ディストピア世界の郊外生活
三浦すずしろ
第1話 お客なんか会いたくない
鶯の鳴き声が聞こえ始めた。
いよいよ春本番だ。
あとひと月もすれば、近くの公園の桜が満開になるだろう。
今年こそ、絶対に花見に行く。
二十一世紀も残り少なくなったこの数年、日本社会は何事もなく春を迎えられた
去年はヴィーガン・シークレット・ソサエティ、略してVSSが大規模テロを予告したため戒厳令が発令された。解除になったのは、ゴールデン・ウィーク直前のこと。当然、桜はとっくに散っていた。
一昨年は巨大台風が到来した。三月の台風は珍しくもないが、日本列島をすっぽり覆うほどとなるとさすがに珍しい。被害も甚大だった。桜の木も痛めつけられ、花開く前に落ちた蕾も多かった。
その前の年はコロナウイルス感染症の大流行── 20年代に制圧されたはずのウイルスがより強力になって再登場したのだ。
その前の前の年は、
さらにその前は……思い出そうとしても、羅乃には思い出せない。15歳以前の記憶にはアクセス制限がかかっている。覚えているのは国民権利クラスがA+になってからの出来事だけだ。
A+国民になり、羅乃の人生は激変した、はずである。だが、当の本人が何も覚えていないのだから、どう変わったのかはさっぱりわからない。
クラスチェンジの時点で、親兄弟とは縁が切れている。
2052年に改正された「国民権利の適正化等に関する法律」、通称「民権法」でそうするように定めらているからだ。
民権法では、クラスチェンジ時に、チェンジ前の人間関係の遮断と、一部記憶へのアクセス制限を義務付けている。どんな人間も例外なくエピソード記憶を参照できないよう神経干渉処置が施されるのだ。一方、学習記憶はフリーアクセスなので、日常生活に支障が出ることはないし、それまでに勉強した内容も覚えている。
だから、春になると桜が咲き花見をするものだという知識は、そのまま生きていた。
「あと5分で8時です。朝食は食べますか?」
壁のスピーカーから、生活アシスタントAIの声がした。常にモニタリングしている羅乃のバイタルサインの変化によって目覚めを把握し、コールしてきたのだ。
「ミルクティだけでいい」
どうせ毎朝同じ答えなのに、と羅乃は思う。だが、過剰学習防止プログラムを組み込まれた生活AIには「気を利かせる」なんて機能はない。だから、何年経ってもサポート対象の意思を必ず確かめる。
正直、めんどくさい。めんどくさいが、これも記憶へのアクセス制限同様、国民を守るために決められたことだから仕方ないのだ。
羅乃は、ヘルプロボがミルクティを運んでくるまで、目をつぶったまま今日は何をしようか考えていた。
A+国民には勤労義務がない。働かなくても、国によって権利ポイントが年間一千万分支給される。これはAクラスの二年分、Bクラスの三年分、Cクラスになると五年分に相当する高ポイントだ。だから、よほど高望みしない限り、だいたいの権利行使はできる。
つまり、やりたいことがあれば、なんでもできるのだが。
「……駄目だ。思いつかない」
この一ヶ月ほど、来たるべき日に備え花見弁当について研究を重ねてきたが、さすがにもう飽きてきた。趣味のアクセサリー作りも、ここのところ気が向かない。仮想広場にログインしたところで、特に会いたい相手もいない。外出するにはまだ肌寒い。
「だからって、奉仕活動も嫌だし」
観念して目を開け、ぼんやり天井を眺めていると、軽いモーター音とともにドアが開いた。
「おはようございます。ミルクティをお持ちしました」
声だけは人間並みだが、形は人型でもペット型でもない、極々シンプルな円筒型のヘルプロボが入ってきた。上昇A+に支給される家屋は基本平屋建てのバリアフリー建築なので、複雑な歩行機能などは付いていない。また、機能優先が徹底されているため、なんの装飾もなしだ。こういうのを用の美と呼ぶそうだが、羅乃にはなんだか物足りない。
「ベッドで召し上がりますか? それともテーブルに置きますか?」
「テーブルで」
「本日のお召し物は?」
「標準服で」
この会話も毎日交わしている。
ここまで来るともう儀式だな、と羅乃は思う。
なんの変哲もない一日を始めるための、意味のない儀式。
これが何年続くのだろう。あんまり考えないようにしているが、それでも時々怖くなる。いっそ“最大義務の行使”を求められたら、その方が……。
「本日の予定をお伝えします」
羅乃の思考を遮るように、AIが話を始めた。
「予定? 何かあったっけ?」
「はい、先ほど面会要請が入りました。相手はコスモス台三丁目の
誰だ、それ。
まったく心当たりがなかった。心当たりがないということは、あれだ。
「まさか、Cクラスの人じゃないでしょうね」
「お察しの通り、Cクラスの方です。よって、第三級応召義務発効対象者となります」
羅乃は一度起こしかけていた体をベッドに戻した。
「無理。私、今日は病気。そう伝えて」
人に会うなんてまっぴらである。特にアンダーには会いたくない。絶対なにか頼まれるに決まっている。
「しかし、バイタルに異常はありません」
「私が病気って言っているんだから、それでいいじゃない」
「病気ならばただちにメディカル・センターに連絡をいたしますが」
「やめて。休んでいれば治るから」
「医学的処置の拒否は認められていません。羅乃様の健康維持は第一級義務です」
それを言われてしまっては、グウの根も出ない。そう、羅乃はいついかなる時も健康体を保つよう、国に義務付けられているのだ。A+クラスであるがゆえに。
「……面会の希望時刻は?」
「午後からならいつでもよいそうです。ですので、三時のお茶に招待という形を取るのが最適と思われます」
「そういう提案だけは素早いよね、あんた」
「三時からでよろしいですか?」
「いいよ。どうせ拒否権ないんだし」
「了解しました」
三秒ほど経つと、左手の甲が淡い黄色に発光した。一ミリほどの人工皮膚で作られた
「あれ、そういえば
「いえ、三ヶ月後です」
「そうだっけ?」
確か、去年は桜の開花ニュースが流れた直後ぐらいだったから、もうそろそろのはずなんだけど……と思いつつも、羅乃は考えるのを止めた。AIが違うというなら、違うのだろう。
ヘルプロボが運んできた紅茶は、いつも通りすばらしい香りがした。毎日天然茶葉の紅茶を楽しめるのはアッパークラスならではだ。
「これを飲むためには義務を果たせ、か」
今日はどんな“お願い”をされるのやら。
羅乃はうんざりしつつ、ヘルプロボに命じた。
「標準服はやめて、来客服を出して。できるだけ楽なやつ」
「承知しました」
カップを片手に窓際に立つと、弥生三月らしい煙った青空が目に入ってきた。
「……面倒事じゃなきゃ、いいんだけど」
【続く 次回更新予定4月3日(金)】
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