日が、多くなってきた。其れでは、念願の桜マラソン大会も開催できるかな、なんて、富士市の運営側は、そんな事を呟いていた。

春と言えば、卒業とか、入学とか、そういう門出の季節としても有名だ。そして、職業が変わるという季節でもある。今年の入社式は、流行っている発疹熱のせいで、あまり盛大にはしないという企業が多くみられるが、簡素でありながら、ここにも、入社式というか、新たな職業に就こうとしている、人間が一人いた。

「それでは、行きましょうか!新しい、私の人生が始まるんだ!」

と、反田頼子は、気合を入れて、御殿場駅の富士山口の改札口を出た。

「えーと、確か、ここからバスで、15分くらいだったはずね。」

と言って、バス乗りばを探して、バスの時刻表を見たところ、一時間に一本しかないのである。時計を見ると、時間は、45分以上ある。そこで、しかたなく、近くの喫茶店に立ち寄って、雑誌を読んで時間をつぶし、改めてバスのリばに行って、バスに乗った。バスは、本当に小さなバスで、頼子が見ている東京のバスとは、偉い違いの大きさのバスだった。でも、その小さなバスは、頑張って、頼子を、バス停まで乗せていってくれて、頼子は、誰もいないバスを、一人で降りた。

そのバス停から、八分くらい歩いて、小久保法律事務所と書いてある、小さい看板が設置されている、建物の前で足を止めた。

「ようし、ここで、いよいよ、あたしの新しい生活が始まるんだわ!」

頼子は、一つ息をして、チャイムを押した。

「はい、どなたですか?」

ちょっと、年配かなと思われる男性の声がそう聞こえてきた。

「あの、今日からこちらで働かせて頂くことになりました。反田頼子と申しますが!」

と、頼子が言うと、

「あ、そうか、今日からうちへ来てくれることになりましたね。はい、お待ちしておりました。どうぞおあがりくださいませ。」

と、いう声が聞こえてきて、頼子はがちゃんと、玄関の戸を開けた。

「ドウゾ、上がってきてくださいませ。」

と、言われて、頼子は、中に入る。確か、入ってすぐの部屋が、法律事務所になっていると言われていた。頼子がその通りに部屋に入ってみると、部屋は、書物が所狭しと置かれていて、部屋の片隅に置かれている机に向かって、小久保さんが、なにか書いていたのだった。

「ああ、すみません、丁度、月刊誌に出す原稿を書くのを忘れていて、今、缶詰状態になっていた所でした。」

と、弁護士の小久保哲哉さんは、頭をボールペンでかじりながら、そういうことを言った。

「あの、反田頼子です。宜しくお願いします。」

頼子が改めてそう、自己紹介すると、

「はい、よろしくお願いします。助手の仕事は、ちょっとたいへんかも知れないけど、慣れれば良いことありますから。」

と、小久保さんは、にこやかに笑って、ボールペンを机の上に置き、軽く頭を下げた。

「今日は、10時半から、依頼人が見えることになっておりましてね。早速の初仕事ですが、お手伝い願いますよ。」

「依頼人ですか。民事訴訟でも起こされるんですか?」

と、頼子が聞くと、

「いえいえ、刑事訴訟ですよ。被告人は、金子美恵です。今回の依頼人は、彼女のお兄さんご夫婦です。」

と、小久保さんは答えた。

「金子美恵ですか?」

聞き覚えがあった。金子美恵と言えば、人気者の女優であった女優に、同姓同名の女がいたような。

「あの、もしかして、芸能人の金子美恵でしょうか?それとも、同姓同名ですか?」

と、頼子が答えると、

「ええ、まさしく芸能人の金子美恵です。もしかしたら、事件の概要はご存知かも知れませんね、ほら、ワイドショーなどでも騒がれていましたが、金子美恵が、一人息子の金子敦君を、殺害したという事件なんですが。」

と、小久保さんは答えた。あれほど有名な女優だから、もっと有名な弁護士が付くのかと思ったが、なんで、こんな田舎の無名の法律事務所が担当することになったのだろうか?

