私が兄さんのことを愛しているとしてもそれは何ら不思議なことではないでしょう。


 兄さんとは血が繋がっておりませんし、出会ったのも私が十の時なのですから。


 兄さんの魅力について語れば、その顔立ちから性格まできりがありませんが、親の再婚で表面にこそ出しませんでしたが、内心傷ついていた私を支え続けてくれたのは兄さんだけでした。


 兄さんは私のことは何でもお見通しで私の笑顔の底にある感情までも汲み取って、本当は苦しんではいないかと心配して下さるのです。


 正直言って新しい母様のことは好ましく思っていません。

 ただ兄さんの母様であるから表面上仲良くしているだけです。


 実際のところ、兄さんが兄さんでなかったら私は当の昔に家を出ていたでしょう。


 兄さんに恋をしてからの毎日は何もかもが違っていました。


 朝起きた瞬間から兄さんのことを考えます。


 兄さんが一つ壁を挟んだベッドの上でスヤスヤと眠っている姿を想像します。


 私の部屋のベッドは兄さんの部屋のベッドと隣り合うように配置しております。


 寝るときはいつも壁に寄り添い兄さんを近くに感じながら眠りにつくのです。


 毎朝、誰よりも早く起きて兄さんの部屋のドアをこっそりと開け、静かに寝息を立てて眠る兄さんをじっと見つめるのです。


 この瞬間、幸福感と背徳感が混じり合った感情に私は支配されます。

 頭がおかしくなって何か自分が別の生き物になったような気さえします。

 心臓はバグバクして、思考は兄さんでいっぱいになって、視線は兄さんの唇に奪われます。


 あぁ、キスしてしまいたい――


 今の関係を壊してでもこのまま兄さんの眠るベッドに潜り込み、唇を重ね、抱きしめ合い、お互いの体温を感じ合いたい。


 そんな妄想が現実になればどれほど幸せか。

 毎朝、毎夜、夢にみます。


 しかし、それが叶わない夢だということを私は知っています。

 兄さんは私のことを妹としてしか見ていないのです。


 そう考えないと私の魅了に参らない理由がないのです。


 自分で言うのも何ですが、私は自分の容姿に自身があります。


 男の人から言い寄られたのは一度や二度でありませんし、街を歩けば芸能プロダクションの方から声をかけられることも珍しくありません。


 男の人の気を引く表情の作り方、仕草、喋り方を私は知っていました。

 どのように髪を触ったら、目配せしたら相手にとって魅力的に映るのか何て私にとって造作もない作業でした。


 兄さん以外の男の人であれば、たとえば同級生でも先輩でも先生であってさえも私の望むように動かすことができました。


 しかし、兄さんだけは思うようにいかないのです。


 眠ったふりをして兄さんの肩に頭を傾けても兄さんは何もしないのです。


 仄かに香るシャンプーの匂いも少しはだけた白い胸元も大胆に露出した柔らかな太ももも兄さんの前では意味をなさないのです。


 私は自分の気持を打ち明けようかと迷いました。

 しかし、気持ちを打ち明ける前に兄さんは家を出てしまいました。

 大学に通うため下宿することになったのです。


 私はそれを心から残念に思うと同時にほっとしていました。

 これ以上、一緒にいれば私は正常ではいられなかったからです。


 兄さんが家を出てからも兄さんのことを片時も忘れませんでしたが、私の心はそれなりに平穏でした。


 兄さんは私ほどの女がどれだけアプローチしても届かなかった人です。

 そこらへんの有象無象の女性とお付き合いするはずがありません。


 しかし、心の奥底に不安はあったのです。

 兄さんと電話を繰り返す中でその不安は殆ど確信に変わっていきました。


 兄さんはある男の話ばかりするのです。

 下宿が一緒だの、変わった男だの、面白い男だの――、電話する度にその男の話ばかり。


 兄さんは男の人が好き――

 そう考えると全ての辻褄が合いました。


 私は思わぬ恋敵にわなわなと震えました。

 このままでは気が狂うのではないか、とすら思いました。


 それでも耐えたのです。

 私は兄さんの妹なんだと自分に何度も言い聞かせました。


 しかし、夏季休暇で帰省した兄さんがその男を家に招いたとき全てが壊れました。


 家に招くだけでも到底許せることではないというのに、兄さんとその男は同じ部屋で寝るというのです。


 何が起こるか分かったのものではありません。


 私は怒りの余り今晩は私がその男と同衾どうきんしますと家族に訴えました。


