第2話 東京なんて行きたくない

 三時になった。

 予定通り、高杉たかすぎ日愛野ぴあのがやってきた。キラキラネームだなと思っていたら、案の定60歳ぐらいの人だ。50歳以下で「ぴあの」なんてダサい名前はありえない。

 C民だけあって着ている服は二、三年前に流行ったスタイルだけれど、清潔感のあるこざっぱりとした姿だったので、羅乃はひとまずホッとした。無礼と不潔は羅乃のもっとも嫌うところだ。

「はじめまして、高杉さん」

 勧めた椅子に座った客人に、羅乃は礼儀正しく挨拶した。A+民には、誰に対しても親切で公平な態度を取る義務がある。

「す、すみません。突然押しかけまして……」

「いいえ。今日は予定がなかったのでまったく問題ありません」

 にっこりと微笑みながらも、妙におどおどした高杉の態度を見て、羅乃の胸には嫌な予感がふつふつとわいてきていた。

 元々気が小さい人でもない限り、ここまで萎縮するには理由があるはずだ。

 考えられる理由はひとつ。

 C民の正当な権利行使とはいえ、つい気後れするほど面倒なことを頼もうとしているのだろう。内容が法に触れない限り、どれほど手間暇かかる頼み事でも羅乃に拒否権はない。

 ああ、いっそとんでもない依頼ならいいのに、と羅乃は思った。触法案件であれば、正面切って堂々と断れる。

「お飲み物はなにがよろしいですか? コーヒー? それとも紅茶?」

 心中の葛藤を隠し、つとめて愛想よく尋ねる羅乃に少し気が緩んだのか、高杉は表情を和らげた。

「では、厚かましいですがコーヒーを」

 コーヒーが届くまでの間、二人は極々無難な天気や桜の開花予想の話をしていた。羅乃にしてみれば相手の腹を探る時間だったが、高杉は若干緊張した表情を保ったまま、普通に受け答えをしている。

 もしかしたら私の考えすぎだった? と羅乃が思い始めた頃、ロボがコーヒーを運んできた。

「まあ、なんて素晴らしい香り。もしかして、天然ものですか?」

 高杉は目を輝かせている。

「はい。ハワイのコナコーヒーです」

「なんてこと! 私、コナコーヒーなんて飲んだことがございません!」

「お口にあうようなら、遠慮なくお代わりしてくださいね」

 高杉は目をつぶり、コーヒーの香りを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。訪問目的も忘れ、めったに嗅げない匂いを心から楽しんでいるようだった。そんな様子に、羅乃はおやおやと思いつつも、気持ちはわかるなあなどとぼんやり考えていた。

 C民が天然もののコナコーヒーに当たるなんて、よほどの幸運といえる。たまの幸運は、心ゆくまで楽しむべきだ。

 羅乃は高杉が満足そうにコーヒーをすするのを黙って見ていた。

「……申し訳ありません。私ったら、つい夢中になってしまって」

 30秒ほどで高杉は我を取り戻した。そして、再びおどおどし始めた。

 あ~、こりゃやっぱりややこしいやつだ。

 羅乃は観念した。

「いえいえ、お気になさらず。でも、そろそろお話を伺えますか?」

 丁寧に話を促す。

「はい、実はお願いがありまして……」

 それはわかっている、とツッコミを入れたくなったのをグッとこらえ、羅乃は笑顔を向けることで先を促した。

「大変恐れ入りますが、ある薬を手に入れていただきたいのです」

「薬、ですか」

 頭に警報が鳴り響き始めた。いくらC民でも、一般的な薬ならば権利ポイントさえ使えば国から支給される。それをわざわざA+民に依頼しようというのだから、普通の手段では手に入らないようなものを望んでいるに違いない。