頼子は、また時計を見た。十時半まであと、10分しかない。小久保さんは、さて、準備しますかと言って、机の上に置いてあった、書物や原稿用紙を片付け始めた。頼子は、急いで手伝いますと言ったが、ああ、これらの事は自分でやりますから、大丈夫ですと、小久保さんはにこやかに笑った。頼子が、困ってそこで立っているうちに、小久保さんは、手早く書物を片付けて、床の上をきれいにモップをかけた。

「そろそろ、来てもいい時間なんですけどね。」

と、小久保さんは、壁にかかっている時計を眺めて、そういうと、同時にインターフォンがピンポンとなった。

「あたしが、応対してきます。」

頼子は、急いで玄関先に行き、玄関のドアを開けた。一人の男性と、一人の女性が、小さくなって、玄関の外に立っている。

「あの、金子です。金子美恵の兄の金子三三二と、」

「妻の、金子亜矢と申します。」

二人は、それぞれの名を名乗った。なんだかテレビの映像では、恐ろしくかっこつけているように見える金子美恵と比べると、二人はとても庶民的で、まるで兄夫婦とは言えないように見える。

「あの、小久保先生は、御在宅でしょうか?」

と、三三二さんがそういったので、頼子は、お入りくださいといった。とりあえず、小久保さんのいる部屋に、三三二と、亜矢を案内する。

「ああどうも、お待ちしておりました。どうぞおかけください。汚い事務所ですが、申し訳ありません。」

と、小久保さんは、二人を部屋の真ん中にあるテーブルに座らせた。

「昨日は、お電話をありがとうございました。弁護士の小久保と申します。事件の事は、いくつか報道で知りましたが、、、。」

小久保さんがそういうと、

「ええ、何とか、先生のお力をお貸しください。」

二人は、懇願するよう言った。

「あの、どうか、頭をあげてください。」

と、小久保さんは、頭を下げた二人に、そういうことを言った。

「事件の詳細は、報道で聞きましたが、妹さんが、本当に、息子さんを殺害したのでしょうか?」

「ええ、警察の取り調べでも、妹は、その通りだといいましたし、検察も、妹の犯行であることは、間違いないと。」

と、兄の金子三三二さんが、小久保さんの話に応じた。

「そうですか。事件の全容をもう一回お話させてください。妹の、金子美恵さんは、息子の敦君が泣き止まないのに腹を立てて、タオルを彼の顔に当て殺害したという事ですね。」

「ええ、おぞましい事件ですが、内容を話せばそうなります。」

と、三三二さんが、小久保さんの話にそう答える。

「そうですか。確か、事件の動機は、育児に疲れていて、とっさ的に殺してしまったとか。」

「そうです。美恵さんは、決して怠けていたわけではなく、一生懸命育児をしようとしていたんですが、敦君が、どうしてもいう事を聞かなかったので。」

今度は、亜矢さんがそう答えた。

「ですから、少しでも妹の刑を軽くしていただけますように、お願いに参りました。妹は、確かに、短気でおこりやすい性格ではあったんですが、決して、敦君をないがしろにしたという事はありませんでしたから。」

三三二さんは、頭を下げた。亜矢さんもお願いしますと頭を下げる。

「ちょっと待ってください。どうしてもいう事を聞かなかったといいますが、報道によると、敦君は、まだ一歳にもなっておりませんでしたね。それでは、言うことを聞かないという事は、ないのではありませんか?」

と、小久保さんが聞くと、

「ええ。そうなんですが、敦君は、極端な虚弱体質で、先天性の障害を持っていたこともあり、普通の赤ちゃんと同じようにはいかなかったんです。」

と、亜矢さんが答えた。

「一生懸命、私たちも手伝いましたが、こんな形になってしまう何て、残念でなりません。ですが、今回は、私たちもしかたなかったような気がします。美恵がああなってしまったのも、ある意味では私たちにも責任があるのではないかと思うんです。だから、少しでも刑を軽くしていただけますように、彼女の弁護をお願いしたいんです。」

「そうですか。わかりました。引き受けましょう。」

と、小久保さんは、頷いた。頼子は、その話を聞きながら、何となく何か感じ取った物があった。其れは、口で言うのは難しく、何と表現したらいいのかわからないのであるが、、、。

「それでは、まず、美恵さんにお会いして、お話を聞きたいのですが、お願いできませんか?」

「わかりました。美恵のいる留置場迄、案内いたします。」

と、三三二さんが椅子から立ちあがった。亜矢さんは、どうしても、切れない仕事があると言って、先に自宅へ帰るといった。その間に、小久保さんは、タクシー会社に電話する。本来は頼子がするはずであるが、何だかぼんやりしていて、忘れてしまっていた。

