第117話 小碓武VS織戸橘環 美夜受シメて、二度と喧嘩も格闘技も出来ないような体にしてやる

「こっちの世界って……どういう意味でしょうか?」


 また環先輩の話す意味が分からず、質問した。


「決まっているだろ。喧嘩なんてさっさと卒業して格闘技に専念して選手を目指せって事だよ」


 そんな事であれば答えは決まっている。


「それは無理ですね。そもそも俺、麗衣を守る為に格闘技始めたので」


 実際は麗入りの条件として麗衣が通うジムに行き、級を取るという条件を麗衣から出されたのだが、それは俺の目的とも一致していたので嘘にはなるまい。


「成程……そもそも美夜受に逢っていなければ格闘技も始めていなかったって事か」


 環先輩は溜息を吐いた。


「はぁ……でも、人知れずお前みたいに才能がある奴が路上で消えていくなんて勿体ないと思うけど」


「麗衣の為なら本望です。人に見せつける為とか力を誇示する為にやっている訳じゃないんで」


「惚れた女を守る為にか……あははっ格好良いねぇ~」


 環先輩の言葉にはあからさまに悪意と嘲笑が込められていた。


「そんな格好良い自分に酔っているのか? 昭和の漫画でもそんな青臭いストーリーなんか受けやしないよ」


「別に。格好つけているつもりも無いですし、自分が満足出来れば良いんです」


 俺と話したい事がそんな事だとしたら環先輩にとって時間の無駄でしかない。

 さっさと話を切り上げて、勝子にでも連絡をして麗衣と恵の怪我について聞きたいところだが、中々この先輩は解放してくれそうにない。


「周佐を見て見ろ。アイツが選手になった姿を見てみたいと思わないか? 周佐も美夜受に関わったせいで、アスリートへの道を自分で閉ざしたんだよ」


 勝子はかつて全日本アンダージュニア女子ボクシング・45キロ級で優勝し、将来の五輪代表候補とまで言われた逸材らしい。


 そして素手で凶器相手に渡り合う程の空手の実力があり、立ち技であれば他競技でもトップレベルの結果を残せるだろう。


 そんな勝子が表舞台に立たず、路上で消えていくのは本当に勿体ない事であるが……。


「お前にはアイツみたいになって欲しくない。今ならまだ引き返せる。考え直して、こっちの世界へ来い!」


 同じ事を何回言われても答えは決まっている。


「答えはNOです。行く先がどんな地獄だろうが、俺は麗衣に着いて行くだけです」


 俺の説得は無理と理解したのか?

 環先輩の表情がスッと冷淡なものに変わった。


「……そうかい。聞く耳は持たないって事か……ならば、お前の惚れた女を守る為の格闘技とやらが本物に通用するか、身体に教えてやろう」


 環先輩はポケットからオープンフィンガーグローブを取り出し、おもむろに自分の手に嵌め始めた。


「お前も喧嘩でインナーグローブ使っていたろ? あれを嵌めろ」


 何をするのか?

 と、聞くのも野暮だった。


 俺は環先輩がインナーグローブと呼んでいた簡易バンテージを手に嵌めた。


「成程。顔つきが変わったな。喧嘩中も良い表情をしていたが、中坊どもをいやらしい目つきで見ている時より余程いい顔つきだ」


 俺そんな目で中学生チームを見ているように見られていたのか?

 いや、実際、静江のカップをガン見していたりしていたか……。


「女子に免疫が無くてスイマセンね。扱いが慣れてないからどうしても変な目つきに見えるんでしょう」


 女子だけでなく男の娘の扱いも全く分からんが、今はそんな事を考えている場合では無かった。


「その割には人気がありそうだったけれど、今話す様な事じゃないな。……じゃあ始めようか?」


 環先輩は両足を前後に開き、オープンフィンガーグローブを嵌めた両手を前にし、膝を軽く曲げ、重心を低く構えた。


 対する俺は両拳をこめかみの高さに上げ、左拳を少し前にやり、左足を前に、爪先を相手の正面に向け、やや前傾姿勢に構えた。


 俺は基本の構えをした後、通常より、少し奥手のガードの高さを下げて、耳のラインより前にし、パリングとパンチを打ちやすい構えを取り、重心もさらに下げ、クラウチングスタイルに近い構えを取った。


