第32話 ジム初体験挨拶は「たのもー! このジムで一番強い奴は出てこいや!」*危険なので絶対しないでください

 俺は麗衣に連れられ、八皇寺駅南口より五分程の国道沿いにあるビル一階の前に来ていた。

 高々とハイキックの姿勢で映る女性の写真を乗せた赤い看板が目印となり、遠目に見てもそこが格闘技のジムであるという存在感を放っていた。

 入口の看板に「入門クラス体験無料」などと書かれている。


 麗衣との約束で『麗』のメンバーとして認められる条件は麗衣の通うジムで昇級審査を受け、合格する事だった。

 だが、いきなりジムに入るのではなく、まずは見学を兼ねて無料体験をしてみてはどうだろうかと勧められた。

 確かにいきなり入会してついていけない場合、高い入会金と月謝が無駄になってしまう。だからジム側としても恐らく後々のトラブルにならないように無料体験を行うのは理にかなっているのだろう。

 だが、麗衣と一緒に居る為なら無料体験をしようがしまいがジムに入る決意は変わらないが。


 とはいえ、キックボクシングのジムに来るのは初めてで流石に緊張する。

 いきなりスパーリングなどをする訳では無いとは聞かされているけれど、怖い人ばかり集まるというイメージがあるのだが。


「ねぇ麗衣。やっぱり俺なんか居たら場違いじゃないか? 何となくヤンキーが多いイメージあるし」


 ここ数日の平和で封印されていた苛められっ子の卑屈精神が再び首をもたげはじめた。


「大丈夫。多分ボクシングなんかよりヤンキー率低いと思うぞ。ボクシングジム行ったことないけど」


 ヤンキー女は自分を棚に上げ、何の説得力も無い事を言っていた。


「場所とか団体とかによるんだろうけど、の系列のジムは空手みたいに集団で練習するし、実力で参加クラス別けられるからな。入門クラスとか初級クラスなら比較的大人しい一般人パンピーが多いと思うぞ?」


 どうだろう。

 俺の感覚では不良の棟田も麗衣から言わせると一般人パンピーだろうし。

 あくまでも麗衣個人の感覚なのでアテにならならなそう。


「まぁナイフ振り回した珍走の親玉ぶん殴っていた奴が今更何言っているんだって事だよ。少なくても使奴でも武以上に勇気がある奴なんて数人しか居ねぇよ。もっと自信を持てよ」


 麗衣はポンポンと俺の肩を叩き、俺の背中を押し、出入り口の扉の前に立たせた。


「あと守って欲しいのは、初めての奴が入る時の挨拶は必ず『たのもー!』で。次の一言は『このジムで一番強い奴は出てこいや!』って言うのが礼儀だからな?」


「……道場破りなんかやったら二秒で殺される自信があるぞ?」


 溜息をついて、俺が扉を開けると


「たのもー! このジムで一番強い奴は出てこいや!」


 俺は慌てて振り返ると、俺の背を壁にして麗衣は隠れてしまった。


「ばっ……馬鹿! 洒落にならないだろ!」


 俺が恐る恐るジムの中を覗くと。


「ほぉ。道場破りとは良い度胸だね! 丁度今はプロ選手の練習時間だし、皆試合前の減量でイライラしているからね。たっぷり可愛がってあげようじゃないか!」


 20歳ぐらいの長身の女性が草食獣を目の前にした肉食獣のような表情で笑みを浮かべていた。

 俺より10センチは身長が高い。170センチはあるだろうか?

