第36話 キックボクシング入門体験

 18時30分になり、入門クラスの練習時間が始まった。

 インストラクターは妃美さんが行い、その後ろの方で麗衣が正座をさせられている。

 麗衣は俺がいるという事もあるのだろうが、久々に入門クラスに参加したかった様だが、妃美さん曰く


「練習は駄目だって言っているでしょ? それなのにサンドバッグなんか蹴ってるし……それに月謝と入会費三人分損したのだから少しは反省しなさい」


 との理由で正座をさせられているらしい。

 因みに入門クラスであっても選手だから参加してはいけないという制限は無い為、麗衣の様にアマチュア選手として認められる上位の級取得者も参加している会員も中には居る様だ。


「では、入門クラスの練習を開始します。よろしくお願いします!」


「「「よろしくお願いします!」」」


 元々は空手出身の団体だったので、空手に似た集団練習形式を取り入れ、武道的な礼も重視されている。

 挨拶が終わると、一斉に動的ストレッチが行われる。

 動的ストレッチとは身体をダイナミックに動かして関節の可動域を広げたり筋肉をほぐしたりするストレッチで、運動前のウォーミングアップである。

 身体をほぐした後、立ち方や構えについて教わる。

 妃美さんは会員の構えを見て回り、姿勢が悪い会員のフォームを修正した後、1・2で前へステップし3で回転し、元へ戻る。このようなステップの練習から開始した。

 以降、1セットのタイムが内容により1~2分で練習は続けられてゆく。

 ステップ練習後、妃美さんがジャブやストレート、ワンツーの打ち方を説明し、それを真似て鏡の前でフォームを確認しながら実際にやってみる。

 まぁこの辺は大体麗衣に教わった通りだ。

 そして今回は始めてアッパーについて学んだ。


「顎を狙うと顔の前で空振りしてしまう場合があるので、相手の喉元を狙って滑らせて上に撃つような感じ」


 で打つのがコツと妃美さんが言った。

 如何にも選手らしい実戦を想定した教え方だ。


 左右アッパーそして左右フックの練習が終わると、次はいよいよミドルキックの練習だ。

 キックボクシングやムエタイで最も基本の蹴りだが、その威力は先日麗衣が証明した通りである。

 ミドルキックは相手の胴体に最も当てやすいキックなので、試合でも多用される。

 サムゴーを参考にしたという麗衣みたいなミドルが打てるようになりたいのだけれど……。

 現実はそれ程甘くはない。


 妃美さんの左ミドルの打ち方の説明が終わると、掛け声とともに左ミドルの練習が開始する。

 脚をスイッチし、左手を顔の前に持って行き、手を振りながら軸足をグッと返し、力を横に伝えるように蹴る。

 キックボクシングのシャドーの場合、空手の回し蹴りの様に打った後に足を引いて戻すのではなく、振りぬいて身体を一回転させるのだが、勢い余ってバランスが崩れ、転倒した。


