風花道
須野 セツ
風花道
あの山から広がる裾野に終わりを決めるとしたら、今いるここに違いない。
通っていた学校まで伸びているなだらかな一本道。道のはじまりで立ち往生する。
小学生のころ、よく廊下の窓から白くなった山を眺めた。
いつになったら町に雪が降るのだろう。背伸びして掴まりながらそう思いを募らせた。
山は幾つもあるのに雪に覆われて真っ白に姿を変えるのはそのひとつだけ。ここからいちばん遠いところ、それなのに目を見張るくらいの長い稜線を描いた山だった。
じいっと眺めていたら目の前の窓硝子は力任せに揺らされる。
この町で寒さの代名詞とされるのはいつだってこの冷たい風だった。
僕が立っていると後ろではクラスの友達が駆けていく。廊下の埃が合わせて一緒に舞い上がった。雪が降ったらたとえ授業中でも迷わず外に飛び出てしまうような子たち。彼らはこの山のことなんてきっと目にも留めていないのだろう。
「ろうかをはしるな」に抗える人に小学生の僕は憧れていた。しかし今は廊下を走ることにはなんの躊躇いもなくなったのに、もうその機会は訪れない。
僕はしばらく歩くことのなかった一本道に足を踏み入れる。ポケットには吸う予定もない煙草の箱がいつからだろう、入っている。
頭上を仰いでみれば、空からしてもう冷たい。色濃い青は太陽を呑みこんでしまうくらいに広がっていて、そうやって雲がない日なんかは風が容赦なく町のすべてを脅かした。
マフラーをしたところで目元と頬には外気が触れたままだ。
風は小学校のあるほうからずっと吹いているから、北へと向かう一本道を歩いている僕にはそれを避けるすべはない。
でも子供のときからの風物詩だから、なんてことはなかった。それよりも久しぶりの瞬間に立ち会えたことが懐かしくて、もっと風のある方に身体が引っ張られていく。
背後から声がする。
無邪気で騒めいた気配とともに、歩く僕の脇から一斉に少年たちが飛び出た。そして前を行く。追いかけっこをしながら坂をぐんぐん上がっていった。
「早く早く」
また一層強く、風が吹いた。走る彼らはものともしていない。
遠くなっていく背中にふとひとりの友達を思い出す。
その人は小学生にしてはひょろりとした体躯をしていて、クラスで一番声が大きいあいつのお気に入りの友達だった。ほとんどの子が名前で呼び捨てにされる中で、その人だけは「倉田」となぜだか苗字で呼ばれた。二人の周りにはみんながいつも集まっていた。
僕もその内のひとり。彼らのやる馬鹿馬鹿しいやり取りを端から見て笑っていた。
休み時間にサッカーをするときは、その人は前線に出てボールを思いきり蹴っていた。いっぽう僕はというと自陣のゴールの前でボールが来るまでただ待っている。
クラスメイトという括りで倉田と同じ輪の中にいた僕は、彼と仲がいいわけではなかった。小学生という、上からいとも簡単に動かされる駒のような流れの中で、声の大きいあいつみたいに近づくことなどできなかった。
「友吾」
倉田が僕を名前で呼ぶとなんだか浮き世離れしている。
訳の分からない面白さで溢れている人だった。変な顔や動きをするわけではないのに、僕は間違いなく倉田が一番面白いと分かっていた。
理由は分からないでも、それは彼の紛れもない魅力としてクラスのみんなにも慕われていたのだと思う。
「友吾、見てよ見てよ」
僕と倉田のたった二人でいたことがあった。クラスで声の大きいあいつの声はしなかったから、長い廊下は一段としんとしていた。
窓の外を見て彼が呟いた。
思わずなに、と聞き返してみたら、倉田は嬉しそうに口元を緩ませて語り始めた。
「晴れなのに雪が降ったの、見たことあるんだ」
「へえ、そうなの」
倉田も白い山のことを気にかけている。
そう嬉しくなって窓のほうを一緒に追っていたから、つい残念なのが声に出てしまう。
しかし彼はそんな僕をよそに話を続けた。
「風に乗って、吹雪みたいでなんかとにかくすごかった。多分あそこから来たやつだと思ってるんだけど」
長い手がひとつの方角を指差す。
そこには僕がずっと眺めていたあの山がある。人差し指の先から頂上まで透明の線がひとつ繋がって、道みたいになった。
ああ。僕はそのときに倉田の顔をいままでのどのときよりもちゃんと見ようと思った。彼の深いところに落ちたピースがどういう形をしているのか確かめたかった。
輪郭だけで、成り行きのままで関係を決めてしまってはいけない人がいる。