 そして、それは往々にして、ややこしい案件となる。

「はい。新宿歌舞伎町の道修漢薬舗はご存知でしょうか」

 ほーら、来た。

 羅乃は笑顔が引きつるのを感じた。道修漢薬舗は知らないが、新宿歌舞伎町は知っている。あんまり、というか、絶対行きたくない場所のひとつである。

「いえ、存じ上げませんが」

 新宿歌舞伎町に関わるなんてまっぴらごめんだ! 帰れ! と叫び出したいのを必死にこらえ、言葉をひねり出す。

「新宿歌舞伎町のような場所には、あまり縁がありませんので……」

「そうですよね。あなたのような方が行く場所ではないというのは重々承知しております」

 高杉は小刻みに震えながらうつむいた。

「ですが、私どもでもはそもそも行くことすら叶わず……」

 声が湿り始めていた。

 まずい、と羅乃は思った。あと五秒で高杉の目からは涙が溢れるはずだ。

 相手が誰であれ、泣かれるのは苦手だ。他人の涙など見たくない。

 だが、もう遅かった。

「ご存知の通り、私たちC民はYスカ市の外へは出られません」

 そういう言うなり、高杉は脇に置いていたバッグを勢いよく広げ、中からハンカチを取り出したかと思うと、それに顔をうずめて嗚咽をあげはじめた。

「それなのに、孫の病気を癒せる薬は、道修漢薬舗でしか手に入らないのです」

「お孫、さん?」

 感情を抑えることが難しくなってきたのか、高杉は肩を震わせ、しゃくりをあげながら語り始めた。


 十歳になる孫の陽子がドイル症候群を発病したのは三週間前のことです。

 ドイル症候群のことはご存知ですか?

 ええ、その通りです。50年代にイギリスのドイル博士によって発見された免疫疾患です。

 私は無学なもので、詳しいことはよくわからないのですが、特定の遺伝子が異常を起こしたために体内の正常な細胞に攻撃を加えるらしく、孫は発病以来、ずっと発熱と激しい痛みに苦しんでおります。

 あんな小さな体が二十日以上も責め苛まれているのです。しかも、徐々に痛み止めが効きづらくなってきています。間もなく夜も眠れなくなることでしょう。

 お医者様の話では、ドイル症候群に有効な薬物治療も遺伝子治療もないそうです。しかも陽子は特に劇症と呼ばれる部類のもので、普通より進行が早い可能性があるとか。このままだと余命は一ヶ月と言われてしまいました。

 冗談じゃありませんよ! 陽子は大事な大事な孫なんです。医者がなんと言おうと、あと一ヶ月で死なせるわけにはいかない。ただ手をこまねいてはいられないんです。

 それで色々調べましたところ、道修漢薬舗で売っている「通天仁丸」という薬なら痛みと熱が抑えられる、と。

 ええ、ディープ・サーチで見つけた情報ですから、もしかしたら間違いや嘘かもしれません。それでもいいんです。少しでも可能性があるなら。

 けれど、越境権がないC民の私は、新宿歌舞伎町に行くことはできません。ですから、代わりお願いしたいのです。

 どうか、どうか、「通天仁丸」を手に入れて来てください。お願いです。


 一気呵成に話したかと思うと、泣き崩れた高杉を前に、羅乃はがっくりとうなだれていた。一見、同情に堪えない心情を表すポーズに見えるが、実際にはうんざりしていたのだ。

 確かに、A+民である自分は移動の自由が認められている。しかも、新宿ならスピードカーを使えば一時間ほどで着く。しかも、話を聞きながらAIに検索させたところ、道修漢薬舗も通天仁丸も合法だった。薬の対価となる権利ポイントは高杉の家族が出すという。

 要するに、羅乃は「お使い」を頼まれたに過ぎないのだ。

 拒否権を発動する隙は、どこにもなかった。

 だけど、心はリフレインで叫んでいた。

「東京なんて行きたくない!」と。

 私がなんのためにこんな郊外に住んでいると思うのよ。

 東京が嫌いだからに決まってるじゃない。

 まして新宿歌舞伎町なんて!

 不潔と無礼の巣窟であるあの街。考えただけで鳥肌が立ってくる。

 だが……羅乃に高杉の願いを断る選択肢は与えられていない。

 観念するしかなかった。


【続く 次回更新予定4月10日(金)】





 

 

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