「あはははっ! 武! なんだよそれー!」


 大勢の前で麗衣は俺を指さして笑っていた。

 うう……格好悪い。

 鏡で麗衣の姿を確認すると、妃美さんは器用にも掛け声をかけ続け、会員に注意を向けながら麗衣の頭を小突いていた。

 ミドルキックの練習が終了すると、キックボクシングの基本であるローキックや前蹴り、膝蹴りを一通り練習した。



              ◇



「はい。一旦水分補給してください」


 基本フォームにパンチとキックの打ち方の練習が終わると、妃美さんの指示で水分補給の休憩時間が挟まれた。

 以前麗衣にパンチの打ち方は教わっていたが、パンチだけならとにかく、キックまで練習すると疲労が段違いだと実感した。

 俺はジムの端で床マットに腰を下ろすと、麗衣がペットボトルを持って俺に近づいてきた。


「ほらよ! ボコリ飲むだろ?」


 麗衣はボコリスウエット。通称ボコリと呼ばれる物騒な響きのスポーツドリンクを差し出してきた。


「あ。ありがとう」


 練習中に水分補給が必要になるから必ず水を買っておけと言われたので予め購入していたものだが、麗衣が預かっていてくれたのだ。


「まぁ、さっきオモシレ―もの見せて貰ったしな」


 麗衣はわざとらしく口を抑え、笑いを噛み殺すような表情を浮かべていた。


「へいへい。どうせ俺は運動音痴の下僕君ですよ」


「まぁまぁそうイジケんなって。そのボコリあたしが口付けたかも知れねーぜ? 童貞野郎には良いご褒美だろ?」


 麗衣は小悪魔っぽい表情で俺が動揺していないのか確認するつもりなのか?

 ニヤニヤしながら俺の顔を見つめていた。


「未開封のペットボトルでどうやって口付けるんだよ……て、蓋開いてるじゃん!」


 でも量は明らかに減っていない。


「さぁ、女神の間接キスか? それとも偽りか? 下僕武に飲む勇気はあるでしょーか?」


 女神って誰の事だ? 女悪魔の間違えだろ?

