第60話 小碓武(キックボクシング)VS岡本忠男(ボクシング)(1) 特訓の成果
俺は足を肩幅まで開き、左足を前に、右足は斜め45度ぐらいを向くように構え、ワキを締めた状態で両肘を肋骨の前に置き、勝子に貰った簡易バンテージを嵌めた両拳をこめかみの高さまで上げ、手は小指が前に来るようにしつつ、左拳は少しだけ前に出し、右拳は自分のあごとこめかみを守るように構えると、上半身と下半身の動きを連動させるために、腹筋に力を入れて、少し前傾姿勢に構えた。
麗衣にキックボクシングの構えを教わってから1ヶ月も経っていないが、日々の練習を欠かさなかった為、それなりに様になってきているだろう。
それに対し、岡本ツインズのボクサーである忠男は前足のつま先を内側に向け、俺よりも更に低い姿勢のクラウチングスタイルに構えた。
典型的なボクサーの構えではあるが、通常と違うのは右手と右足を前に出して左手を奥手にしたサウスポースタイルであるという事だ。
あの
良く言われているのは、サウスポーはオーソドックスに比べて希少な為、慣れていないオーソドックスはサウスポーに苦手意識を持っているという事だが、右利きでもサウスポーの選手が増えている為、それ程単純な理由ではないらしい。
まぁ、俺にとってオーソドックススタイルだろうがサウスポースタイルだろうが、格闘技を使う相手とのストリートファイトは初めてであり、苦手意識も何も経験自体が無い為、関係ない事だと麗衣に言い聞かされていた。
それでも亮磨がもたらした情報は重要で、何も知らなかったら
「貴様がお嬢様の学友か?」
忠男は喧嘩を始める前に尋ねてきた。
「ああ。そうだよ。それがどうかしたの?」
「貴様の事は聞いている。美夜受麗衣が悲しむからあまりお前を痛めつけてはいけないと仰せつかっている。だから、せめてもの情けで一撃で終わらせてやる」
高校生らしからぬ物の言い方に失笑しそうになった。
「それはお気遣いありがとさん。怖かったから助かるよ」
脅しのつもりか、舐めていたのか分からないけれど、不思議な事に思った程忠男の事が怖くなかった。
麗衣にパンチの仕方を教わった事。
100パーセントアウェーの中で棟田との喧嘩。
ナイフを持った
勝子との特訓。
三週間のキックボクシングの経験。
麗衣達や亮磨とのスパーリング。
一ヶ月にも満たない間に起きたこれらの出来事が俺を確実に強くしていた。
そして、この男を倒し、少しでも
そう思うと怖いどころか、良い
「怖いという割には笑っているぜ?」
俺のそんな内心が表情に出ていたのか?
忠男は自信も笑みを浮かべながら尋ねてきた。
「そうかい? こうしている間も怖くて仕方ないし、びくびく震えているし、見間違いだと思うよ?」
「そうは見えないがな、まぁどちらにせよすぐに終わらせてやるよ!」
お喋りはここまでと言った感じで、忠男は軽やかにステップを踏み、見惚れる様な美しい動きでサークリングを始めた。
こちらは左膝を柔らかくし、トントンと踵を突く事により、如何にも蹴りを撃つかのように警戒させるが、これはフェイクで勝子からキックの使用は禁止されている。
今はボクサー相手にキックボクサーがキック無しで戦うという途轍もなく不利な状態なのだ。
当然の事ながらボクサーに有効かと思われるローキックやカーフキックが使えないのだ。
キックボクサーがボクシング技術で本職のボクサーに敵うべくも無いし、ましてや相手はプロボクサーである亮磨を倒した人物である。
格闘技を始めて一ヶ月に満たない俺が敵う相手では無いはずだが、これはボクシングの試合では無い。
「貴様の喧嘩をしている動画は見させて貰ったが、只の素人じゃないか? あの時は一度も蹴りを放っていないし、あの後何らかの格闘技を習ったとしても、まともな蹴りなど打てまい」
俺の事まで研究していたのか?
随分慎重だな。
まぁ動画を観ていたとすれば、そりゃ見抜かれるよな。
「さあな? 俺の師匠である勝子はジャンルを超越した天才だからね。蹴りの教え方も天才だと思わないかい?」
「そうだとしたら面白いな。貴様も長野に格闘技を叩き込まれたお嬢様の様な天才であれば良いがな」
「へぇ……そんなに十戸武も凄いんだ。それで十戸武ってどの位強いの? アンタより強いのかい?」
「長野には流石に全く敵わないが、俺と依夫は三回手合わせして二回は負ける程までお強くなられている」
マジかよ。
手合わせってやつのルールがよく分からないけれど、それって亮磨を倒した奴より十戸武の方が少し強いって事か?