 しかし――、父様は激怒し、母様と兄さんは困惑するばかりです。


 このままではいけない。

 私はある計画を実行に移すことに決めました。


 計画は単純なものです。


 男のバッグに私の下着を大量に忍ばせておくのです。

 タイミングを見計らって私は自分の下着が大量に紛失したことを家族に告げます。


 するとどうでしょう。

 男のバッグから私の下着が大量に出てくるではないですか。

 言い逃れなんてさせません。

 私は兄さんの胸を借りておいおいと泣くでしょう。


 これで男の信用は失墜です。

 兄さんも男を見損なうでしょう。


 男のバッグに下着を入れることな造作もないことでした。

 私はご機嫌で縁側に座り、沈みゆく夏の夕日に目を細めます。


 すると男が私の横にやってきて腰を下ろすではないですか。


 本来であればこの泥棒猫とビンタの一つでもしてやるところですが、この男の運命は既に終わっています。

 話し相手になってあげるぐらいの情けは施してもいいでしょう。


「大学で兄さんはどうでしょうか?」

 私は会話の導入をして上げます。


「可もなく不可もなく平凡な男だ」

 男は淡々として様子です。


 私は少しムッとします。

 目付きが悪く、寝癖頭のこの男には、兄さんの魅力が分かるはずもないのです。


「凡人に兄さんは測れないでしょう」

「どうかな。まぁ、若本君の特徴を一つ上げるとすれば変わった人間を集めてしまうところかな」


「変わった人間?」

「そう、君を含めてね」


「私は至って普通の女子です」

「しかし、君は若本君のことを愛しているのだろう」


「えっ?」


 どうして?

 私は混乱します。

 私の気持ちがなぜこんな男にばれているのか?


 驚く私に

「君の仕草から一目瞭然だよ。若本君と話すとき声のキーも高くなっているね」

 と男は告げます。


「馬鹿なこと言わないで下さい。私は兄さんの妹なんですから……」


「でも僕は君の恋を応援したいと思っているんだがね」

「えっ、応援? 応援と言いましたか?」

 男の言葉は私にとってにわかには信じられないものでした。


「あぁ、駄目かね?」

「どうして?」


「君の気持ちが本物に違いないと思うからさ」

「でも、あなた、兄さんの恋人なのでしょ?」


 男は眉を潜めます。

「何を考えているのかと思ったが……、そんなことを考えていたのか」

「違うのですか?」


「当たり前だ」と男は心底呆れて様子でした。

 そして、溜息をついて「まぁ、若本くんは私を信頼しているところがあるからね。私の言うことであれば耳を貸すだろう。たとえ、君との恋愛であろうと」


 私は泣きそうになりました。

 恋敵だと思っていたこの男は実はキューピットだったのです。

 諦めかけていた想いを応援すると言われて胸が熱くなります。

 誰にも話せないで苦しんでいた気持ちが少しだけ楽になった気もします。


「兄さんは私のことを真剣に考えてくれるでしょうか?」

「可能だとも。ただ……」


「ただ?」

「人と人の関係は移ろい行くからね。何かの拍子に僕が若本君からの信頼を失えば駄目さ」


 私はすぐさま下着を回収しなければならない、と腰を上げます。

 しかし、悪いことが起こります。


 背後に青ざめた表情の兄さんが立っているのです。

「レイ……」と兄さんは力なく声を絞り出します。


 兄さんは男のバッグを持っていました。

 バッグは開かれていて中には大量の私の下着が入っています。


「すまない。貸していた本を返して貰おうとバッグを開けてしまった。無断でバッグを開けたことは謝る。しかし、これは何だ……。誰の下着だ? 君のじゃないだろう? 下着泥棒したのか!」


 私は弱りました。

 兄さんとの将来のために、ここで男の支援を失う訳にいきません。


 何かを言わなければ!

 私の脳裏に過ぎったのは先日読んだ『レ・ミゼラブル』のセリフでした。


「兄さん、落ち着いて下さい」

「落ち着いてなんていられるか!」



 兄さんは私が何を言っているのか理解できないのか固まってしまいました。

 男は涼しい顔をして事の成り行きを見守っています。


 大人になった今でも私はあの日、何と答えるのが正解だったのかと考えるのです。

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