第79話 逆槌
「だ……誰だ! テメーは?」
身毛津が川上猛に尋ねると、猛は意地悪そうに答えた。
「盤上の駒が指し手に名前を尋ねるのかい? 君なんかが知る必要はないんだよ」
意味不明な猛の言葉に身毛津は首を捻ったが、状況から判断して身毛津は猛の正体を予測した。
「分かったぜ! テメーは麗か天網……それか
状況から考えれば身毛津の予想は妥当だが、猛は嘲る様に反論した。
「はぁ? 何を言っているんだい? 何でこの僕がたかが駒と一緒にされなきゃならないんだい?」
「駒だと? さっきから訳の分かんねー事を言ってるんじゃねーよ」
身毛津は追っ手を気にしているのか?
後ろをチラチラと気にしながら猛に警告を発した。
「テメーが何者だか知らねーが、用が無いなら行かせて貰うぜ……」
身毛津が猛の横を通り過ぎようとしたその時だった。
「あらよっと」
不意に猛は身毛津に足を引っかけ、身毛津はバランスを崩しそうになった。
「テメー! 何しやがる!」
「流石柔道やっていると称すだけあるね。立ち技格闘技の連中はあれだけでも倒れるんだけどねえ」
「俺が柔道やっている事を知っていて足払いだぁ? 舐めてんじゃねーぞ!」
何時追っ手が来てもおかしくない状況であり、早く逃げなければならない事は身毛津も理解していたが、怒りが優先してしまったのか?
身毛津は左手で猛の襟を掴んだ。
柔道家に襟を掴まれるのは大抵の場合、致命的であろう。
だが猛は唇の端を上げ、獰猛な笑みを浮かべた。
「駒の分際で指し手相手にやるつもりだね? まぁたまには趣向を変えてみるのも一興かな? 丁度チェスの指し手でいるのも飽きてきたところなんだ」
猛の笑みを見て、身毛津は瞬時、蛇に睨まれた蛙の様に左手で猛の服の裾を掴もうとしていた手の動きを止めた。
その一瞬の躊躇は命取りであった。
猛は左手で身毛津の左手を押さえると、左手で体を落とし同時に右の裏突き、つまり正拳突きとは逆に手の甲を下に向けたボクシングで言うボディアッパーが身毛津の水月に減り込んだ。
「ぐふっ!」
あたかも内臓を万力で握り潰されたような衝撃―
十戸武恵の膝蹴りとは比較にならない衝撃で身毛津の呼吸は止まり、顔面が蒼白と化し、脂汗が地面をボタボタと濡らした。
そして、身毛津の手首を握り、ぐるりと廻り腕関節を肩に担ぎ逆を取り、同時に右肘で身毛津の胸中を突いた。
「ぐわああああっ!」
人体の急所である正中線の二箇所に打撃を喰らい、身毛津は痛みのあまり、耳障りな悲鳴を上げた。
「オイオイ? 胸中への
「くっ……クソっ!」
なおも身毛津は猛を掴もうと右手を前に前進しながら突っ込んできた。
猛は素早く足を引いて体を開き、右手の上段受けで身毛津の手を払うや否や、寄り足でサッと脇下に飛び込む。
そして、右手を身毛津の右脇下より背後へ、左手を腹部に廻し―
「セイッ!」
信じがたい事に猛は気合と共に180センチ、80キロはあろう身毛津の巨体を逆さにして抱きあげていた。
「ひいいいっ! やっ……止めてくれえええっ!」
柔道を使う身毛津がこうも容易く抱き上げられ、しかも逆さに持ち上げられる経験など生まれてこの方経験など無かっただろう。
頭が逆さの状態で固いコンクリートの地面を目にし、この状態で真っすぐ落とされたらどんな事になるのか。
身毛津は半狂乱の状態に陥ったが―
「歯を喰いしばってないと舌を噛むよ?」
猛は一言だけ警告すると、躊躇いなくコンクリートの地面に身毛津の頭を落とした。
◇
頭部を地面に叩きつけられ、完全に失神した身毛津を置き去りにして立ち去ろうとすると、行く手を阻む様に三人の男が猛の前に現れた。