「其れでは、留置場までよろしくお願いいたします。」

やってきたタクシーの運転手に、小久保さんは、そういった。小久保さんと、三三二さん、そして、頼子は、タクシーに乗り込んで、留置場へ向かう。

留置場に行くと、三人は、金子美恵のいる面会室に通された。

「金子美恵さんですね。弁護士の小久保哲哉と申します。あなたのお兄さんの金子三三二さんから依頼を受けて、あなたの弁護を引き受けることになりました。よろしくお願いします。」

小久保さんがそういうことを言っている間、頼子は、ガラス張りの向こうにいる、被告人の金子美恵を見た。其れは本当に、芸能人の金子美恵だろうか?確かに、顔を見れば、金子美恵であることは分かるのであるが、でも、その顔はどこか違って、別の人物であるような気がする。

「それでは、私の方からいくつか質問をしますから、お答えください、なるべくなら、正確に話してくださいませ。」

と、小久保さんは手帳を取り出した。

「まず、初めに、息子の敦君を殺害したことは間違いありませんか?」

「ええ、間違いありません。あたしが、殺しました。」

小久保さんが聞くと、金子美恵はそう答えた。

「そうですか。では、どうしてその、敦君を殺そうと思ってしまったのか。それを聞かせていただけないでしょうか?」

「ええ、、、。敦が、余りにも泣き止まないので、もういい加減にしろと思って、タオルをあの子の口に当てました。」

と、美恵はそう答えた。

「そうですか。本当にそれだけでしょうか。」

「ええ、それだけです。あの子は、いつもそうで、ミルクをあげるにしても、ほかの子より何倍も時間がかかるし、いつまでたっても、泣き止まないし、本を読んでも、ぜんぜん、その通りにならないので、あたしは、いつもイライラしていて、、、。」

「しかし、おかあさんというだけであって、それで、殺害に至るという事にはなるんでしょうか?もっと、いろんな要素が重なったと思うんですがね。事件を起こす以前に、何かトラブルのようなものはありませんでしたか?」

小久保さんがそう聞くと、美恵は、またしくしくと泣き始める。

「トラブルという訳ではなかったんですけれども、、、。」

「何ですか?」

美恵は、目の前にいる兄を見て、またしゃくりあげた。

「ちゃんと、いいなさい。弁護士の先生は、お前の刑を少しでも軽くしてくれるように、来てくれたんだぞ。」

と、三三二さんが、そういうことを言った。

「はい、、、はい、、、私が、ミルクをあげようとしたんですが、どうしても、飲んでくれないので、困っていたところ、兄が来てくれて、代わりにあげてくれたんです、、、。」

と、美恵はそう言っている。

「そもそも、ご主人は、いなかったんですか?先ず、育児をするわけですから、当然父親がいるはずでしょう?」

小久保さんがそう聞くと、

「いないんです。」

と、美恵は答えた。供述調書によると、敦君の父親は不詳であるという。美恵が女優として活動しているのは、プロデューサーとか、そういう人たちと性的な関係を持ったという事から成り立っているからであった。

「ああ、そうでしたねエ。あなたは、女優としてデビューする際、テレビ局のプロデューサーなどと、性的な関係を持ったからデビューできたという事は、聞いたことがあります。」

とりあえず小久保さんは、そういうことを淡々と言った。

「そうするしか、なかったんですよ。そうしなければ、女優としてデビューできないって、脅かされたりして。」

と、彼女は答える。

「そうなんですね。其れは分かりました。その部分は、仕方ないことですから、余り追及はしませんが、いずれにしても、あなたは、敦君が、邪魔だったのではありませんか?これから、女優として、やっていくために。」

「そんな事、考えていたのか!俺たちは、お前が楽になるように、手伝っていただけだったのに!」

小久保さんがそういうと、兄の三三二さんが、そう強く言った。

「もう一度聞きます。あなたは、敦君が、本当に邪魔だと思っていたのではありませんか?」

「おい!そこはちゃんと言ってくれ!俺たちは、お前が、女優業で忙しいと思ったから、手伝っていたのに、敦が邪魔だなんて、そんな事考えて、、、。」

半泣きになってそういう三三二さんに、小久保さんは、お兄さん、一寸、声を小さくしてください、と、小久保さんは制した。

「いいえ、、、。」

美恵は、そういうが、なんだか無理やり言っているような口調だ。なんだか、嘘をついているというか、本心で言っているのではないような、そういう感じのしゃべり方だ。兄の、三三二さんは、なんていう事だという顔をしているが、隣に居た頼子は、そういう気持ちにはならなかった。

