千姿万態

 大学の学食の二階テラス席で味噌ラーメンを啜っていると「遅い昼食かな」と尾田さんに声を掛けられた。


「昨日は夜遅くて昼まで寝ていたものだからこれは朝食だよ」

「規則正しい生活をしないと健康に悪いよ」

 

 尾田さんは呆れた様子でそう言いながら席に座った。

 

 尾田さんと私は同じ演劇部の部員だった。

 彼女は面倒見がよく誰とでも訳隔たりなく接することができる人だった。

 だから独りでラーメンを寂しく啜る男に声を掛けるぐらいは自然なことなのだろう。


「仕方がない。レポートの締め切りが今日までだったから」

「何のレポート?」

「身近な生物に関するレポート。僕はニホンヤモリについて書いた」

「若本君って経済学部じゃなかったかしら?」

「一般教養の課題だね」


 尾田さんは「そう」と頷いて学食のレジの方に目を遣った。


「誰かと待ち合わせ?」

「うん。留美子がコロッケを食べたいって言うから私はその付き合い」

「尾田さんはコロッケを食べないのかい?」

「私は間食しない主義なの。太りやすい体質だから」

「そうは見えないけどね」

「ありがとう。日々の努力の賜物ね」


 尾田さんは肩まで伸びた髪をクルクルと指で遊ばせて微笑んだ。


「どうしてヤモリだったのかしら?」

「えっ?」

「身近な生物」

「あぁ……」

 

 正直、尾田さんが本気でそんなことを気にしているとは思えなかった。ただ会話の題材が欲しかったのだろう。


「僕の友人に日下部レイって奴がいてね、彼がヤモリを飼っていたから丁度いいと思ってね」

「えっ、日下部くん?」

 尾田さんは手を口に手を当て驚いた様子だった。


「あれ? 知り合いだったかい?」

 私の問に尾田さんが答えるより早く、「あぁ、日下部レイだぁ」と背後から声がした。


 声の主は加賀さんだった。


 彼女は一杯のコップと一個のコロッケを手に持っていて、コップをテーブルにどんと置くと荒々しく席に座った。


 加賀さんも演劇部に所属していたが最近はあまり顔を見せていなかった。

 どうにもガールズ・バンドを結成して以来、そちらの活動を精力的に頑張っているらしい。


「日下部レイって、あの日下部レイかよ?」と加賀さんは私に息巻いた。

「いや……、たぶん、そうじゃないか? 珍しい名前だし」

「私が言ってる日下部レイって奴はな、クルクル頭で目付きが悪い、何考えてだか分かんねぇ、盗人野郎のことだよ」

「留美子、よしなさいよ」

「本当のことだからね。本当のことを言っても悪くはないさ」


 私は困惑した。加賀さんが言った人物の特徴は間違いなく日下部レイそのものだった。

 しかし――、


「盗人野郎って、仲川の話しかい? あれは……」

「仲川って誰だよ」

「えっ、じゃあ盗人野郎って何の話なんだ?」

「高校時代の話だよ。私と優子と日下部は同じ高校の出身なんだよ」


 私が尾田さんの方を見ると彼女は黙って頷いた。


「レイが高校時代、何かを盗んだっていうことか?」

「あぁ、あいつは私の財布を盗んだんだ。後になって落ちていたのを拾ったって私に返してきたが間違いねぇ」


 加賀さんそう言いいながらコロッケを平らげ水を一気に飲み干すと席を立った。


「日下部と付き合いがあるならアンタも気をつけな。じゃあな、優子、上手くやりなよ」

「留美子!」


 加賀さんは嵐のように場を掻き乱し去っていった。


「上手くやれって……! 若本くん、気にしないでね。あの子、音楽にのめり込みすぎて最近、頭がおかしいの」

「いや、とても気になるよ。すべて話してくれないか?」

「えっ、急にそんなこと言われても、その……、困るっていうか、色々と私にも心の準備が……」

「僕の知るレイはおかしな奴だが盗みを働くような奴じゃない」

「えっ、そっちの話?」

「何?」

「いえ……、まぁ、いいわ」と尾田さんは小さく咳払いをして「高校時代ね、留美子の財布が失くなったことがあるのよ」と話し出した。


「化学の授業で教室移動があってクラスに戻ってきた時のことだったわ。財布が盗まれたって留美子が怒っていて騒ぎになっていたのよ」

「その犯人がレイだと?」

「留美子はそう思っているわ」

「尾田さんは?」


 私の問に彼女は困ったような表情で「私もそう思っているかな」と答えた。


「そんな! どうして?」

「日下部君が犯人って言うのが一番納得できるからよ」

「いやいや、レイは確かにおかしな奴だけど、それは誤解だよ。あいつは……、そんな奴じゃない」


 尾田さんは私が熱くなるのを意外そうに見つめた後、

「日下部君は……、高校時代はいつも一人だったけど、大学ではいい友人に出会えたのね」

 としみじみとした口調で言った。

 

