第37話 やる気以外の重要な問題

「う~ん。ぜんぜん食欲が湧かない……」


 練習終了後、俺は麗衣と一緒に夕食を取る為にイタリアンがメインのファミレスに行ったが、肝心な食欲がぜんぜん湧かなかった。


「武って今まで帰宅部だったんだろ? 急に運動すると飯食う気にならねーかもな。でも、せめて注文した分は残さず食っておけよ。初めてだから体重二キロ位減ったと思うし」


「そんなに減るの?」


 一時間程の練習でそんなに減る物なのだろうか?


「個人差はあるだろうけど、多分その位減ると思うぞ。ちゃんと食っとけよ」


「うん。分かった」


 麗衣は、ほうれん草とバジルの入ったジェノベーゼをフォークでクルクルと巻き取りながら口にしている。

 赤銅亮磨あかがねりょうまに殴られて切った唇がまだ完治しておらず、あまり口を大きく開けて食べると唇が痛むので、最近はヨーグルト等の柔らかい食品や口に入れやすい麺類を食べる事が多いらしい。

 俺も麗衣のそんな状況を慮って同じジェノベーゼを頼んだ。

 パスタを食べるときにフォーク以外にスプーンを使うとイタリアの方ではマナー違反なんだっけ?

 寿司をフォークで食べるようなものだと考えるイタリア人の主張もあるらしい。

 只、アメリカからスプーンを使う方法は伝わったとかで五月蠅く言う事も無いとか、マナーに関して議論が分かれているみたいだけれど、麗衣もスプーンを使っていないし、俺も無難にフォークだけ使ってジェノベーゼを口にしていた。

 こんな事を気にしているのを麗衣に知られたら女に免疫の無い童貞野郎らしいとか言われそうな気もするな……。


 それはとにかく、あまり大きな口を開けられない為なのか、麗衣の食事のペースは食欲が無い俺よりも遅かった。

 先に食べ終わった俺は手持ち無沙汰になったので、ドリンクバーへお代わりを取りに行こうと席を立ち、麗衣に声をかけた。


「ドリンクバー行って来るけど何か欲しいジュースある?」


「えーと……じゃあアイスティ頼んでいいか? ミルクとシロップは要らないから。わりぃな」


「ああ。取ってくるよ」


 俺はドリンクバーへ行き、二つのコップに氷を入れると、両方にアイスティを注いだ。


 すると背後に別の二人連れの客がドリンクバーへ話しながら近づいてきた。


「オイ。あの動画観たか?」


「ああ。あの珍走ぶっ飛ばされている動画だろ? あれ痛快だったよなぁー」


「あの『レイン・ウルフ』だっけ? あの娘メッチャ強くて可愛いよなぁ?」


「あーだけど俺は『サタンズ・ハンマー』が圧倒的だと思ったな」


「あれは最早人間じゃないね。『後の先の麗人』もカウンターカッコいいよな?」


 ん?

 珍走をぶっ飛ばした女の子の話題なのか?

 そんな事をするのは麗衣達ぐらいしか思いつかないけれど、『レイン・ウルフ』だの『サタンズ・ハンマー』だの『後の先の麗人』って何だその厨二病全開な呼び名は?

 当然本人達の間でそんな呼び方をするのを聞いた事が無いし、鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードの連中がそんな風に呼んでいた記憶も無い。

 二人の会話に興味はあったけれど、何かのゲーム動画の話題かも知れないし、麗衣をあまり待たせてしまうのも悪いと思い、席に戻る事にした。


「お待たせ麗衣」


「いや、ゆっくり食べているから。取りに行かせちまってわりぃな」


 下僕に対して随分しおらしい。

 俺はストローを包装している紙を破りながら、麗衣に尋ねた。


「麗衣なんか元気ないよ? どうしたの?」


「ああ。……その今更だけどよ。お前の『麗』入りの件。良いのかなと迷っていてよ……」


 麗衣は食事の口を止め、フォークを置いて俺にそう言った。

 麗衣が迷いを見せるなんて珍しいんじゃないのか?


「だから、無料体験の後、すぐに俺を入会させなかったんだ」


 入門クラスの無料体験終了後、俺はトレーナーと共に事務作業も行っている妃美さんに入会の意志を伝えようとしたけれど、麗衣に止められたのだ。


「勢いじゃなくて、ちゃんと熟慮して欲しかったからさ。少なくても一晩は考えてくれ」


「俺の才能が無いからそういう事を言うの?」


「一日ぐらいで才能なんて分かるものかよ。まぁ今日の話だけすれば全然ダメだったけれどな」


「ううっ……そりゃそうだよね」


「まぁ最初は皆初心者って奴さ。成長のスピードは人に依るだろうけれど、続けていりゃ強くなるのは間違いないぜ」


「じゃあ、何で俺の入会を後押ししないで止めるような事をしたの?」


 麗衣はうつむき加減で小さな声でぼそりと言った。


「……楽しかったんだよ」


「え?」


 麗衣は顔を上げ、ヤケクソな様子で言った。


「楽しかったんだよ! あたしは練習出来なかったけれど、武を見ていてさ……その……ダチと一緒にやるのもそんなに悪くねーかなって思っちまったんだよ。恥ずかしい事言わせんな!」