小学生の僕はそこまでの言葉に辿り着けなかった。
彼を見た理由が浮かぶ前に、見つめているのを訝しがられると思って何より恐かった。だから窓の外へと顔を戻した。
それから中学に上がって、卒業したあとには穏やかに彼との繋がりは消えていた。
学校のプールを覆う緑色の網が冬だからなのか、どこか青みがかっていた。小学校まではもうすぐだ。
僕を追い抜かして走っていた二人の少年は、坂の作る曲線の向こうへと姿を隠した。
一本道は緩やかに曲がり、学校を沿うようにして続いている。
僕は目の前に映された自分の小さい影を踏もうと歩いた。もちろん影はするすると逃げてしまう。
頬が濡れる感触があって、おもむろに顔を上げる。あの山のほうからだ。
さっきとは打って変わった景色に目を疑った。思わずたじろいでしまった。
それはまるで白い流星群のようだった。
校庭やプールサイドの網を通り抜けて、さらには空からも。たゆたって舞う白銀の花びらが風とともに現れている。
陽の光と空の青さの中に溶けるようになってひとつひとつが煌めいていた。
不規則に空中を遊びながら拠り所を決めて枯れ葉やコンクリートの上へと落ちていく。ゴールを知らないまま地表を目指すUFOにも見えた。
雪だ。けれど降っているわけではない。
頭上に広がっているのは相変わらずの青空だ。どこからか運ばれてきたのだ。
学校をまっすぐ見据えるとやはり白い山がその先にあった。
遥か遠くからの風に連れられて、山に降るはずの雪がここまで飛んできたのだ。空を舞っている間にはたくさんの結晶が水になって消えている。
この季節の地味さに圧されてくすんだ色だった町並みが彩りに溢れていく。
握りこぶしを開くとその上に結晶が滑ってきた。
手に乗っかるとすぐに温まった熱の上で灼ける。どれだけ地上へと舞い続けても雪の跡はちっとも残らなかった。それでも空には数えきれないほどの雪が飛び回っている。
見とれていても、歩くことは止めなかった。
僕は小学校まで早く行きたかった。大人になって帰ってきたこの一本道でなら、彼と雪とどこまででも駆け上がることができる。
もし倉田と出会ったのが今だったら、僕たちはきっととても仲の良い友達になれていただろう。それこそ、クラスで声の大きかったあいつよりもうんと。
白い山について話し、そのあとは僕たちがお互い何が好きかを心置きなく話し合うのだ。
あの遠くの山が僕たちの目には映っていた。もっと言えば倉田は山からやってくるこの雪のことすらも、あのときに分かっていたのだ。
門が見えてくる。そこにはコートを着込んだひとりの男が一本道を背に立っていた。
「友吾、か」
振り向いて迷いなく相手は口にした。
僕は頷くわけでもなく、口元をぎゅっと引き締める。名前を呼ぶ声で、誰かすぐに分かった。
立っていたのはクラスで声の大きかったあいつだった。
「久しぶりだな」
「うん」
とりあえずそう交わすとそのあとに何も言えない。
僕たちはお互いが望んでいなかった人に再会したことを分かっていた。相手からしてもそうだって気持ち悪いくらいに知っているから、心は落ち着いたままだ。
さして近くない奇妙な距離を保った僕らの間に、青い空からは雪がずっと降っていた。
「これ、花吹雪っていうやつか」
目を泳がせながら、ふと声の大きかったあいつが呟く。
そんなのは頭の片隅にもなくて、なんて言えばいいか浮かばない。彼から目を逸らせば、飛んでいる内のひと際不安定な雪の粒ばかりが鮮やかに陽光の前で晒されていた。
僕はゆっくりと頭の中で反芻し、やがてひとつ思い至った。
花吹雪というのは花が雪のようなことを例えている。そしてあの窓の前で倉田が語って、今まさに僕たちの頭上に現れているのは、雪がまるで花が散るように舞っている姿だ。
その二つは似ているようで、考えてみればみるほど逆だ。
僕はどうしようもなくおかしくなってきて、自然と吹き出していた。
小学校のときに僕はこの人とも、れっきとした友達だった。
笑った僕の顔を見て、クラスで一番声の大きかったあいつはどこか嬉しそうだ。
やはり彼とは昔の関係だったときからすでに完成形である。出会ったのが小学校だからこうしてまた会えたのだ。
風が止んだと気付いたときには、空に浮かぶ雪の粒はもう数えるほどになっていた。
風花道 須野 セツ @setsu_san3
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