それぞれ只者ではない雰囲気であったが、その中でも二人を従えるようにして真ん中に立つ、明らかに他の二人とは格が違う男が言った。
「『逆槌』か……かつて船腰義珍が伝えた空手の投げ技だが……現代の空手家でこの技を使う者が居るとはな……」
船越義珍。
空手の著書などでは富名腰義珍とも名乗っていた沖縄県出身の空手家である。
初めて本土に空手を紹介した一人であり、伝統派空手の一派である松濤館流の事実上の開祖とも言われている、言わば空手界のレジェンドである。
因みに「唐手」を称する大正11年に発行された最古の空手教則本『琉球拳法 唐手』の著者が富名腰義珍、つまり船越義珍である。
「君も随分とマニアックだねぇ。『逆槌』なんて今時道場の師範クラスでも知らなそうな技なのに。流石『殺し屋』長野賢二君」
猛は三人の男の中でも明らかにリーダー格の雰囲気である男は先程まで姫野や勝子と戦い、身毛津にボウガンで撃たれ、負傷した長野賢二だった。
「やはり貴様だったか……川上猛。貴様とはフルコンのジュニアの大会で相まみえて以来だが……こんな所で何をしているのだ?」
あろう事か、長野と猛は旧知の仲であるようだ。
だが、長野の口調から、再会を喜ぶような雰囲気は一切感じられない。
「そんな事より、御姫様の護衛は良いのかい? 今頃天網と敵対した連中にレイプされているんじゃないのか?」
「お嬢様は美夜受麗衣に懸想なさっている。それにお嬢様から聞いた美夜受麗衣の性格から判断すると、今頃和解しているだろう。そうであれば、我々が居なくても
「……随分と楽観的な憶測だねぇ……君って性善説者なの?」
「麗のメンバーで一番強硬派と思われる周佐勝子ですら俺がそこの
「どうだろうね? 本音じゃあ御姫様の護衛が重荷になっていたんじゃない? 何だかんだ言って、本当は君達が御姫様の我儘と無謀な行為から解放されたかったんだろ? 御役目御免になって精々したんじゃない?」
「「何だと!」」
長野の左右に控えていた岡本依夫と忠男の双子は飛び掛からんばかりの勢いで前に出るが―
「止めろ! コイツは例え二人掛かりでもお前達の敵う相手じゃない!」
長野は二人を押さえると、忌々しそうに続けた。
「そして、俺を含めて三人掛かりででもだ……」
「「なっ!」」
岡本ツインズは思わず長野と猛の双方の表情を見比べていた。
「まさかぁ~試合ならとにかく、『殺し屋』と言われた君に勝てる高校生何て、それこそ現役のトップ選手ぐらいじゃないのかい?」
「……その試合でも……いや、あの時のアレが試合と呼べるシロモノだったか分からないが、貴様に手も足も出なかった俺に言う台詞か?」
「ははははっ……まぁ過去の話だよ。今ではお互い第一線から退いているからね、物騒な事はこれを機に程々にしようよ」
猛はポンポンと長野の肩を叩いた。
「そこの
そう言って長野の横を通り過ぎると、動揺している岡本ツインズの間を堂々と割って通ったが、岡本ツインズは何も出来ずに猛の後姿を見送った。
「あーあ……折角回りくどい事までやって準備した
だが、その顔は独り言とは裏腹に残念そうな表情など一切浮かべていなかった。
猛は天網に代わる新たな駒に思いを巡らせ、楽しみながら次の指し手を考えていた。
◇
作中でご紹介した最古の空手教則本『琉球拳法 唐手』は国立国会図書館デジタルライブラリーで閲覧可能です。
なお、『逆槌』は空手で実在した投げ技ですが(ネットにも殆ど情報がありません)、『空手道教範』(著・富名腰義珍 昭和10年)によると、あまりにも危険な為、命に危機がある様な相手でもない限り真下に落とすのではなく横に投げる技だそうです。
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