第34話 何時の間にか俺の名前が下僕武になっていた件

 ジムの中は水色の床マットが一面に敷き詰められ、四方を鏡で覆われている。

 その鏡を見ながらシャドーを行う者、吊り下げられたサンドバッグを蹴る者、ベンチプレスで筋力トレーニングを行う者等が汗を流している。

 さっき妃美さんが『プロの練習時間』と言っていたが、全員選手なのだろうか?

 明らかに動きや肉付きが素人とは違っていた。


「じゃあ無料体験の話を始めるね」


 妃美さんは説明を始めてくれた。


「まず、開始時間だけれど、今は選手の練習時間だから無料体験対象の入門クラス開始の18時半までまだ時間があるんだよね」


 今は17時半弱。開始まで時間は1時間以上ある。


「まぁ、麗衣ちゃんが選手の練習時間に来るから癖で早めに来ちゃったのかと思うんだけれど、ちょっと気が早かったかなー」


「え? 麗衣って選手なのですか?」


 それは初めて聞かされる話だった。


「麗衣ちゃんは、15歳だからまだプロテスト受けられる資格無いんだけれど、アマチュア大会で優勝しているのよ。しかも、ピン級(-46キロ)とミニフライ級(-48キロ)の両方でね。今アマチュアのミニフライ級ランキング1位だけれど王座が空位だから事実上のチャンピオンみたいなものね」


 成程。それならば暴走族相手にも負けない訳だ。

 アマチュアとは言え二階級優勝ならプロでも十分通用するレベルではないのだろうか?


「へぇ……それは凄い」


「全然凄くねーよ。アマチュアのキックボクシングなんて選手層薄いんだからよぉ。試合成り立たせるために他団体の選手招いても何時も似たようなメンバーだし、少し強いとすぐプロ入りするし……。アマチュア女子ボクシング全日本アンダージュニア優勝の勝子とは比較にならねーよ」


 麗衣はそう謙遜したが、事実ではある。

 確かに、ボクシングのトップアマは三ラウンド限定であればプロ以上にレベルが高く、プロの世界王者以上の実力の選手も居るが、キックボクシングのトップアマがプロのキックボクシングやムエタイの王者に勝てるかと言うと全く想像がつかない。

 勝子は全日本アンダージュニアという下のカテゴリではあるが、将来のオリンピック代表候補の一人として目されていてもおかしくない。


「でも麗衣ちゃんならプロになっても活躍できるよ。最後の昇級審査受けた後、16歳になったらプロテスト受ける気は無いの?」


「あたしは強くなりたいですけど、別にプロ目指してないですから。次の昇級審査受かればプロテスト受ける資格が出来るけど、それよりかトレーナーになる資格が欲しいんですよね」


 このジムが所属する団体には空手と似た昇級審査がある。

 打撃や防御の技術、体力などをテストし、合格すると次の段階のクラスへの練習参加や、試合の出場が認められるようになる。

 例えば最初の昇級審査に合格すると、アマチュア大会出場を目指すクラスである中級クラスへの参加が可能になり、更に昇級審査に合格すると上のレベルのアマチュアの大会やプロ選手を目指す会員向けのマススパーリングクラスへの参加が可能になる。

 その後、アマチュア大会への参加資格を得られる級を経て、最後の昇級審査でプロテストの受験資格とトレーナーの資格を得られる。

 会員にとっては良い目標となるし、試合に出場できるレベルにあるか、ある程度客観的な指標にもなるだろう。


「ハァ……勝子ちゃんもそうだけど、金の卵二人が勿体ないよね」


 確かに勝子なら間違いなくトップ選手になるだろうし、麗衣の方は見映えも良いし、あのキックは観客に強烈なインパクトを与えるだろし、人気もでそうなものだ。

 でも、麗衣はそれ以上この話はしたくないのか?

 脱線した話を元に戻すように促した。


「取り合えずその話は良いんで、武に予定の説明続けてくださいよ」


「あっ、ごめんなさい! で、入門クラス開始までの空きの時間の話だったよね?」


「はい。そうです」


「実はね。他にも高校生の子が無料体験で三人来ているの。あそこのサンドバッグの前でストレッチしているでしょ?」


 妃美さんが指をさした先に三人の同世代と思しき男子達がストレッチを行っていた。


「本当はね、入門クラスが開始する前の時間に来て欲しかったんだけど、高校生って社会人よりも授業終わるのが早いだろうし、一時間も待たせるのは可哀そうだから、少しやって貰おうと思って。でも今は手が足りなくてね……それでね、トレーナーを目指している麗衣ちゃんにお願いだけど、まず小碓君のストレッチをやって、その後、小碓君とあの子達に軽くフォームの説明してあげてくれない?」


「え? やっぱりあたしもやって良いんですか?」


 麗衣は期待を込めて瞳をキラキラと輝かせていた。


「駄目よ。お手本のフォームを軽くやって見せるだけよ。全力でシャドーしちゃ駄目だし、サンドバッグ蹴るなんて論外よ?」


「へーい……わかりましたよぉ……」


 麗衣はすぐに死んだ魚の様な目に変わった。



              ◇



 俺は今、ペアストレッチで前屈をやっている。

 麗衣は自分の練習が禁止されている為に不機嫌の女王となり、以前屋上でパンチの打ち方を優しく丁寧に教えてくれた時とは全く別人の様相を呈していた。


「オラオラァ! 下僕武! もっと身体を柔らかくしねーと打撃喰らった時ダメージ緩和できなくて死ぬぞおっ!」


 俺の名前は何時の間にか妙に語呂が良い下僕武になっていた。

 情けない事に身体が固い為、足先まで指が届かないので麗衣が俺の肩に手を当てて強く押してきた。


「痛たたたっ……痛い! 痛いよ麗衣!」


 脚裏と腰が早くも悲鳴を上げているが、麗衣は一切の情け容赦なく体重をかけてきた。


 むにゅ♪


 結局ジャージに着替えた麗衣の年齢にしては質量がある起伏が俺の背を圧迫するが、この状況では率直に喜ぶ事が出来ない。


「オラオラァっ! このムッツリ野郎っ! あたしの胸に触れたくてワザと体曲げねーんか? ああっ! そうだろ!」


 麗衣は胸を放すどころか、ますますグイグイと身体ごと体重をかけて押し付けてくる。

 前屈さえしてなければ極楽だが、この状況では只の地獄だ。


「それともテメーの童貞息子が固くなって、つっかえ棒になってその姿勢支えているのか! 吐け! 正直に白状しやがれぇ!」


 一体どうしたらこんな下品な発想できるんだよ?

 ホンのたまに見せるシャイで可愛い麗衣は何処へ行った?

 いい加減にキャラが極端にぶれるの止めてくれ!

 というか、何でも良いからこの体勢から解放してくれぇえええええ!


「あれー? もしかして、お前等、美夜受と小碓じゃねーの?」


 俺が心の中で激しく絶叫をしていると、何処かで聞いた事があるような無いような声が俺達に声をかけてきた。

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