第35話 サンドバッグを蹴る脚も痛い

「ええっと……誰?」


 麗衣は声をかけてきた男子に振り向いた。


 ツイストアップバングの髪形。胸に金色の十字架をモチーフとしたアクセサリーを首に掛けた、如何にも軟派風の男子が口元をニヤ付かせながら話しかけてきた。


「ああ、クラス違うから知らねーか。1-Bの厚鹿文高志あつかやたかしだ」


「なんで1-Bの奴があたしら1-Dの名前知っているんだよ? 別にお前と話した覚え無いぜ?」


「いや。お前等一年の超有名人じゃん? サンドバッグ野郎とヤンキー女が付き合いだしたってもっぱらの噂になっているぜ?」


 麗衣は眉を潜めながら厚鹿文の台詞を否定した。


「あ? そりゃデマだぜ。てゆーか、テメーら無料体験なのか?」


「ああ。お前等もそうなのか?」


「あたしはここの練習生だ。無料体験は武」


「へー。美夜受ってキックやっているんだ。怪我しているのと何か関係あんの?」


 厚鹿文は気安く麗衣の肩に手を伸ばすと、麗衣は手の甲で振り払った。


「関係ねーよ。というかテメー気安いんだよ」


 麗衣が鋭い目で厚鹿文を睨みつけると、その剣幕にたじろいだ様子をみせたが、引っ込みがつかないのか、一層麗衣に気安く迫った。


「んだよ……別に良いだろ? サンドバッグ野郎と仲良くするぐらいなら、俺と仲良くしようぜ? な?」


「あたしは雑魚は相手にしねー主義なんだよ」


「サンドバッグ野郎は構ってるのにか?」


「ああ。武は少なくてもテメーみたいなナンパ野郎よりはずっと強いぜ」


「はははっ! 面白くねー冗談だけど笑えるぜ。俺はつえーぜ。鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードって知ってるか? 暴走族なんだけどよぉ、最近静かだろ? 理由知ってるか? アレ、実は俺がやったんだぜ?」


 はぁ?

 何言ってるんだ?

 この馬鹿死ぬぞ?

 その鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードを潰した当人が目の前に居るんだぞ……。


「へぇ……そうかい。アンタ、つえーんだな」


 麗衣は途端に態度を軟化させ、怪しげな笑みを浮かべながら、厚鹿文の嘘を否定しなかった。


 あ、何か悪い事を考えている顔だ。


「そうだぜ。あとゲーセンで『終わりの十歩』っていうパンチマシンあるだろ? あれで四百キロ叩きだした事もあるんだぜ?」


 厚鹿文はますます嘘くさい事を言い出したからなのか、麗衣は関心を装い煽りだした。


「へぇー。すげーじゃん。本当は一目見て強そうかと思っていたぜ。勿論蹴りの方も自信あるかい?」


「勿論だぜ。鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードの特攻隊長も俺が蹴り倒したんだぜ……おい、サンドバッグ野郎! 何かおかしいのか?」


 あ、笑いを堪えているところをついつい見られてしまった。


「いや……何でもないよ御免」


「お前舐めているとマジでサンドバッグにするからな!」


 厚鹿文が凄んでくるが、全く恐怖を感じない。

 以前だったら半べそでもかいて謝っていそうなものだけれど、ナイフを振り回していた赤銅鍾磨あかがねしょうまを殴りつけた事や麗衣と一緒に校舎屋上から飛び降りた事を思えば厚鹿文の恫喝など物の数にも入らない。


「いやいや。本当に凄いと思うよ」


「あ? なんか舐めてるよな? 美夜受と一緒だからって強がって見せているんじゃねーぞコラ!」


 どうやら俺が麗衣と居る事が気に入らなくて絡んできているようだ。

 厚鹿文の仲間二人は流石に初訪問のジムの中で問題を起こしたくないのか?

