第29話 倉庫内でヤンキー女と二人きりで口を押さえつけられ押し倒される俺

 俺と麗衣は公園隣の野球場に走って入ると、野球倉庫と思しきプレハブの建物を見つけた。


「あそこだな。急げ!」


 まだ俺達は警察が追いかけてこない事を確認しながら、野球倉庫の扉の前に来た。

 姫野先輩に渡されたバッドのキーホルダー付きの鍵で出入り口の鍵を開くと、俺達はすぐさま中に入った。


「狭っ! 埃臭っ!」


 麗衣が愚痴をこぼすのも仕方が無かった。

 中は四畳の広さも無いだろうか?

 その中を幾つものバッグや練習用のユニフォームやヘルメット、キャッチャー用のプロテクターが置かれた棚や網の入った籠、トンボやライン引き等の道具が散乱している。

 少年野球チームのクラブが使用しているとの事だが、監督が放任主義なのか?

 全く整理されている気配が無かった。


「Oh my god! 遥か高きNPBの頂きを目指す志高き少年達よ! せめてユニフォームぐらい持って帰ろうぜ……」


 麗衣はカビが生えて放置されているユニフォームを見てげんなりとしていた。

 こんなところに入るのは気が引けるが、とにかく警察から逃れる為に中へ入らざるを得ない。

 俺は扉の鍵を閉めた。


「うーん……中からだと外の様子が全然分からないな」


 野球倉庫内部に窓は無く、出入り口の扉の網硝子あみガラスからでは外部の様子を伺い知る事は出来ない。


「まぁ……姫野の連絡を待つしかねーよな。ところで、いつの間に武さぁ、あたしの帽子被ってんな?」


 片手が塞がる為、乱戦前に被っていた麗衣の帽子を被ったままである事を今更ながら思い出した。


「あっ、これは喧嘩で片手が塞がるから持っていられなくて……御免。俺なんかが被っていたら汚いと思うよね?」


 慌てて、俺は帽子を取ったが、そのまま返していいか躊躇した。


「ベースボールキャップってどう手入れすればいいんだろう……洗って返せばいいかな?」


「バッカ! きたねーなんて思ってねーよ」


 麗衣は俺の手から帽子を取ると、自分の頭に被せた。


「あの喧嘩の中じゃ、無くしてもおかしくねーのに、落とさないでくれて、ありがとうな」


 麗衣は優しく微笑んだ。

 傷だらけでも妖しい魅力を感じるその微笑みに俺の心臓は高鳴りを抑えるのが困難だった。

 だが、その後に続いた会話には色気など微塵も感じさせない内容だが、意外な言葉に別の意味で驚いた。


「しっかしよぉ……武って、結構つぇーよな」


「え? 俺が?」


 思いもよらぬ事を言われ、俺は首を傾げた。


「いや、今日ジャブとストレートの打ち方教えたばかりだろ? それなのに雑魚とは言え棟田ぶちのめしたし、チキンナイフ野郎の刃物ヤッパにもビビらないでパンチぶちかましていたじゃん? あんな事、とても一般人パンピーにはできねーよ」


「あれは……麗衣に棟田との喧嘩の仕方を教えてもらっていたし、赤銅葛磨あかがねかずまは結構姫野先輩にやられていたし、大体どんな風にナイフを振るか分かっていたから」


 両方とも事前に情報があったから対処できたに過ぎない。

 こんな事で俺が強いなんて勘違いするべきではない。


「いや、分かっていても出来るものじゃないんだぜ。何で出来ないと思う?」


「……恐怖……かな?」


「そう。幾ら分かっていても恐怖で頭が真っ白になる事もあるだろうし、逆に余計な事を考えたりしてかえって動けなくなったりするものだけど、さっきの武にはそんな様子は全然なかった」


「よく分からないな……只、必死だっただけかも」


「あたしら使人間は肉体だけじゃなくて、その恐怖に負けない為に日々鍛錬を積み重ねている訳だけど……なんで今日パンチ覚えたばかりの武に素手でナイフに立ち向かうような度胸があるのか、不思議に思ってな」


 確かに。苛めに脅え、自殺までしようとしていた昨日までの俺なら今日の俺のこの姿は想像できなかっただろう。

 昨日まで、いや、と今の俺の違うものは一つしかない。


「多分、麗衣のおかげだと思う。俺はあいつらと戦う勇気が出来たんだよ」


 俺は麗衣の瞳をまっすぐ見つめた。


「ありがとう麗衣。死なない勇気を……暴力に負けない勇気を……好きな人を守りたい勇気を……君がくれたんだ。君には感謝をしている」


「……えっ! ……えっ! ……えっ!」


 麗衣は湯気が噴き出すのではないかと思える程顔を真っ赤にして困惑した表情を浮かべている。

 そして顔を横に逸らし、懸命に言葉を紡ぎだそうとした。


「……げっ……げぼ……下僕のくせによぉ……何いっちょまえの口を聞いてるんだよ? ……それによぉ、あたし今顔ボコボコだろ? このまま傷治んなくて一生ヒデー顔のまんまかもしれないし、あたしなんか止めとけ! 悪い事はいわねーから……なっ!」