 私は何だか恥ずかしい気持ちになった。


「いや……、まぁ、付き合ってみると悪い奴じゃないといか……、ヤモリも見せてくれたし」


 もじもじとした私の様子を見て尾田さんは愉快そうに、

「分かっているわ。私も日下部君が泥棒をするような人じゃないってことぐらい」

 と言った。


「んっ? じゃあ、どうして、レイが犯人だって尾田さんは思っているんだ?」

 私は話の風向きが変わったを感じた。


「うーん、実はこの事件には犯人候補がいてね」と彼女は再び話し出した。

「化学の授業が始まる前までは財布は確かにあったって留美子は言うのよ。そうすると、財布は授業中に盗まれたってことになる。そして、授業に遅れてきたのが日下部君、参加しなかったのが西君、武田君、浜口君の四人なの」


「その四人が犯人候補ってこと?」


「そう」と尾田さんは頷く。


「しかし他クラスに犯人がいるって可能性もあるんじゃないか? それどころか、学校に不法侵入した誰かって可能性すらある」


「それはクラス内でも議論になったよ。ただ犯人が学校外部の人間だとするとリスクを犯してわざわざ財布一つ盗むかなってね。だから、これは単純な金銭目的な犯行でなくて留美子に嫌がらせをしたい人の犯行じゃないかって」


「あぁ、それは確かに。でも他クラスの誰かって可能性はあるじゃないか?」


「それもね、他クラスは教室移動のない通常の授業だったから席を外した人がいたか聞いてみたけどいなかったの」


「なるほど……、いや待てよ。そもそも財布が盗まれたのは加賀さんの勘違いで単にどこかで失くしただけって可能性もあるんじゃないか?」


「そうね、でも、留美子は絶対にそんなことないって言って引かなくて……。気が強い娘だからね。そうなると担任の先生は何と言うか事勿ことなれ主義の人だったのだけど、さすがに何も調べない訳にはいかないという空気ができあがっていて、何より犯人候補の一人だった日下部君からクラス内に潔白を証明できない人がいる以上、そこから調べるべきだって言い出したの」


「レイが犯人だとしたら自分の首を締める行為だ」


「そうね。結局、担任主導のもと、日下部君を含む四人の持ち物検査をすることになったのだけど留美子の財布は見つからなかった」


 尾田さんはそこで言葉を止めて反応を伺うように私の方を見た。


「うーん、これまでの話だとレイが犯人だと思う要素が見当たらないよ。むしろ、他の犯人候補の誰かが加賀さんの財布を盗んだあと、どこかに隠したんじゃないか」


「そうね、たぶん、盗んだ財布はどこかに隠してあったんじゃないかと思う」


「それをレイが見つけて加賀さんに返したものだから、尾田さんや加賀さんはレイが犯人だと思っている」


「いいえ、財布を盗んでどこかに隠したのは日下部君だと私は思っている」

 

 彼女の口調は推測というより殆どそれを確信しているかのようだった。

 私にはそれが不思議で堪らなかった。


「なぜ?」


 尾田さんはじっと私の目を見たまま

「他の三人の持ち物から煙草が見つかって彼らが退学になったから」

 と言った。


「えっ?」

「どう思う?」

「どうって……、それじゃ、まるで……」


 私は言葉を詰まらせた。


「日下部君が彼らを陥れるために留美子の財布を盗んで持ち物検査をする流れを作った」

 そう言って尾田さんは溜息を付いた。


「仮にそうだとしても、どうしてレイはそんなことを……」


「西君、武田君、浜口君は素行の良い生徒でなくてね、それまでに二度停学になっていて退学になるのも時間の問題だって言われていたわ」


「レイはそういうのに関わらなそうだけどな」


「日下部君がそこまでやったのは、たぶん……、彼らがある生徒をいじめていたからだと思う」


「あぁ……、そいういうことか」と私は頷いた。


「日下部君は人に無関心なようで優しいところがあるから。それに……、やっぱり変人ね。全ては推測だけど、たとえそんなこと思い付いても私にはできないかな」


「加賀さんにこのことは……」


「日下部君は誰の財布でも良かった訳でなく、騒ぎを大きくしてくれる誰かの財布が良かったんだと思う。だから留美子だったのでしょうね。留美子、あなた利用されたのよ、なんて言えないわ」


 それはそうに違いないかった。


 何とも言えない空気になって、しばらく沈黙が続いた後、「じゃあ、またね」と言って尾田さんは去っていった。

 残されたのは完全に伸びてしまったラーメンだけだった。

 

 加賀さんはレイのことを盗人と言って、

 尾田さんはレイのことをどこか優しさのある変人と言った。

 

 退学になった三人やいじめられていた生徒はレイの企みに気付いていたのだろうか。

 気付いていたとすれば憎悪と感謝の真逆の感情をそれぞれレイに抱いただろう。


 しばらくたって、私はこの件の真相をどうしても確かめたくてレイに尋ねた。

 すると、レイはあっさりと概ねその通りだと認めた。


 ただ、私がいじめられていた生徒は君に感謝しているだろうなと言うとレイは「どうかな」と考え込んだ。


「何を考える必要がある。感謝されているに決まっている」


「僕は彼を救おうとした訳ではないよ。事件を未然に防いだに過ぎない」


「どういうことだ?」


「彼はあるときから鞄にナイフを忍ばせるようになった。爆発するのは時間の問題だっただろう。分からないのはね、殺したいほど憎い相手を殺す機会を奪った僕に彼がどういう感情を抱くかってことさ。感謝されるのか、むしろ恨まれるのか……。君はどう思う?」

 とレイは言った。

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