 厚鹿文をなだめた。


「まぁまぁ落ち着けよ。雑魚相手にムキになるなよ」


「折角ジムに来ているんだからよぉ。厚鹿文の強さを見せりゃ良いじゃん?」


 仲間二人に厚鹿文が強い事を前提に宥められ、厚鹿文は気を良くした。


「わりぃな。雑魚のサンドバッグ相手に俺ともあろうものが、大人気なかったよな。はははっ!」


 麗衣は気をよくしている厚鹿文にニヤニヤしながら尋ねた。


「なぁ厚鹿文。武の事サンドバッグって言っているけどさ。本物のサンドバッグ蹴ったことあるのか?」


「あ? あたりめーだろ」


「ならさぁ。丁度サンドバッグあるし、ちょっと蹴ってみないか? 厚鹿文がどんなスゲー蹴りなのか見てみてーし」


「おお。任せとけ」


 この直後、これは麗衣が巧みに仕掛けた罠であったと素人は思い知らされることになる。



              ◇



 ズドぉーーーーーーーーン!

 ズドぉーーーーーーーーーン!



 俺も厚鹿文達も砂が減り込む重い轟音とその原因である光景に呆気に取られていた。


 麗衣は「手本を見せる」等と言い、スタンディングサンドバッグにミドルキックを叩き込んでいた。

 スタンディングサンドバッグとは鎖に吊るすタイプでは無く、床に設置するタイプのサンドバッグである。

 そのスタンディングサンドバッグの上部が振り子の如く激しく揺れ動いていた。


「ふうっ♪ 久々の感触だぜ。でも久しぶり過ぎてイマイチ調子わりーな」


 これで調子悪いんか……。

 そりゃガードの上からハイキックでボクサーをKOしたぐらいだから本人にとっては納得が行かないのかも知れないけれど、素人の俺達からすればただただ恐怖の光景だった。


「スタンディングサンドバッグだとよく倒しちまうんだけど、今日は無理っぽいな。こんなのじゃ、ちょっと厚鹿文に見せるのは恥ずかしいよなぁ?」


 麗衣が心の奥底から楽しそうに微笑んでみせた。


「あっ……ああ……。まぁまぁやるじゃねーか」


 厚鹿文はかろうじて強がりながらも顔色は優れなかった。

 この期に及んで強がるところだけは見上げた根性なのかもしれない。


「じゃあ左ミドルやってくれねーか? 蹴り自信あるんだろ?」


 麗衣は厚鹿文に場所を譲った。


「お……おう。じゃあ行くぜ!」


 厚鹿文は腕を振り、膝を上げて折りたたんだ足先を伸ばしサンドバッグを蹴る。


 ぺちっ


 軽い音と共にスタンディングサンドバッグの上部が僅かばかり揺れるが。


「イテっ!」


 厚鹿文は足首を抑えて悲鳴を上げた。


「あーそれ空手の蹴りのつもりかも知んねーけど全然ダメ。体全体ぶつける感じで脛で全力で蹴るんだよ。当てる場所は足先じゃなくて脛だからな。ほら、もう一度やってみな?」


「お……おう。今のは悪い例だ」


 なんだこのクソつまらないテンプレ野郎は。

 麗衣はそう口汚く罵る物かと思ったが、あるいは厚鹿文にとって罵られた方が幸せだったのかも知れない。


「余裕じゃねーか! 面白い事を言えるんだもんな! よし、試合と同じ一ラウンド三分計るからその間全力で蹴れよ! 手ぇ抜くんじゃねーぞ!」


 麗衣はストップウォッチを取り出してきた。


「いくぞーよーいスタート!」


              ◇


 厚鹿文はこの後一分間のインターバルを挟みながら、計五ラウンドひたすら左ミドルでサンドバッグを蹴らされた。

 息も絶え絶えの様子で厚鹿文は地面に伸びていた。


「おースゲーじゃん。いきなり五ラウンドも立派立派」


「お……おう。こんなのは如何ってことねーよ」


「そうか。平気そうだから、インターバル終わったら、あたしが右ミドルの手本見せてやるよ。お前なら最低限の説明で良いよな? 右ミドルも五ラウンドやるからな。まだ珍走ぶっ倒せそうな蹴りは一発も見てねぇから期待してるぜ」