 通常のスタイルより前かがみのパンチを主体とした構えだ。

 総合を使う環先輩相手に、下手に蹴りを使えば簡単にキャッチされて終わりだろう。

 だから、得意のパンチを中心に攻めた方が良いだろう。

 だが環先輩はそんな俺の考えを見透かし、嘲笑うかのように言った。


「フン。パンチなら私に勝てるとでも、思っているの? あまりにも浅はかね」


 そんな事を言われても俺にはこれしかないだろう。


 じりじりと俺は環先輩との距離を詰める。


 まだ距離が遠い。


 そう思っていると、頭の高さを殆どそのままに、突然間合いを詰められ反応が遅れた。


 直後には顔が歪み、あたかも鈍器で殴りつけられたような衝撃を受け、微かな残像と共に拳が引く軌跡が見えた。


「ノーモーションのストレートってヤツだよ。反応出来なかっただろ?」


 この時の台詞で環先輩が両足ステップの後にノーモーションのストレートを放っていた事を理解した。


 だが、頭でどんな攻撃を喰らったのか、俺の理解が追い付く前に環先輩は次の攻撃につなぐべく、俺の肘の内側を捕っていた。


「え?」


 反撃する間も無く、環先輩は低い姿勢を取ると、後ろ足で一歩踏み込みながら、身体をぶつけきた。


「なっ!」


 それだけで俺はバランスが崩れそうになったが、環先輩は手を俺の両膝の後ろにセットすると、勢いよく体ごと浴びせるようにして俺の体を倒した。


「ぐっ!」



 両足ステップの踏み込みからノーモーションの右ストレート、両足タックル



 総合では何の事の無い、よくありそうなコンビネーションだろうが、キックボクシングの練習ではお目にかかった事の無い攻撃の連携に全く反応出来ず、無様にも倒された。


 俺は倒される直前、後頭部を手で覆い、辛うじて頭を地面にぶつけるのを防ぐのが精いっぱいだった。

 打ち付けられた背中が痛いが、そんな事を言っている場合じゃない。

 環先輩は俺に息つく暇も与えず、馬乗りになり、俺の動きを封じた。


「はははっ。キックだと足幅狭いから簡単に両足タックル決まるね。それにマウント取られると全くの素人だね」


 そう言うと、環先輩は立ち上がり、すっと俺から距離を取った。


「これだけじゃ物足りないだろ? もう少し遊んであげるよ」


 クソっ!


 舐めるなよ!


 俺は相手が女子である事も忘れ、前足をステップインしながら強くジャブを放つ。

 環先輩は軽くスウェーをして躱す。

 俺は素早くジャブを引きながら、腰を回転させ、内側に捩じり込むように環先輩の顎を目掛けて右ストレートを放った。


 麻剥三あさはぎみたりをKOしたパンチだ。


 当たれば幾ら環先輩と言えど、大ダメージは逃れられないだろう。


 だが、環先輩は俺のパンチが当たる前に視界から消えていた。


「???」


 一瞬何が起きたか分からなかったが、環先輩の前腕が俺の太腿に巻き付いていた時点で、俺はストレートを日本拳法で言う沈身、つまり下へ屈むダッキングで躱されると同時に、今度は片足タックルを決められたことに気付いた。


 環先輩は後ろ足を送りながら高い位置でクラッチを決めると、外の足を引いて俺の背中を地面に叩きつけた。


「つうっ!」


 環先輩は素早く立ち上がると、膝頭を上げて上から下へ足先を反らせ、踵で軽く俺の腹を踏んだ。


 日本拳法の踏み蹴りと言い、倒れた相手に軽く当てるか空撃を行う技だ。


 本気で踏まれたら大怪我が免れないだろう。


「弱いねぇ……こんなので惚れた女を守れると思うのかい?」


「うっ……五月蠅い!」


 俺は再度立ち上がると、離れた距離から牽制のジャブを打った直後、左右の足を入れ替えると同時に踏み込みながら右足をアウトステップさせ、踏みだした右足を軸にし、右足と左腕の反動を利用して回転させるように左ミドルを放った。