「いや、麗衣は綺麗だよ。こんな事女子に言う言葉じゃないかもしれないけれど、怪我していても格好良いし」


「んなワケあるか! 目の錯覚だ! 夜だから傷が見えにくいだけだ! とにかく、まだ知り合って二日だ! 幾らなんでもなんて言うには気が早すぎるぞ! ドン引きすっぞ!」


「あ……」


 俺は率直に感謝の念を述べたつもりが、無意識のうちに告白みたいになっていた事に気付いた。


「それはその……むぐっ!」


 俺が思わず誤魔化そうとすると、麗衣は不意に俺の口を塞ぎ、そのまま強い力で押し倒し、身体を乗せてきた。


「???」


 麗衣を怒らせてしまったのか?

 それとも、これってもしかして逆ナントカというヤツかと妄想したが、そんな男子本位なエロ漫画的な展開を望める程現実は甘くなかった。


「しっ! 網硝子あみガラスより下に屈め」


 麗衣は左手で俺の口を塞いだまま右手人差し指を唇の前に立て、小声で警告した。

 俺はすぐさま麗衣の行動の理由を理解した。


 ザっ……ザッ……


 足音とともに大人の男性のような大きな声が近づいてくる。


「野球場に逃げた奴が居るって本当か?」


「ええ。なんか男女っぽいのがこっちに逃げたのを見かけたんですけど……」


「でも隠れるところなんて殆どないよな? ベンチも野外だし」


「後は隠れるとしたら、ここですかね?」


 どうやら警官がこの野球倉庫の近くまで来ているらしい。

 外から扉の網硝子越しに懐中電灯の光が射し込む。

 麗衣は光が当たらぬように、押し倒した俺の体に柔らかい起伏を押し付けながら息を潜めていた。

 しっとりと汗で濡れた薄いスポーツブラ越しの麗衣の体温が伝わり、俺の鼓動の高鳴りが麗衣に悟られていないか不安になったが、幸い麗衣は警官の会話に気を取られ、それどころでは無い様子だった。


「中に居るか?」


 警官は野球倉庫の扉の前へ来ているのか?

 足音が止まり、代わりに扉越しに大きな声が響いた。


「おい! 中に居るなら大人しく出てこい!」


 俺の口を塞ぐ麗衣の掌の力が一層強まる。

 倉庫内から反応が無い為か?

 警官は扉の取っ手を掴んで開こうとしているのか、扉がガタガタと音が鳴り響いた。


「開かないな……。この中に隠れた訳じゃないのか?」


「鍵が無きゃ入れないだろうから、この中には居ないんじゃないですかね?」


「そうだな……。鍵を持っているとも思えないし、鍵を破壊した痕跡も無い。周りに窓が無いから窓を破壊して入ったりも出来ないもんな……」


「そっちはどーですかー」


 倉庫の前の二人とは違う男の声が少し離れた場所から聞こえてきた。


「ああ、どうやらこっちには来ていないか、既に逃げたようだな。暴走族マルソウは何人確保したか?」


「はい。鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードの総長・赤銅葛磨あかがねかずま及び親衛隊長の赤銅鍾磨あかがねりょうま、他メンバー七名。後は見物していて乱闘に巻き込まれたと思しき学生一人の身柄を確保しました」


 その学生って多分、棟田の事だよな? まぁどうでも良いが。


「只、中には重症の者も居て、特に赤銅兄弟は負傷が著しく、すぐに救急車で搬送させました」


「分かった。ならばパトカーに戻れ。確保した暴走族マルソウを署に連行するぞ……」


 幸い野球倉庫の中まで踏み入る事は無く、警官の声は遠ざかって行った。



              ◇



「はぁ……心臓が止まるかと思ったぜ」


 いや、こっちの心臓は逆に高鳴っていたのだが。

 それはとにかく、警官達の声が完全に聞こえなくなった頃に、ようやく俺の口から手を放し、密着していた身体を放した麗衣は疲れた様に座り込んだ。


「後はサイレン鳴らし出したらパトカーが居なくなるだろうけど、その後、姫野に連絡を取って大丈夫そうならここから出るぞ」


「あっ。うん。分かった」


 さっきの話は有耶無耶うやむやにしてくれるかな?