 そんな事を麗衣が考えているとは全く思っていなかった。

 でも――


「だったら猶更理由が分からない……俺には麗衣がジムに入るのを止めさせたがっているように見えるんだけれど?」


「『麗』の件とは別に入会するならそれでも良いと思った。でも、武をジムに行かせる理由は『麗』に入っても自分の身ぐらい自分で守らせるためだったからな」


「え? 俺もタイマンするからじゃないの?」


「絶対させるかよ! この前みたいに数で囲まれた時、あたし等が武を守れる保証がねーからだよ」


 どうやら麗衣と俺の間で大きな認識の違いがある事に始めて気付いた。

 だが、考えてみればその通りである。

 麗衣と同レベルを求めるとすれば最低でもアマチュア大会に出場して勝てるぐらいの基準を求められるはずだ。

 最初の昇級審査に合格するレベルだと、正しいパンチやキックを打てて、単発の切り返しが出来るぐらいだ。

 身を守るのはこのレベルでも可能かも知れないが、赤銅兄弟のような格闘技を習得している相手に対してタイマンを張っても恐らく勝ち目は無いだろう。


「来てくれたのが嬉しかったのと、楽しかったのでつい悪ふざけが過ぎたけれど、冷静に考えると、わざわざ暴走族との喧嘩から身を守るためだけにジムに行かせるなんてヒデー話じゃん? なんて馬鹿な約束しちまったんだろうな……あたしは」


 確かに他の人から見ればそうなのかも知れないけれど、麗衣の力になりたい俺にとっては好都合の条件である。


「そんな事は無いよ。俺はどんな条件でも麗衣と一緒に居たいと思っているんだ。……一緒に死んだ、あの日から」


 そう。

 麗衣と一緒に飛び降りた、あの時の事を思えば暴走族と喧嘩するぐらい何も怖くない


「……相変わらず恥ずかしい事を平気で言う野郎だぜ。武は」


 麗衣は両手を上げて、お手上げと言った様子で続けた。


「あたしのこの傷だらけの顔をよく見ておけ。飯食うのも苦労しているこの様もよく見ておけ。あたしに関わると、もっとヒデー目に合うかもしれないんだぞ? それでも良いのか?」


「その事に関しては麗衣が戦っていた時に姫野先輩にも似たような事を言われたよ。でも、俺はあの日から覚悟を決めている」


「……はぁ。こうなるとあたしの警告なんて聞かないんだろうな……OK。分かったぜ。ジムへの入会についてはお前の好きにすると良いよ」


「ああ。納得してくれてありがとう」


「納得なんかしてねーよ! あと、入会したからって『麗』に正式なメンバーとして認めるかは二ヶ月でお前が結果を残さないと駄目なんだからな。忘れるなよ?」


「そんな事は分かっているさ」


「そうか……仕方ねーな。ほらよ、妃美さんから預かっているジムの入会に関する資料見せてやるよ」


 麗衣は妃美さんに渡された入会に関する案内のプリントを俺に渡した。

 そして金額に驚愕せざるを得なかった。

 高校生なので幾らか引かれているけれど、それでも入会費と月謝がそれぞれ八千円以上。保険金など諸経費三千円以上。他に練習に必要な道具。汗対策(バンテージ代わりではない)の軍手は良いとして、グローブが約四千円、レガースが革製だと約五千円――


「……え? こんなにするの?」


「おいおい。金が馬鹿にならねーって前言っただろ? もしかして、調べてなかったのか?」


「あ……うん」


 空手系の道場よりも明らかに高いし、入会時諸費用で最初の二ヶ月分の月謝は先払いしないと駄目なのだ。


「高校生だから値引きはしてくれているけどな……ジムで練習しておいて今更だけど、確かにこの額でも高いよな?」


「どうしようかな……。布製のレガースなら千五百円だからこれを買うか、レンタルで初期費用を抑えるか……」


「仕方ねーな……レガースは革製のが良いし、グローブとレガースはレンタルでも結局金掛かるし、取り合えず、あたしの使っていないやつを貸してやるよ」


「え? 良いの?」


「ああ。身長も似たようなものだし、サイズは何とかなるだろ? あと軍手は家にある物でも準備しておけ。以前、バレンタイン企画で入会金無料キャンペーンみたいな訳の分からないキャンペーンもあったけれど……何とか妃美さんに負けてくれないか相談するわ……」


 やる気はとにかく、金銭的な事は如何にもし難い。

 この件に関しては麗衣を頼るしかなかった……。

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