第3話 九死に一生を得ず

 ……あれ? 痛みを感じない?

 飛び降り自殺など経験が無いから知らなくてあたりまえだが、少なくても地面に叩きつけられた瞬間、凄まじい痛みを感じるのではないか?

 あるいは痛みを感じる前に絶命し、既にあの世に来てしまったのか?

 苦しまずに済んで良かったなどと一瞬考えたが、それは的外れな思い込みであった。

 現状を確認するため、目を開くと、しっとりと艶やかに潤み、柔らかそうな桃色の唇が触れる寸前だった。


「なっ!」


 だが、それは異性に飢えた男子の白昼夢や夜の妄想では無いし、ましてやリア充カップルの甘い一時とも程遠かった。

 いくら今密接している美夜受麗衣みやずれいいが不良独特の妖艶さを兼ねた美少女であるからと言って、空中で両足が地につかずブラブラと振り子状態で甘美な幻想を抱く程の強心臓など持ちうるはずもない。

 現実感に引き戻された俺は恐怖の為か? 意識せず美夜受の体に腕を廻し、必死に抱き着いていた。

 女子の体にしがみ付くなんて傍から見れば情けないだろうが、こうなってしまった以上、恥も外聞もない。

 つい先程までの決意など忘れ、俺は死を恐怖していた。自殺なんて本当はしたくなかったのか?

 今更そんな後悔で葛藤する俺の思考を断ち切る様に、目前の美しい唇から強い声が浴びせられた。


「オイ! しっかり掴まってろよ!」


 美夜受は形の良い褐色の顎を上に向ける。俺も彼女の視線の先を追うと美夜受は3階の教室からはためいていたカーテンに掴まり、校舎の壁に片足をついていた。


「両手使うからさ……しっかりあたしに抱き着いていな!」


 これってアクション映画ならば男女逆のシチュエーションじゃないか?

 それはとにかく、落下中カーテンに掴まり、落ちずに済んだのか。

 下から吹き上げる強風に煽られたカーテンは掴みやすかったようだ。

 俺の鈍い頭でもようやく現状を理解したが、理性が少しでも戻ったおかげで新たな不安が芽生えを抑える事が出来なくなった。

 たしか、カーテン自体は結構丈夫だけれど、カーテンレールの方はせいぜい10キロ程度しか耐えられないはずでは?

 美夜受の体重は解らないけれど、55キロの俺と二人の体重なら少なくても100キロ近くになるのでは?


 その事を伝えようとすると、話をする前に美夜受は俺を抱きかかえていた右腕を離し、カーテンに手を伸ばした。


「うわぁあああああっ!」


 美夜受が両手でカーテンを掴み、俺から腕が離れたため、腰を抱きしめていた俺の腕が滑り、俺の顔は美夜受の年齢にしては豊かな起伏上を滑り落ちる。

 俺も美夜受の首でも抱きしめていれば落ちなかったろうが、気付くのが遅かった。

 そのまま落下してしまうところだったが、咄嗟に手を伸ばし、辛うじて美夜受のベルトに掴まり、落下を免れた。


「な……何しやがんだこの変態!」


 見上げると美夜受は顔を真っ赤にして怒りの表情を浮かべていた。

 俺の顔が滑った為か、美夜受のワイシャツの第2、第3ボタンが次々と勢いよく弾け飛び、黒い下着がはだけていた。


「ご……ごめ……わあああっ!」


 更にベルトを掴んでいるせいか、スカートまで脱げかけた。


「テメェ……ぶち殺す! てか、落ちろ!」


 美夜受は本気なのか? 脚を振って俺を落とそうとした。

 そもそも、一緒に死ぬと言って無理やり心中しようとしたのは美夜受じゃないか?

 理不尽な要求に抗議しようと思ったが、今はそれどころではなかった。


 案の定、無情にもカーテンレールはバキボキと悲鳴を上げ始めた。


「ちょっ……それどころじゃ! 落ちる!」


 早く窓を開いて教室に入れば良いのに、何故カーテンにぶら下がったままなのか?

