第134話 託された想い

 性同一性障害。


 身体的性別と男女であると言う自己意識が一致しない事を性同一性障害という。


 近年、アメリカ精神医学会のDSM-5では性別違和、WHOのICD-11では性別不合と呼ぶようにしたらしいが、日本ではまだ性同一性障害と言う呼び方の方が一般的であろう。


 姫野先輩の場合、身体は女だが、心は男という事か。


 考えてみれば、一人称は「僕」だし、妹の環先輩が「姫野君」と呼んでいたのは心が男である姫野先輩をおもんぱかっての事だったという事か。


「じゃ……じゃあ、姫野先輩は性同一性障害だから麗衣と付き合えないって言いたいのでしょうか?」


「まぁ、そういう事だね」


「麗衣は姫野先輩なら男だろうが女だろうが気にしないと思いますよ?」


 自分はなった事が無いので分からないが、性同一性障害の為に恋愛を諦めると言うのは残酷な話だと思ったので、俺はつい敵に塩を送る様な事を言ってしまった。


「ふふふっ……君は優しいんだね。でも、麗衣君が僕に対して抱いている感情が本当に恋愛なのか? 僕は違うんじゃないかと思うんだよね」


「と言いますと?」


「麗衣君とは中学時代からの知り合いでね、実は彼女とは何回も拳を交えていたんだよ」


「え? そうなんですか!」


 今の二人の関係からすると到底信じられなかった。


「僕は何回も喧嘩を売られて、その度に彼女を打ち負かしていた訳だけれどね……。まぁ、イキるような言い方で申し訳ないが、僕の強さに憧憬の念を抱かれたみたいで、彼女の眼には頼りになると映ったのだろう。それが恋愛感情と思い込んでしまったのではないかと思う」


「恋愛の事はよく分からないのですが……本当にそうでしょうかね?」


 姫野先輩が麗衣を遠ざける為の自己暗示ではないのか?


「そうに決まっているさ。付け加えて言うならば、もし、恋愛感情だったとしても僕は彼女を幸せには出来ない」


「そんな事は無いんじゃないですか? 両想いであるのであれば難しい事は考えず、付き合ってしまえば良いんじゃないですか?」


 姫野先輩にしか分からない葛藤があるのかも知れないが、俺には複雑に物事を考え過ぎているようにしか思えない。


「ありがとう。でも、僕は麗衣君の下から去る訳だし、君の様な彼女に相応しい人とも会う事が出来たのだから、僕としては麗衣君から好かれていたという事だけで充分なんだよ」


「え? 俺がですか?」


「そうだ。僕なんかより君の方がずっと麗衣君に相応しい。君の努力と目覚ましい成長を見て、君ならば麗衣君を任せられると思って諦めがついたのさ」


 何もかも完璧超人である姫野先輩に比べて、何一つ勝るものが無い俺をどうしてそこまで買っているのか分からなかった。


「ですが……俺は姫野先輩に比べたらまだまだ弱いですし」


「そうだね。まだまだである事は確かだけれど、すぐに君は僕を超えるだろう。今日はその事もあって呼んだんだよ」


「その事……とは?」


「さっき麗衣君とのスパーリングの話を聞いたけれど、君には足りないものがあると思ってね……それを教えようと思っていたんだ」


「俺に足りないもの?」


「君は強い。最早、多少の体格差があっても、格闘技経験者相手でも選手経験の無い只の練習生では君に歯が立たないレベルだろう。でも、麗衣君には勝てなかった。麗衣君に勝てなかった理由は分かるかい?」


 俺はあのスパーリングの後、分析をしていなかったが、スパーリング中にムエタイの技術で差を感じたのは覚えている。


「そうですね……サムゴー風のミドルなのかローなのかハイなのか見分けづらいキック。ワンロップ風のガードをこじ開けてから打つ肘。これらのムエタイの技でやられていた感じがありますね」