「……」


 厚鹿文は強がりを言う気力も無くしていた。


              ◇


 18時15分。

 厚鹿文達は入門クラスが始まる前に『急に用事が出来た』との事で帰ってしまった。


「ははははっ! アイツの脚、真っ赤な斑点だらけだっただろ? 明日には黒い痣に変色するぜ?」


 サンドバッグが固いとは聞いていたけれど、そこまで固いとは想像していなかった。

 厚鹿文は固いサンドバッグを計三十分間も蹴らされていたのだ。

 最後の方は半泣き状態でガードも下がりまくりで只当てているだけというありさまだった。


「麗衣……わざとちゃんと教えなかっただろ?」


「だって蹴りに自信あるらしーし、下手に自分のスタイル崩したら良くないじゃん? それに三分三ラウンドじゃ物足りねーだろうから。五ラウンドにしてやったんだよ。優しいだろ? しかし、アイツ笑えるな。あのザマでパンチマシン四百キロだってよぉ?」


「パンチの方は見てないから分からないよね。ただ、本当だとしても動かない的を幾ら強く打ててもねぇ」


「お。流石分かってるじゃん」


 ゲームセンターのパンチマシンなど店の調整によって同じ機種でも数字が大きく異なる場合もあるし、そもそも人を打つことを想定して造られていない。

 沈むタイプのパンチマシンなどボクシング風の正しいパンチよりも覆いかぶさるように打った方が高い数字が出る。

 つまり実戦では全く当たらないようなパンチの方が高い数字が出てしまうのだ。

 稀に助走して高威力を出して喜ぶ輩も居るが、人が相手ならば大人しくその場に突っ立っているはずが無く、格闘技的観点からすれば全く無意味であると言わざるを得ない。


「あーでも俺がサンドバッグ蹴る時間なくなっちゃったなぁ……」


「馬鹿。いきなりサンドバッグ蹴らすようなジムもあるらしいけど、ここだとまずは入門クラスできっちりフォーム覚えてからだよ。初心者にいきなりサンドバッグ蹴らすのは危険なんだよ」


「……厚鹿文は良いんだ」


「……まぁ、あのナンパ野郎は武の事をサンドバッグって言いやがったからな。正直ムカついてよぉ。だからって事を教えてやったんだよ」


「え……そうだったの?」


 麗衣が俺の為に怒ってくれていたのか?

 麗衣の優しい性格は知っていたけれど、まさか怒ってまでくれるとは想像していなかった。


「あっ……あたりめーだろ! 武は見習いとは言え『麗』のメンバーなんだからよ」


 麗衣が少し慌て気味に言う背後に、黒い影が近づいていた。


「カレシとの会話中に御免ねぇ~。麗衣ちゃーん? 私の記憶に違いじゃなければ、さっきサンドバッグが物凄い音を立てていたわねぇ?」


 がしりと麗衣の両肩を掴んだ妃美さんは黒い笑顔で麗衣に声をかけた。


「いや……その……中々見どころのある新人でして、いきなりスゲー蹴り打ってたんですよ。あははははっ……」


「へぇ……それはそれで初心者にいきなりサンドバッグ蹴らせたのね? ふーん……」


 麗衣は青褪めた顔で脂汗を流しながら、ぎこちない動作で妃美さんの方を振り返っていた。



              ◇


 実は今回が小説を書くと決めた時に一番書きたいと思っていたシーンでした。

 サンドバッグがあだ名の武ですが、本物のサンドバッグは蹴る脚も痛い。

 武もサンドバッグのように蹴ってきた相手に痛い思いをさせるぐらい強くなれとの意味を込めて書きました。

 ただ、今回は演出の為に取り入れましたが、当方スタンディングサンドバッグは蹴ったこと無いんですよね……吊るすタイプと同じぐらいの硬さじゃなかったらどうしよう(滝)

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