 パンチしか打たないように意識させ、ミドルキックだ。


 だが、環先輩は右腕でクロスガードしながら体を左に回転させ、あっさりと背中と左腕で俺のキックをキャッチした。

 キャッチしたまま、環先輩が左に体を捻り、俺はバランスを崩した。


「キャッチされた後、どうやって逃れるか慣れていないみたいだね。こんなのでよくミドルを打つ気になったもんだよ!」


 初級クラスで少しやったけれど、まだ慣れていないので到底実戦レベルでない。

 環先輩は後足裏で俺のくるぶしから踵あたりを足払いで刈り倒した。


 俺はこの後も、こちらからかかればカウンターで、攻撃を待てばフェイントで翻弄され、何度も何度も地面に叩きつけられては立ち上がらされ、そして地面に叩きつけられ続けた。



 ◇



 岡本忠男おかもとただお麻剥三あさはぎみたり遠津闇男とおつくらおを倒し、少しは強くなったつもりでいたが、その考えは目の前の化物を相手にし、大きな誤りであった事を思い知らされていた。


「ハァ……ハァっ……」


 何回地面に叩きつけられただろうか?

 俺のパンチは一度も当てられず、止む無く蹴りを打っても案の定キャッチされ倒されるだけの結果に終わり、そろそろ俺の体力も限界を迎えていた。


「キック経験二ケ月じゃこんなもんだろうね。手加減したとはいえ、よく頑張った方じゃないか? でも、このレベルで喧嘩続けていても総合相手じゃ経験が浅い奴にも通用しないよ?」


「ハァ……ハァ……そっ……それが如何したんですか? 通用……しなくたって、盾ぐらいには……なれます……現に環先輩。お……俺を……まだ……倒せてないじゃないですか?」


 イラつきを隠せない様子で、環先輩の眉のあたりが少し動いた。


「そ……それに……こ……これだけ時間があれば……技をみれば……勝子が……アイツが……俺の代わりに……ぶっ倒してくれて……麗衣を……守ってくれます」


「成程ね。自分が人柱になって倒すのは周佐に頼むか。確かにあの化け物だったら私ぐらいのレベルでもヤバいかもね。お前みたいな雑魚相手とは言え消耗しているとしたら猶更だね。でもさぁ。それってお前が美夜受を守る事にはならなくない?」


「良いんです……俺達……麗が最後に勝てば……麗衣が立ってさえいれば……良いんです」


「似たような事を姫野君も言っていたね……本当に美夜受の事嫌いだわ。……そうだ! 良い考えがある」


 環先輩は残虐な表情を浮かべながら言った。


「私が美夜受シメて、二度と喧嘩も格闘技も出来ないような体にしてやるの。そうすれば、お前等もアイツに巻き込まれないで済むでしょ? ねぇ? 良い考えだと思わない?」


 環先輩の台詞は俺のリミッターを一瞬にして解除させた。


 俺はワキを締め、肘と左拳を結ぶ直線のライン上に環先輩の顔が来るように構えると、最短距離で真っすぐに無反動で素早くジャブを放った。


「なっ!」


 さっきはノーモーションの右ストレートをお見舞いされたが、今度はこちらのノーモーションのジャブで環先輩の顎が僅かに上がった。


 俺のパンチが初めてヒットしたのだが、この化け物相手に、これで手を休める訳には行かない。

 俺は左拳を引く直前に右ストレートを環先輩に放ち、追うようにして右足を出した。


 ワンツーを通常の1・2のタイミングではなく1・1.5のタイミングで打つ俺最速の拳だ。


 今までのワンツーのスピードに慣れていた環先輩は回避する事も出来ず、頬にクリーンヒットし頬を歪ませた。


「つうっ!」


 女子の顔を打つ事に嫌悪感を覚える暇など無い。

 そんな事を考えて勝てる相手では無いのだ。


 俺は重心を下げ、とどめの左フックを放つ。

 手首を捻じ込む様にして環先輩の顎に打とうとするが―


「えっ?」


 俺は顎を突き上げられる衝撃を受け、天を見上げていた。


 ぐらりと体が墜落していく感覚に襲われるが、足の踏ん張りがきかない。


 そのまま、受け身も取れずに背後に倒れると頭が地面を叩きつけられた。


 見上げた満月がグルグルと回り、急激に視野が狭くなっていく。


「今のは危なかった……でも、打ち終わりに体勢が崩れていた事と、順手と逆手が逆になった影響で、僅かにパンチが遅れたのがお前の敗因だよ」


 そんな……環先輩の声が……遠くから聞こえてくる。


 ヤバイ……麗衣を……この人から……守んなきゃ……。


 だが俺の決意も虚しく、闇の中に意識が途絶えた。

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