「そうだね。でも、聞いた話では君がやられていたのはそれだけじゃないだろ?」


 俺は他にも何がきっかけでダウンを取られたのか思い出した。


「……確かにそうでしたね」


「君には先ず麗衣君に勝てるようにしてあげよう。何……砂浜だから背中を打っても大丈夫だしね」


 そんな事を言い出すと、姫野先輩は日本拳法のグローブの中に嵌めるインナーグローブを手に嵌めだした。


「え? もしかして、この時間から練習ですか?」


「好きな人を君に譲るのだからこのぐらい我慢したまえ。僕だって明日帰りの運転をしなければならないのだからね。早くこの技をマスターして貰うよ」


 こうして深夜2時にも廻ろうという時刻になり、特訓が始まった。



 ◇



「これで君は麗衣君に勝てる。日本拳法の技ではあるが、勿論キックボクシングの試合でも活かす事が出来ると思うよ」


 俺は砂まみれになりながら姫野先輩にしごかれ、ようやくコツを掴むと練習が終わった。


「いや……アマチュアキックボクシングの試合では上位のクラスじゃないと使う機会がないですよ」


「はははっ。確かにそうかも知れないね。まぁ、喧嘩の相手がキックボクサーや空手、総合だったとしても使えるんじゃないかな? あと格闘技未経験でも喧嘩慣れしているタイプとかね」


 確かに喧嘩慣れした素人がよくやる方法には有効そうだよな。


 麗衣対策で教わった技ではあるが、ルールの制約が厳しいアマチュアキックボクシングよりも、喧嘩で使うシチュエーションが多いのかも知れない。


「確かに使えるかも知れませんね。ありがとうございました」


「じゃあ、早く帰ろうか……もう2時半過ぎているしね」


「先輩、明日運転大丈夫ですか?」


「うーん……どの道、麗衣君の事が気になって眠れなかったと思うし、むしろ体を動かせてよく寝れるんじゃないか?」


「体を動かせたって……先輩タイマンやら喧嘩で暴れてたじゃないですか? 俺は練習前からヘトヘトでしたよ?」


「ハハハハッ! それはそうだったね。御免ね!」


 姫野先輩は笑ってみせながらも、その微笑みに影がある事に気付いた。


「先輩……その……本当にこれで良いんですか?」


「ああ。君に授けた技は勿論今後も練習を反復して何時でも出せるようにしないといけないよ?」


 こちらが何を言いたいのか分かっていてとぼけているのが見え見えだった。


「そっちじゃなくて……麗衣の事ですよ。まだ取り返しがつくと思いますよ?」


 しかし、姫野先輩の顔にもう迷いは無かった。


「そうだね……本当に僕の事を気遣うつもりであれば、僕の分まで君が側に居て、あの子を支えて欲しい」


 姫野先輩は俺の肩に手を置くと力を込めた。


「小碓武。麗衣君を必ず守ると誓ってくれるか?」


「ハイ。必ず守ります」


 俺が力強く頷くと、姫野先輩は微笑みながら手を放した。


「今更聞くまでも無かった事だね。くどくて申し訳ない」


「いえ……姫野先輩が不安にならない位、俺、強くなりますので」


「そうだね……期待しているよ」


 この男装の麗人の様な強く美しく誇り高い先輩との出来事を思い出してみた。


 自殺をしようとしていた俺を救ってくれたこと――

 勝手に鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードと交渉をした俺を制裁した麗衣の真意を分からせてくれたこと――

「天網」の岡本忠男とのタイマン対策に足払いを教わったこと――


 振り返ってみると、この先輩には助けられた想い出しかない。


 何よりも姫野先輩にとって一番大事な麗衣の事を俺に任せてくれたのだ。


「姫野先輩! 今までありがとうございました!」


 俺は心の奥底から礼を言いながら深く頭を下げた。


 麗衣だけじゃない。


 俺も姫野先輩との別れは寂しいんだ。


 だから、心を押し殺してまで麗衣の事を俺に委ねてくれた先輩の為にも俺はもっと強くならないといけないんだ。

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