一章

第2話

 鳥がチチチと鳴いている。

 ──もう、朝がきたのだ。眠りから意識が引き上げられる感覚がする。

 無理矢理にまぶたを持ち上げたせいか、ペリドットの瞳はいまだ眠気でとろんと溶けている。赤錆色の長い髪も、クシャクシャにもつれ、はねて、ひどい有様だ。

 上体を起こし、大きなあくびをひとつ。隠す様子も見られないミラのそれは、立派なレディとしてあるまじきもの。

 ベッドから起き上がりスリッパを履いて、ぺたぺた鳴らしながら窓辺へ。閉じきっていたカーテンを開いて、陽光を招き入れる。

 途端、あたりは暖かな朝の色で満たされた。


「ん、んん~ぅ」


 思いっきり伸びをして、脱力。

 ミラの瞳から、眠気はすっかりなくなっていた。

 とててっ、と、軽い足音が近寄ってくる。

 そちらに目をむけると、美しいブルーの毛並みを持つ猫が、足元に寄ってきているのが見えた。そっと、その背を撫ぜてやる。


「おはよう、ノノン」

「おはようミラ、すげえあくびだったな」


 ノノンと呼ばれた猫は、にやりと口角を上げて笑った。ミラは慌てて口元を両手で覆い「見てたなら教えてよっ」と顔を真っ赤にする。──まるで、猫がしゃべることが当たり前であるかのように。


「あははっ。教えたって、大あくびかますことにゃ変わらないだろ?」


 前足二本を持ち上げて、ノノンがすくっと立ち上がる。二本足で器用に歩く姿は人間のそれとそっくりだ。若草色の瞳をくりくりといたずらっぽく光らせて、彼女の足をぽんぽんと叩いた。人間が気軽に肩を叩いていくその態度と同じように。

 肉球の柔らかな感触でなごみかけたミラは「違う、そうじゃない」と首を振る。


「紳士なら、レディに恥をかかせないでって言ってるの」

「悪いね。俺は紳士じゃなくてケットシーなもんで」


 ミラが頬をふくらまして怒ろうが、ノノンは気にした様子を見せない。気ままに自慢のふわふわしっぽを揺らし、得意げだ。

 チチチ、と、また外で鳥が鳴いた。その瞬間。ノノンのしっぽはピンと立ち、彼の意識が釘付けになる。


「……食べちゃだめよ?」

「もちろんだとも。普通の猫みたいなことはしないさ。なんたって俺は」

「ケットシーだもんね。レディに恥をかかせる、意地悪な猫」

「なんだ、よく分かってるじゃないか。んじゃ、ちょっと散歩に行ってくる」


 一度しっぽをゆるりと振ったノノンは二本の足のつま先から徐々に消えて、消えて、消えて、見えなくなった。


「もう、ノノンったら……」


 ため息をついて、窓の外を見る。

 そこには小鳥に跳びかかり、爪を立てんとする猫がいた。美しいブルーの毛並みが、陽光を受けてきらきら波打つ。

 ミラは己の頬を叩き姿勢を正す。彼女の表情には晴れやかな決意があった。


「よしっ、今日こそ相談所にお客様を!」


 おーっ! と天井にむかって拳を突き出す。

 ──妖精と人間が共存する御伽噺、はじまりはじまり。




―◆―◆―◆―




 世界には、目には視えない隣人がいる。

 彼らは人に対しときに知恵を与え、ときに恩恵を与え、ときに恐怖を与えた。

 人々は隣人に感謝をし、おそれ、毎日を過ごした。隣人のことを忘れぬように、後の世に伝えるために、物語にし、歌にし、絵にし、演じ、語って、残していったのである。

 あるとき、そんな隣人が視える者が現れた。

 彼らは皆一様にみどりの瞳を有していた。そのため人々はいつしか“みどりの瞳は別世界を映す”のだと、まことしやかにささやきはじめる。

 みどりの瞳を持つ彼らは、隣人を妖しき御魂──妖精と呼ぶようになり、隣人それぞれに名を与えた。

 そうして視える者のひとりが、声を上げた。


「僕たちのこの目を耳を使って、隣人とみんなの橋となろう」


 視えぬものが視える瞳。

 聴こえぬ声が聴ける耳。

 彼らの声を伝えて、彼らの言葉を聞いて。もしそれで、誰かの……みんなの役に立つのなら。それはなんて素敵なことだろうか。


「──そして彼らは、あるひとりを中心に、妖精と人々をつなぐ相談所をひらきました。そうして世界の架け橋となるべく、日々奮闘したのです」


 ぱたん。本を閉じ、ミラはほうっと息をつく。未だ湯気がたつ紅茶に口をつける。ローズヒップの華やかな香りが、ふわりと口内を満たした。ノノンはミラの膝の上で、優雅に伸びをして丸くなる。