 ショートモブで茶髪。グレーのトップス、黒いレギンス姿の目鼻立が整った女性は仁王立ちをして俺を見下ろした。


「ひいっ! ごめんなさい! どうか命ばかりはお助けを!」


 俺は気を付けの姿勢から両膝を付き、大きく仰いだ両手を前に、頭を床マットに擦り付けた。


「あはははっ。土下座なんて初めてみたよ! しかもこんな綺麗な土下座! ……って麗衣ちゃん。駄目だよぉ? カレシを怖がらせちゃ?」


「ちわーす。妃美ひみさん。ひさしぶりっす!」


 振り向くと麗衣は片手をあげて気安く女性に挨拶をした。


「まぁ、三日間も休んだ事ないから久しぶりって事になるかな? 全く……怪我したって聞いたけど鼻の骨折が一番酷くて全治三週間だっけ? どーせまた男の不良とでも喧嘩したんでしょ?」


「いやぁ~グリーンボーイのクソ雑魚ですけどぉ~プロボクサーとスパーリングする機会がありまして、ちょっと舐めてかかったらボコボコにされちゃったんですよぉ~まぁその後ボコボコにしちゃいましたけどねぇ♪」


 スパーリングという言葉以外はほぼ事実だが、相手が男子で暴走族であるという事は隠して言った。

 この女性も信じていないのか? 麗衣を胡散臭そうに見つめながら言った。


「ふ~ん……。女子相手ならプロボクサーとは言え麗衣ちゃんがこんなにボコボコにされるかしらね? それとも相手って、もしかして勝子ちゃんじゃないよね?」


「いえ、勝子相手なら当分病院のベッドの上から動けませんので」


「え? 勝子の事はご存じなのですか?」


 俺は少し驚いて床に擦り付けた頭を少し上げた。


「はははっ! 君何時までその格好してるの! 麗衣ちゃんのカレシ面白い!」


は彼氏じゃねーすよ。ほぼ初会話の時に突然服脱がされて視姦された経験ならありますけどぉ?」


 ご主人様。

 土下座で許されるなら何回でもしますので、頼むから俺を人に紹介する度にそれを言わないでください。


「ウッソー。そんな事をしたら彼生きていないでしょ?」


「あれは完全に不可抗力だし、その後麗衣にボコられて本当に死ぬかとおもいましたけれどね……それよりか何で勝子の事をご存じで?」


「……まずは土下座の姿勢止めてね。さっきの冗談だから、というかアレ麗衣ちゃんがジムに来ると毎回同じ事言うから、挨拶みたいなものね」


「あ……そうでしたか」


 どんな挨拶なんだよ……こっちは危うく心臓とまるところだったのに。

 俺はようやく土下座を止め、立ち上がると女性はまずは自己紹介を始めた。


「驚かせてゴメンね。私は大和妃美やまとひみよ。ここのジムのトレーナーの娘で、こう見えてプロのキックボクサーなのよ? 宜しくね♪ で、君が麗衣ちゃんから聞いていた無料体験希望者の小碓君だね?」


 プロのキックボクサーと聞いて、俺は少し緊張しながら答えた。


「はっ……はい。小碓武です! 今日はよろしくお願いします!」


「ふふふっ……可愛いわね。妃美で良いわよ♪」


 妃美さんは悪戯っぽくウィンクをした。


「え?」


 可愛いだなどと生まれて初めて言われ、どぎまぎした。

 そんな俺を麗衣は肘で強くつついた。


「ターコ。からかわれているだけだよ。勘違いするなよ? ……ったくこのクソ童貞はつくづく女に免疫がねーよなぁ?」


 不機嫌そうにそっぽを向きながら悪態をつく麗衣に対して、返す言葉も無い。


「うふふふ。本当にかわいいのにねぇ? あれ? 麗衣ちゃん何か機嫌悪くなーい?」


「……そんなこと無いっすよ。てかキモヲタ童貞の武なんぞに手を出さなくても妃美さんにはイケメンのプロボクサーのカレシが居るじゃないすか?」


 そうですか。

 本当にからかわれていただけなんすね。

 別にちょっとだけ期待しちゃった訳じゃないすよ。

 アハハハハ


「いや、カレがね? 試しにちょっとローキック打ってみな? って言うからローキック打ったら、その日立ち上がれなくなってさー、それで別れるって言い出したんだぁ。逆ギレだよねー。こんな酷い奴居ないよね?」


 アハハハハ

 男子ボクサーを手玉に取るこの人達って何なの?

 俺の心の中で乾いた笑いが止まらなかった。

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