俺はそんな内心の驚きを胸の内にしまい、ワザと忠男を挑発する事にした。
「じゃあ、アンタは女よりも弱いって事か? 天網も大袈裟な大義名分を主張する割には大した事ないね」
「……」
ざわっと空気が変わり、こちらに風が吹きつけてきたのかと思うほどの殺気が俺の身を貫き、全身に鳥肌が立つ。
はじめて俺は今日の喧嘩で恐怖を覚えた時、勝手に体が動いた。
俺がとっさにウィービングをすると、刹那の間に距離を詰めていた忠男のいきなりの右フックが俺の頭髪を掠め、振りぬかれていた。
更に俺はもう一回U字にウィービングをすると左フックが俺のつむじスレスレに通り抜けていた。
今のはヤバかった。
目で動きを追っていたらとても間に合わなかったはずだ。
今躱せたのはここ数日繰り返した練習による条件反射のようなものだ。
亮磨に予め忠男の得意パンチを教わり、反復練習を繰り返していなければ俺はファーストコンタクトでノックアウトされていただろう。
サウスポースタイルの前拳によるフック、つまり右フックはサウスポーにとって有効な武器であり、亮磨は距離感に慣れぬ内に、いきなりこの右フックと左フックの連打を喰らったと言っていた。
俺の身長が亮磨よりも低いのも躱す事が出来た要因かも知れない。
とにかく、この距離で連打されてはヤバいが、こちらからあのステップで間を詰めるのは難しい事は容易に想像できる。
出し惜しみはしていられない。
俺は姫野先輩に教わり、練習を繰り返した技を使う事にした。
オーソドックススタイルでサウスポースタイルが苦手なのは足の位置にあるとも言われている。
足同士が重なってしまうと真っ直ぐ踏み込みにくく、これを攻略しないと距離がずっと攻撃が届きづらい遠い状態になる。
オーソドックススタイルからすると踏み込みが難しく中途半端になりがちで、その場でパンチを打ったり、中途半端な踏み込みでパンチを行うと、サウスポーは殆ど距離を変えないで体を後ろに逸らすスウェーバックや軽めのステップバックなどでパンチをかわすことが出来るので、打ち終わりのカウンターを使用することが容易になる。
それに、予備動作少なく避けることが出来るので次の動作に移りやすくなるのだ。
つまり足の位置の攻略がサウスポー攻略のツボでそれが難しいところだが、この足が重なる事が寧ろ姫野先輩に教わった技を試す分には都合が良かった。
俺が真っすぐステップバックすると、案の定、俺に追撃せんと距離を詰めてきた。
忠男の前足に体重が乗ったその瞬間、俺は前足を左前に若干移動し、後ろ足も左前に若干移動し、膝を少し曲げ、忠男の前足の外側に踏み込むと、忠男の踵辺りを狙い、鋭く足を払った。
「何!」
足払い。
勝子に勧められ、姫野先輩に教わったのは実にシンプル極まりないこの技だった。
足払いというと大したことも無さそうな響きに聞こえるが、ローキックの使用が禁止されている日本拳法においては足払いは重要な技の一つであり、相手にとって守る部位が面・胴体だけでなく足まで警戒しなければならなくなるだけでも防御が困難になるのだ。
俺はその道の専門家である姫野先輩に教わり、実戦で使用できるレベルまで訓練したのだ。
ローキックなどよりも打つ時にバランスを崩す可能性が低く、キャッチされる事もあまり無い為に安全性が高い上に、相手にとって意外性があり初見では見抜かれづらい。
パンチを打つときに重心が前に来る為、前足を引っかけてやれば相手の体勢を崩す事が出来る。
取得は比較的容易でパンチが得意な相手には効果が高い。
まさに忠男の様な相手にはうってつけの技だった。
しかも、オーソドックススタイルよりも互いの足が近い分だけ足払いがし易かったのだ。
パンチを撃とうと体重を前にかけていた忠男は大きくバランスを崩し、体勢を戻そうと腕が宙を泳ぎガードが開いた隙を俺は見逃さなかった。
この日の為に練習をしてきたのは足払いだけでない。
相手を転ばせただけでは日本拳法では一本にならないように、追撃をしなければ意味がないのだ。
その為、倒れた、あるいは体勢を崩した相手をすかさず追撃する為のパンチの練習も積み重ねた来たのだ。
練習を繰り返したパンチを忠男に振り下ろすと顎にクリーンヒットする。
簡易バンテージを通した衝撃はそれ程重くなく、拳が突き抜けたように感じた。
忠男は膝を落とし、地面にへたり込む様にして尻を着く。
自分でも信じられないが、この喧嘩のメンバーの中で、最初に相手からダウンを奪ったのは一番最弱と思われる俺だった。
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