賽銭泥棒

 池の中で鯉が泳いでいる。


 ゆったりと体をくねらせては体の方向を変え、池のあちこちを行き来していた。


 夕暮れに照らされた水面に幾つもの波紋が広がっては、ぶつかり合い消えていった。


 紅い模様を付けた奴、黒い模様を付けた奴、小さい奴、大きい奴、水面で口をパクパクさせている奴――、色々な姿があった。


 数えてみると全部で十三匹であると分かった。


 数える度に途中で数が分からなくなり、また一から数え直した。


 ようやく十三匹だと分かったあとも繰り返し、また数える。


 つまり私は長い時間、退屈していた。


 もう一時間以上はこの石のベンチに座っているだろう。


 まだ団扇のいらない夏本番でない時期であったことは救いだった。

 

 それにその場所は松の木の影になっていた。


 隣で遠野さんは真っ直ぐに背を伸ばしたまま、庭にある夏椿の方を眺めていた。


「退屈ですね」

「はい」


「住職はどうしたのでしょう?」

「さぁ、どうしたのでしょうか」


「早くして頂きたいですね」

「えぇ」


 そこで会話は途切れた。


 おそらく会話を続ける気持ちがあるのは私だけだろう。


 再び横目で遠野さんに視線を遣った。


 線は細く、色白で、黒い髪が肩の上まで伸びている。


 瞳には力がなく、表情には変化がない。


 今日に限った話ではない。


 私と彼女は同じ大家が経営する男子と女子の下宿に暮らしており、同じ大学に通う新入生でもあった。


 そのため、時折、彼女を見かけることはあったが彼女が快活にしている姿は一度も目にしたことがなかった。


 こうやって、じっと遠くを見つめる姿は西洋の服を来た日本人形のように思えた。


 彼女とまともに会話をする機会が訪れたのは今日が初めてだったが、まともな会話はできそうもなかった。


 私は退屈していた。


 この寺から離れたかった。


 鯉のようにいつまでも同じ場所に留まり続けることはできそうもない。


 しかし、住職はあれから一向に姿を見せない。


 そもそも、事の発端は大家さんだった。


 急遽、演劇部での活動が失くなったこの日、私は講義が終わるとすぐにアパートへ戻ることにした。

 しかし、アパートの前で大家さんに捕まり用事を仰せつかってしまった。


 大家さんは人使いの荒い困った人だった。

 美人ではあるが昼間から庭で酒を呑んでは人目も憚らずいびきを立て眠るような人だった。

 それでいて瞳や言葉には妙な力強さがあり、頼まれると首を縦にしか振れなかった。


 大家さんの用事とは、

 最近、この寺で多発している賽銭泥棒の調査をして欲しい

 というものだった。


 無論、それは警察の仕事ではないかと私は大家さんに進言はしてみた。


 しかし、大家さんは

『警察には既に話したが解決せず、住職は大いに困っている。檀家でもあることだし、私が人肌脱ごうと思ったが非常に忙しく手が離せない。そこで君たちに白羽の矢が立ったと言う訳だ』

 などと言って聞く耳を持たなかった。


 住職は福耳の人の良さそうな人物で大家さんから頼まれた旨を伝えるとあれこれと話してくれた。

 しかし、お喋り好きななのか賽銭泥棒とは関係のないことまで話し出した。


『賽銭を盗まれるのも困るがこの寺には他にも価値のあるものが沢山ある。中でも安土桃山時代に活躍した某とかいう絵師の水墨画が盗まれた日には私はもはや生きてはいけぬ。君たちもその水墨画を見れば私の気持ちが分かる。特別に見せてあげるからちょっと待っていなさい』


 それで今に至るという訳である。


 その水墨画は特殊な金庫にでも保管してあって開けられなくて悪戦苦闘でもしているのだろうか?