 一緒に飛び降りた真意は掴みかねるが、カーテンに掴まったという事は少なくても生きて助かろうとは思っているはずだ。

 仮にカーテンレールの耐久性を知らないとしても、音から現状に気付かぬ訳がないのに何故早く教室に入ろうとしないのだろうか?

 ただ、流石に危機感を抱いたのか? 美夜受は脚をばたつかせるのを止め、俺に問いかけた。


「テメー本当は死ぬのが怖いのか! 答えろ!」


 美夜受は切羽詰まった表情で俺を見下ろして叫んだ。


「ああっ! 怖いよ!」


「じゃあ、まだ生きてーか!」


「ああ……まだ生きたいよ!」


 こんな目に合ってようやく気付いた。

 誰かに苦しさを伝えたくて自殺するなんて言ったけれど、本当に死ぬ気は無かったのだと。

 美夜受は俺と目を合わせると、こんな危機的な状況にも関わらず、唇の端が少し上がっていた。


「じゃあ一緒に死んで……生き返らせてやるよ……来い! 姫野!」


 美夜受の声に呼応するかのように、下からクラクションの音が聞こえたような気がするが、それどころではない。

 耐久力の限界を超えたカーテンレールが完全に破損し、再び落下が始まった。


 俺の人生は今度こそ終わった。

 だが、意識を失う事を美夜受の凛とした声が遮り、先程のように記憶がフラッシュバックする事は無かった。


「歯ぁ食いしばれ!」


 声につられ咄嗟に目をつぶり、歯を食いしばり衝撃に備えた。

 そして地面にぶつかり、体が中に沈むような衝撃を襲った。

 ……だが、それはアスファルトにしては余りにも柔い、高跳びの時に使うマットに落ちた時のような衝撃だった。

 いや、それは比喩ではなかった。

 目を開けると体を叩きつけられたのはアスファルトではなく、何時の間にか置かれていた軽トラックに積まれたウレタンマットだった。


 棒高跳び用のマットは大体5~6メートル位の高さから落ちる事を想定されている。大体校舎2階ぐらいの高さから落ちても怪我をしないような設計である。

 屋上からの高さから飛び降りたら流石に無事では済まないだろうが、3階の高さからなら、2つ折り用のマットを折りたたみ、2重の状態にすれば耐えられるかもしれない。

 しかも、このマットは軽トラックの荷台に置かれ、地面より少し高い位置にあり、車体とタイヤもクッションの役割を果たした。


 俺達二人の体は反動で大きく弾み、マットを乗せた軽トラックの荷台から地面に転げ落ちた。

 俺は無様に鼻の頭を地面にぶつけた。


「つっー……痛ってー……オイ? アンタ……無事か?」


「な……何とか……」


「そっか……予定通り成功して良かった……って。てめぇ! 殺すぞコラ!」


 安堵したかと思えば怒り出す。あまりもの感情の起伏の激しさについていけないところだが、俺は手にした美夜受のスカートを見て、理由を悟らざるを得なかった。

 美夜受を見ると、先程顔が滑り落ちたために肌蹴た胸元以外にも、下半身はスカートが脱げ、黒い下着姿を晒していた。

 どうやら、落ちる直前、引っ張っていたベルトが外れ、麗衣のスカートごと降ろしてしまったらしい。


「いや……その……あのぉ~……これは不可抗力でして……」


 九死に一生を得たと思ったのは間違えで、新たな命の危機が迫っていた。


「こっち見るんじゃねぇ! 本当に死ね!」


 下着姿の美夜受はスクと立ち上がると、次の瞬間、彼女の上履きの底が目に見える光景を遮る。

 ……そして俺の意識はそのまま暗い世界へと飛び立った―

 次に目が覚めた時は本当にあの世に行っているかもしれない……。




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