 暫く二人の間に気まずい沈黙が流れる。

 しかし、それは長くは続かなかった。

 麗衣も年頃の女子であるし、やはり確認せずにはいられなかった様だ。


「あっ……あのさぁ……さっきの話だけどよぉ……」


「えっと……何だっけ?」


 俺はワザととぼけてみせるが、麗衣は追及を止めない。


「その……さっきの好きってのは……あっ、……アレだよな。友達として好きとか、好きな友達を守りたいとかそういう意味だよな?」


「あ、うん。そ……そういうつもりで言っていた」


 うっかり漏れた本心とは言え、流石に前のめりすぎたか。

 幾ら何でも思いを告げるにはまだ早すぎる。

 幸い麗衣も恋愛事には全く疎そうだし、一旦麗衣の話に乗って、気持ちを隠した方が良さそうなので誤魔化す事にした。


「そっ……そうだよな~。タイマン中にDV野郎がよぉ、武があたしの事惚れているからチキンナイフ野郎とタイマンしようとしてたなんてフカシこきやがるから、妙に意識しちまったんだよ……うん、そうだな。あのDV野郎が悪いんだ。アイツのせいだ。同じ学校だし、今度見つけたらまたシバいてやるよ」


「いや、勝子の事を心底怯えているみたいだから下手したら学校来ないかも……」


「んだよ、それも面白くねーな。今度はボクシングだけでリベンジするつもりなのによぉ」


 ムエタイを使えば麗衣の楽勝だろうけど、流石にボクシングだけでは敵わないだろう。

 とにかく麗衣の闘争心のおかげで話題が反れてくれた。


「でもよぉ。今回みたいな事は二度と勘弁してくれよ?」


「今回みたいな事って?」


 やっぱり告白の事か?

 また話題が戻るのか?


「チキンナイフ野郎に一人でタイマン挑もうとしていた事だよ!」


 ああ、そっちか。


「いや、勝算はあったんだよ。タイマンで勝つって意味じゃなくて、鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードを潰すつもりだった」


「……」


 これが俗に言う『じと目』というのだろうか?

 麗衣は無言で胡散臭そうな目をして、じーっと俺を見ている。

 そりゃそうだよな。


「まぁ、計画は最初から狂っていたし、あの状況じゃ俺が都合よくコントロールなんて出来る訳無かったよな」


 しかし、結果論であるが俺達がこのまま逮捕さえされなければ良い状況であるのかもしれない。

 鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロードのメンバーで身柄を確保された何人かは逮捕を免れないだろうし、幹部全員が敗北した事は暴走族としては致命的であろう。

 総力戦が唯一、鮮血塗之赤道ブラッディ・レッド・ロード側の勝機であったが、警察の登場によりその機会も阻まれた。

 もしかすると、警察が現れたのはに協力してくれる予定だったが自分で判断して動いたのか?

 無論、騒ぎを聞きつけた住民の通報だった可能性も高いが、麗側にとってはあまりにも絶妙のタイミングだったのが気になる。


「まぁ……その事は今度じっくり聞くわぁ……ちょっと喋り過ぎて切った唇がいてーかも」


「あっ! 止まっていた血がまた流れているよ! ワセリンを預かっているけど、塗る?」


 俺は姫野先輩から預かっていたワセリンを麗衣に見せた。


「そうだなぁ……自分じゃよく分からない箇所もあるから武が塗ってくれねーか?」


「え? 俺が?」


「うーん……やっぱりボコられた女のヒデー顔触れるのは抵抗あるよな。わりぃな。変な事頼んで」


 麗衣はどうやら自分の顔が余程酷い有様だと思い込んでいるようだ。


「いや、そういう訳じゃないけど……分かった。俺がやるよ」


「……わりぃ。頼んだ」


 俺は丸いワセリンのケースを開き、麗衣の顔に塗りだした。

 出血が多い唇の傷を重点的に厚くワセリンを塗る。

 事情を知らぬものがこの光景を見たら、指先でリップクリームでも塗っているように見えてしまうだろう。

 麗衣の闇中でも艶やかに輝く薄い桃色の唇の感触に心に様々なさざ波が立つ。


 麗衣の美しい顔を傷つけた亮磨への怒り、麗衣への愛おしい気持ち。こんな事態にしてしまった俺の無力さへの怒り――


 様々な感情が俺をかき乱す。

 警察から身を潜めている今のような状況でなければ俺は麗衣を抱きしめて泣き出していたかも知れない。

 でも、今はそんな場合じゃないと気を強く保つ事を意識した。

 続いて亮磨の頭突きで少し腫れた麗衣の瞼にワセリンを塗る。

 ワセリンを塗る為に閉じられた二重にかかる睫毛は長い。

 痣が出来た頬にワセリンを塗る。

 赤ちゃんのように柔らかい。いや、赤ちゃんなんか触った事が無いから想像だけど……。

 ワセリンを指に付けているからよく分からないけれど、多分スベスベなんだろうな。

 考えてみたら治療の為とはいえ、女子の頬を触るのって生まれて初めてだよな。


 そんな事を考えていると、パトカーが再びサイレンを鳴らし出した。


「おっ……やっとお帰りかな? さっき来てた警察サツの話を聞いた限りじゃ姫野達は捕まっていないはずだけど……一応メール送って確認するか」


 麗衣はスマホをポケットから取り出しメールを打ち始めた。

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