「ちょっと住職の様子を見てこようと思う」


 それは遠野さんにでなくレイに向けた言葉だった。


 相変わらず返事はなかった。


 池の方をじっとみたまま石像のように固まっている。


 レイはこのように生きた屍になることが時折あった。


 この『へんじがない。ただのしかばねのようだ』状態になるとレイは何の反応も返さなくなる。


 遠野さんも非常に無口な方であるが相槌ぐらいは返ってくる。レイの場合はうんともすんとも返さない。


 そんなレイの態度を最初は不愉快にも思ったが、これほどまでに人を無視できる神経の太さに今では感心すらしている。


 私はついにしびれを切らし腰を上げた。


「まぁ、待ち給えよ」


 それはしばらくぶりに聞いたレイの声だった。


 ようやく魂が肉体に戻ったらしい。


「いや随分と僕らは待ったじゃないか」


 レイの前に立つ私の影が彼の顔を暗くしていた。


「そろそろ住職も戻って来る頃合いだろう」

 などとレイは呑気に言う。


「頃合いってそんなもの分かるものか。きっと水墨画を保管した金庫か何かと格闘しているに違いない」


「そんなことはない。水墨画はただ僕達をここに留めるための方便だろうからね」


「方便だって? 何だってそんなことをするんだ。賽銭を守るための警備でもさせられているのか?」


「賽銭泥棒だって方便さ。いや実際に賽銭泥棒はいるのかもしれない。しかし、それは本当の目的ではない。君はまさか一介の大学生を相手に本気で賽銭泥棒の相談をする奴がいると思っていたのかね?」


 それは私だって妙だと思っていたことだった。

 遠野さんの方へ視線を向けると私とレイの間付近の地面をじっと見つめ、二人の会話に耳を傾けているようだった。


「それでは大家さんも住職も何の目的があって僕らをここに呼びつけたんだ」


「それはアリバイ作りのためだろう」

 とレイは静かに言った。


 沈黙ができて鯉が池を跳ねる音が鮮明に聞こえた。


 レイのことを何も知らなければ私はその言葉を笑って受け流しただろう。

 しかし、レイのことを知っていれば事情が異なる。

 何かしらの犯罪が行われようとしているのだと私は理解した。


「それなら不味いじゃないか。呑気に腰を下ろしている場合じゃない。何をしようとしているかは分からないが今すぐ住職を止めないと」


「何を言っているんだ?」


「何って……、住職のアリバイを作るために僕らはここに呼び付けられたのだろう? あぁ、それなら大家さんもグルという訳か?」


 レイは私をまじまじと見た後、

「君は頭のおかしなことを言うのだな。大丈夫かね?」

 などと言った。


 私は腹を立て、

「アリバイ作りは君の言い出したことだろ」

 と言い返した。

 

 しかし、

「姿の見えない住職のアリバイなど僕らに作れる訳がないだろう」

 レイは涼しい顔をして言う。


「どういうことだ?」


のアリバイを作っているということですか?」

 遠野さんが口を開いた。


 その言葉にレイは目を閉じて頷いた。


「訳が分からない。まさか君は僕や遠野さんのことが疑っているんじゃないだろうね?」


「そういう訳ではない」とレイは自嘲気味に笑った。「なぜならアリバイを作っているのだからね」


「はっ? 君は阿呆なのか? どんなトリックかは知らないがそれを話しては意味ないだろ」


 レイは首を振る。


「アリバイとは犯行現場の不在証明ということだ。遠野さんは知らないかもしれなが、君は仲川君を知っているだろ?」


「仲川? 102号室の仲川のことか?」


 レイはそうだと頷いた。

 

