足跡

 その日、父を殺すつもりでした。


 父は母や私を殴ることが大好きな人でした。


 古くから続く温泉宿の婿養子として迎えられた父は外面だけが良い何の取り柄もない男だったのです。


 私の身体についた痣を見て「ごめんね」と母はいつも泣きました。


 母の涙が何よりも嫌いでした。


 17歳になったら父を殺そうと決めていました。


 私は雪が降るのを来る日も来る日も待ちました。


 私の計画には雪が必要だったのです。


 ある日、神様が雪を届けてくれました。


 空から降る氷の結晶に私は感謝しました。


 雪の絨毯に寝転んで空を見上げます。


 綺麗……。


 神様は美しい世界の中にどうして醜い人間をお創りになったのだろう。


 しんしんと雪が降り積もります。


 このまま雪に埋もれて死んでしまった方が幸せかもと思いました。


 それでも死ねなくて私は仕方なく身体を起こします。


 溜息を付いて「酷い人生」と雪に向かって呟きます。


 夜になって雪が止みました。


 天気予報も今夜はもう雪は降らないと言っています。


 何もかも思い通りで神様が私にようやく幸福を与えて下さったのだと思いました。


 部屋の窓から父のいる離れを見つめます。


 その場所で父は私に殺される運命にありました。


 離れの周りは雪で覆われていてを残さずに離れに行くことはできません。


 しかし、私はその方法を思い付いたのです。


 父は自然が作った密室の中で自殺したことになるのです。


 不思議と私の心は落ち着いていました。


 深夜になるのを待って私は部屋を出ます。


 雪が世界から音を消し去っています。


 離れへと続く中庭の前に立ち、私はふっと息を吐きました。


 ようやく全てが終わるんだと思いました。


 その時です。


 奇妙なことが起きました。


 月灯りの中から長身で気味の悪い男が姿を表したのです。


 男はどういう訳か真っ白な雪の上をぐるぐると歩き回っていました。


 中庭には男の足跡が残っています。


 神様がくれたチャンスを男が全て台無しにしたのです。


 私は怖いという感情よりも怒りが込み上げてきました。


「何をしているのですか!」


 男は私の言葉に立ち止まりました。


 よく見るとこの寒空の下、宿の浴衣を着ています。


 完全に頭のおかしな男です。


「事件を防いでいるのさ」


 私は……、心臓を掴まれたような思いでした。


 たったそれだけの言葉で私の平静さは失われます。 


 突然、何もかもが怖くなったのです。


「どうして……」


 そう呟かずにはいられませんでした。


 もちろん、今夜の計画のことは誰にも話していません。


 男は私の前に立って

「君は歩き方が少し妙だね」

 と言いました。


 私は何と答えていいか分かりませんでした。

 

 この時、私は確かに腿を痛めていました。


 父は私を殴る際、目立たたない部分を殴るのです。


 痛みを隠すのは上手な方だと思っていました。


 現にこれまで誰からも指摘をされたことはなかったのです。


 沈黙を続ける私を後に男は去って行きました。


 私は茫然自失として、その場から動くことすらできませんでした。


 結局、私は父を殺すことができなかったのです。


 しかし、その後すぐ、なぜだか父は「もうここにはいられない」と書き残し、家から出て行きました。


 一体何が起こったのか私には分かりません。


 ただ、この日の記憶を封印し、私は生きることを決めました。


 そして、念願だった大学に通うこともできたのです。


 ある春の日、下宿先のアパートの大家さんからお遣いを頼まれました。


 毛虫駆除のスプレーを取りに行って欲しいというのです。


 大家さんは人使いの荒い困った人です。


 スプレーは男子が住む下宿先にあると言います。


 男は苦手です。


 しかし、私は断ることができず渋々と男子が住む下宿先に向かいます。


 その日は春の陽気が気持ちが良く、お昼寝するには最良の日でした。


 下宿先に着くとガンガンとやかましい音が聞こえてきます。


 男が桜を蹴っています。


 私は思わず男に尋ねます。


「何をしているのですか?」


 男は答えます。

「事件を防いでいるのさ」

 あの時と同じように。




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