「三三二さん、気持ちは分かりますが、これは重要なことです。先ず、敦君を殺害した動機をはっきりさせるため、ここは押さえておかなければなりません。落ち着いてください。」

と、小久保さんは言っているが、三三二さんは、重大なショックを受けたようだ。

「そんな、お前が生んで育てるというから、俺たちは、その力になろうと、一生懸命、手伝ってきたつもりだったのに!敦が、先天性の障害を持っていることが分かって、父親代わりの人も必要だと思ったから、一生懸命、それを補おうと思っていたのに!」

三三二さんはそういっているが、頼子は、そのとおりに思う事は出来なかった。彼女の目の前に、自分の過去がありありと浮かぶ。

あの時、あたしもそうだった。自分の産んだ子なのに、子どもを可愛いと思えなかった。自分も、夫を大地震で失くしてしまって、女一人では大変だからという事で、実家で生活することになった。その時に、娘は彼女ではなく、彼女の両親のものになった。私は、働かなければならないから、一日中、会社に縛られて働かされていた。その間、娘はおじいちゃんおばあちゃんとずっと一緒にいた。

しかたないとわかっていたけど、自分の子を、盗られてしまったような、そんな気持ちがしてならなかった。そして何より憎かったのが、娘が、おじいちゃんおばあちゃんにかわいがってもらっているのをいいことに、実に生き生きとして楽しそうにしていた事だ。仕方ないのは分かっている。私には、育てられないのは知っている。でも、憎いの、あの子が。ああして、おじいちゃんとおばあちゃんに懐いて、私の事は、付録的なようにしか見ていないあの子が、、、。

だから、私もやろうと思った。思わず、娘の体を持って、自宅の窓から投げ落としてしまおうと思った。でも、あの時は、おばあちゃんが入ってきて、それはできなかったのだった。今では、おばあちゃんに感謝している。おばあちゃんがそうしてくれなかったら、娘を本当に、投げ落としていただだろう。おばあちゃんが来てくれたとき、やっぱり悪いことはできないと、私は悟った。こうするしか私の家はやっていけないって知った。だから、おじいちゃんとおばあちゃんにやってもらうしかない。

もういい、悪いことはできないから、あたしは、この事実を、受け入れようと決めた。其れで、娘が、成人して、結婚するまで持ちこたえることができたんだ。娘は、今、幸せな生活を送っている。そうなるためには、おじいちゃんとおばあちゃんの協力がなければできなかったと、今は、思っている。だから、おじいちゃん、おばあちゃんには今でも感謝しているの。ありがとうと。

そんな事を思い出しながら、頼子は、しくしく泣いている、美恵を見つめていた。

「そんな事になっていた何て、なんで言ってくれなかったんだ。」

と、三三二さんはそういっている。

「あたしも、そういうことはあったのよ。」

と、おもわず、頼子はそういうことをくちにした。

「あたしも、忙しすぎて、両親に娘の世話はまかせっきりで。娘が、両親のすすめで、ピアノを習って、ショパンのノクターンを楽しそうにやってた時は、両親も娘も憎くて、本当に、辛かった、、、。」

そう、これはよく覚えている。小学生になった娘が、おじいちゃんとおばあちゃんに、ピアノ教室で教えてもらった、ショパンのノクターン第二番を弾いて聞かせたこと。あの時、私は、何なんだろうと本当に思ったものだ。あの時、娘も、両親も亡き者にしてやりたい。そう思った。娘はあの時、おじいちゃん、おばあちゃん有難うと言って、私には何も言ってくれなかった、、、。どうして、どうして、と、私は、何度も膝を叩いて悔しがったものだ。

「だから、あなたも、辛いでしょうけど、罪を償って。私の娘だって、罪はないのよ。敦君だって、同じことなのよ。」

小久保さんが頼子に、少し慎んだ方がいいといったが、頼子は、余りにも、彼女の気持ちがわかって、涙が止まらなかった。

「それではもう一回聞きますよ。あなたは、敦君が、自分の芸能活動の邪魔になるので、殺してしまったと供述しているようですが、本当に、邪魔だと思っていたんですか?」

小久保さんがもう一回聞くと、美恵は、泣きながら答えた。

「いいえ、そんな事は思いませんでした。でも、あたしは、こうするしかなかったんです!」




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ノクターン 増田朋美 @masubuchi4996

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