 レイの口から仲川という名が出てきたことに私は驚いた。

 この時、下宿で密かに騒ぎになりつつある問題の中心人物が仲川だったからだ。


「仲川と僕らがこうしていることに何の関係があるというんだ?」


「彼は漫画家を目指しているらしくてね。講義が終わると下宿に閉じこもって漫画を書いているんだ」


 その言葉は私でなく遠野さんに向けられたもののようだった。

 それを察してか遠野さんはこくりと頷いた。


「講義が終わった後、サークルや部活といった倶楽部活動もせず、アルバイトもせず、また玉突きといった遊びもしないのは僕と彼ぐらいでね。若本君、君は仲川君が最近、盗難にあっていると騒いでいることを知っているね?」


 私は黙って頷いた。


「その犯人が私だと彼が疑っていることも知っているね?」

「君は知っていたのか?」


「まぁね、知っていたさ。彼の話はこうだ。僕と仲川君しかいない時間帯に彼が共同トイレで用を足した後、部屋に戻ってみると漫画の原稿が失くなっていたと言う。それも一度や二度ではない。最近だと現金も失くなっていると言う。彼の話を信じるなら僕が彼の部屋へ忍び込んで盗んでいると思われても仕方がないだろう。実際、仲川君も含めてそう思っている人物も幾人かいるようだ」


「君が犯人な訳ないだろう」

「なぜだね?」

「君ならもっと上手くやるさ」


 レイはじっと私を見て「そうかね」と呟いた。

 ここまで来て私はレイが何を言おうとしているか理解した。


「つまり、その盗難事件の濡れ衣を晴らすために今こうして君のアリバイを作っているということか?」


「大家さんの思考を読み解くとそうなのだろう。あの人はあの人なりに下宿の秩序を守ろうとしているのさ。それに桜川先輩の件で私への借りを返す気なのだろう。住職まで巻き込んで全くお節介な人だ。若本君にも遠野さんにも迷惑をかける」


「それは構わないが……、でもおかしいじゃないか? なぜ今日、盗難があると大家さんには分かるんだ?」


「分かるさ。仲川君は僕と二人きりの日はいつも騒いでいるようだったからね。今日は二人きりの日という訳だ。まぁ、実際は一人きりなのだが」


「そういうことか。それにしても君と二人きりの時にしか盗難事件が起きないとは、まるで君を犯人に仕立てあげたい奴がいるみたいだな」


「えっ」と遠野さんが声を漏らした。


「どうしました?」と私は遠野さんに尋ねた。


「いえ」と遠野さんは頭を振る。


 レイは呆れたと言わんばかりの表情を浮かべている。


「何だ?」


「君の純粋さに驚いたのだよ。仲川君が僕を犯人に仕立てあげるために嘘を付いていると考えるのが普通じゃないか」


「仲川が? なぜ? 何のために?」


 少なくとも私には仲川がそのようなことをする人物には見えななかった。

 彼は好きな漫画の話を楽しそうに話す気の良い青年だった。


「理由までは分からない。恨みを買った覚えはないがね。嘘を付いて同情を買いたいと考えているのかもしれない。自傷行為こそしてはいないがミュンヒハウゼン症候群に似た精神疾患が仲川君にはあるんじゃないか。僕は下宿で孤立しているから犯人に仕立て上げるには丁度良かったのだろう」


「そんなことを彼がするだろうか?」


「さぁね、実際のところは分からない。知らない内に恨みを買ったという可能性もある」


 レイの性格を考えるとむしろそちらの方が可能性が高いような気もした。


 それから住職が戻ってきて本堂で水墨画を見せられ、絵師の某の半生についての講義が始まった。

 もう十分アリバイ作りは完了しているはずだから住職のおしゃべり好きは演技でなく素なのだろうと考えながら話を聞いた。


 帰る頃には完全に日は落ちて夜の道は外灯に照らされていた。

 

「日下部さんと一緒にいたことを女子の下宿内で広めた方がよいのでしょうか?」

 と遠野さんから問い掛けがあった。


 レイが首を振ると遠野さんはほっとしたかのようにも見えた。


 アパートに戻ると偶然、仲川に出会でくわした。


 彼はぎょっとした顔でレイを見ると急いで部屋の中へと去っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る