 前にパンチを教えてくれた時は間接キスになってしまった訳だけど、あれは俺が飲んでいたペッドボトルに麗衣が口を付けたのであって、今回は逆だ。

 あの時の意趣返しのつもりかもしれないが、流石にあんなアホな事は繰り返すまい。

 俺は大して迷いもせずペッドボトルに口を付け、ボコリを口に流し込んだ。


「あ……飲みやがった」


「別に間接キス位平気だって、麗衣が前言っていたじゃん? 俺だって麗衣となら如何って事ないよ」


 勿論関接キスなどしていないという確信の上での発言だが、麗衣を見ると、顔が真っ赤になって目の焦点が合っていない。


「ななななっ……童貞の癖に生意気な……そっ、……そろそろインターバルが終了するぜ……それ預かっておくからよぉ……」


 殴られるか、死ぬ程罵られる事を覚悟したが、どういう訳か麗衣に何時もの勢いが全く感じられない。


「あっ……ああ。お願いするよ」


 俺はボコリを麗衣に預けると、麗衣は熱にうなされているかのようにフラフラと元の場所に戻って行った。

 何か妃美さんに小言を言われているみたいだが、上の空の表情で正座をしていた。



              ◇



 休憩が終わると、続いてキックミットを使った練習が開始する。

 ジムから無料で借りた軍手を嵌め、ボクシンググローブを着けた。

 俺と身長が同じくらいの恐らく大学生位の練習生とペアを組んで練習する事になった。


「宜しくお願いします」


 俺が頭を下げて挨拶をすると相手も頭を下げてきた。


「こちらこそよろしくお願いします」


 背丈格好が似ているからか、親し気な雰囲気とまで言わなくても、左程怖いイメージは無かった。

 礼を重んじるとはいえ、社会人も多く参加しているだけあって年上だろうけれど、同じクラスに参加する者としてそこにあまり厳しい上下関係は無いのか。

 同世代の集まりで些細な年齢の差で上下関係が厳しい高校生の部活に比べれば随分と緩そうなので自分にはやりやすかった。


 まずはキックミットにワンツーを打つ練習。


「手が曲がった状態でミットに当たると近いので、ジャブが伸びた距離で当てて下さい。そこでもう一歩踏み込んでツーのストレートを打ちます」


 妃美さんの指示に従い、俺はパートナーのキックミットに向けてワンツーを放つ。

 これが中々楽しい。

 シャドーと違い当てる感触があるだけでも心地よい。ストレス解消にも良さそうだ。

 恐らくサンドバッグを叩くとなると重くてキツイのではないかと思うが、この位の感触であれば楽しいものである。


 引き続き、左右のミドルキックをキックミットに打ち込む練習を行い、最後はワンツー後の左ミドルキックのコンビネーションだ。


 初めてという事で気にかけていてくれたのか? 妃美さんが俺達に声をかけてきた。


「ワンツーの後。慣れてきたらすぐに前後脚を切り替えてミドル打つのだけれど、最初だからワンツー打った後、1のタイミングで脚をスイッチして2で左ミドルを蹴ってみて」


 スイッチの見映えは悪いが、このタイミングならば蹴りが打ちやすい。

 でも、さっきからパートナーの人が苦しそうにキックミットを受けているのが気になった。

 この理由はすぐ後に身をもって体感する事になった。


 俺のミット打ちが一通り終わると、次は俺がミットを受ける番だ。

 パートナーから受け取ったキックミットを腕に装着し、妃美さんの合図で練習が再開される。

 パンチは何とか受け切ったが、キックをミットで受ける番になると思わぬハプニングが起きた。


 パートナーのキックを上手く受け切れず、キックミットが顔にぶつかったのだ。


「イテててっ……」


「大丈夫ですか?」


 パートナーは心配して声をかけてきた。


「あ、いえ大丈夫です」


 その後、パートナーは手加減してミドルキックを打ってくれた。

 入門クラスであるし、恐らくパートナーもそれ程慣れていなくてミットを受けていたのかも知れない。

 なんだかパートナーに対して申し訳ない気分になった。



              ◇



 二度目の水分補給。

 今度はこちらから麗衣の正座する場所に近づいた。


「麗衣。ペッドボトル頂戴」


「あっ……ああ」


 麗衣は今水分補給の時間である事を気付いたのか? ボケっとした表情で俺にペッドボトルを渡した。

 俺は受け取ったボコリを飲むと、自分からこう切り出した。


「さっきのキックミット受けるの見ていただろ? 恥ずかしいよなぁ俺」


 麗衣に言われる前に自分から言い出した方が、ダメージが少ないと思ったのだが。


「いや……最初はそんな物だろ? 怖いからって腕だけ前に出して腰引けていると衝撃で顔にぶつかるかも知れねーけど、身体で受けると意外といけるぜ。あとは慣れだからな」


 あれ……随分まともな返事だ。


「麗衣。もしかして妃美さんにそんなに怒られたの?」


「ち……チゲーよ、バーカ!」


 一体どうしたんだろう麗衣は?

 さっきからかっていた時の麗衣は随分機嫌が良さそうだったけれど……。


「ホラ! 水分補給は終わりだ。パートナーの人待たせるなよ!」


 麗衣は俺からペッドボトルを奪い、背中を押した。



              ◇



 最後は受け返しの練習だ。

 受け返しとはペアを組んで攻め手と受け手を決め、例えば攻め手がジャブを打つと決め、受け手がパリングで防御し、右ミドルで返すなどと決定し攻守を行う。

 つまり、攻撃された場合の防御、切り返しの攻撃を練習する事により実戦で使う攻防を身に着けるのが目的だ。

 勿論、思いっきりやれば怪我をする可能性もあるので、寸止めか軽く触れる程度の強さで行われる。


 ジムから貸し出された赤いレガースを脛に装着し、パートナーと受け返しを開始した。

 妃美さんから右ミドルのカットから右ミドルの返しのコツを教わった。


「相手の右ミドルを左膝上げてカットして、そのままカットした足を踏み込んで、右ミドルを返す。カットした足は真下じゃなくて斜めに落とすのがコツよ」


 成程、これならば防御した左足で踏み込み、流れるように相手の正面に右ミドルが返せる。


 この他にもジャブをパリングしてジャブを返す、ワンツーを左ミドルで返す等、幾つかのパターンで受け返しの練習を行った。


 最後は静的ストレッチを行う。

 静的ストレッチとは時間をかけてゆっくりと筋肉を引き伸ばすストレッチの事で運動後に行う事で次の日の筋肉の疲労を軽くする効果があるらしい。

 静的ストレッチが終了すると入門クラスの練習の終了時間を迎えた。



◇◇


 キックボクシングの練習の様子についてもっと知りたいという方は「ヤンキー女子高生の下僕はキックボクサーを目指してます!」にも詳しい練習の様子がありますので宜しければそちらもご覧ください。


https://kakuyomu.jp/works/1177354054934864578

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