「まっ、今じゃ相談所は廃れちまってるけどな」

「もうっ、どうしてそう意地悪言うの」


 口を尖らせ拗ねるミラを見ても、ノノンは笑うばかり。悪びれる様子など見せやしない。


「機械が発達して、人間たちはずいぶん傲慢になったじゃないか。妖精は御伽噺おとぎばなしで、存在しない。子どもの戯言ざれごと。そうだろ?」

「それこそ視えない人の戯言よ」

「ああそうだ、視えないやつの戯言さ。けど、九人が言や、残りの一人は狂人だ、どんだけ訴えたって仕方ない」

「そんなことない。言い続けていれば、視えなくたって伝わるはずよ」

「あ、そう」


 膝の上のノノンが転がり、ミラに腹を見せる。呆れたと言わんばかりの目は、いっそ憐れみさえ宿っていた。


「で? 言い続けたお前の周りにゃ、誰がいる? なにが残った?」

「……ノノンがいるわ。おばあちゃんが残してくれた相談所もあるし、いろんな妖精ひとが遊びにきてくれる」

「で? 人間はどこにいる?」


 たまらず、ミラは口を閉ざした。ノノンは構わず顔を洗いながら、軽い調子で「ばっちゃんから相談所ここを引き継いでからの半年間に来た客は?」と問う。明日の天気を尋ねるような気軽さだった。


「……ゼロ、です」

「だろ。これを廃れたと言わずなんて言やあいい?」


 どこか勝ち誇ったように笑うノノンを悔しげに睨む。

 身なりを整えた彼はすくっと膝の上に立ち、ミラの肩をぽんっと叩く。まるで、なぐさめるような動きの、それ。


「ケットシーって、みんなこんなに意地悪なの?」

「人間って、みんなそんなにお気楽なのかい?」

「……もういいわ」


 すねて紅茶に口をつける。それをノノンが笑った。部屋に楽しげな声が響く。

 言い返せないことを悔しく思いながら、そっとブルーの毛並みをなでてやる。ごろごろと喉を鳴らすノノンに、沈んでいた気持ちが浮上した。

 先代であるミラの祖母から相談所を引き継いでから、はや半年。つい最近まで金の稲穂が揺れていたと思ったのに、いつのまにか雪が溶け、あちこちで花が咲き乱れ蝶が飛んでいる。

 先ほどから軽口ばかりのノノンだって、小さいときからそばにいてくれる、かけがえのない存在だ。妖精が視えると言い続け人の輪に馴染めなかったミラの手を引き、ときには兄になり、ときに親友になり、ときに相棒になって、ずっとそばにいてくれた大事な家族。意地悪はもう、ご愛嬌だ。

 そろそろ昼時だ。食事の用意をしなければ、思考が流れ始めたときだ。ノノンの喉の音が聞こえないことに気づいた。耳をひくりを動かして、窓の外をじぃーと見つめている。

 彼の動作につられて、外を見る。遠くのほうにある民家の群れ。石造りの煙突からは切れ切れに白い煙が昇り、青い空に溶けて雲の仲間入りをしている。どこの家も、昼食の用意をしているのだろう。

 二対の瞳がじぃと外を見つめる。……先に視線を外したのは、ペリドットのほうだった。未だ意識が戻らないノノンに「どうしたの?」と、密やかに問う。


「誰か来てる」

「ええ?」

「ここに、誰か来る。足音がするんだ」

「お客様かな」


 声がはずむ、心がはずむ。ボールのような声に、ノノンは「わからない」と硬い声で返した。

 外に意識が集中しているのだろう。体ごと窓のほうにむけて、ピン耳を立て、大きくゆっくりしっぽを揺らしている。

 警戒している。ミラはすぐに理解した。

 普段この一帯にやってくる人と言えば、郵便配達人くらいだ。客人がまったくないことを相談所を利用するほど困っている人がいないのか、妖精自体をみんなが忘れてしまっているのか、それは分からない。妖精が落ち着いて話せるようにと民家から離れているがゆえに、頻繁に誰かがくるというのはないのだ。

 ノノンは分からないなんて言ったけれど、きっとここお客様がきているのだ。そうでなければ、妖精に興味を持ってくれた誰かに違いない。

 胸が高鳴る。頬が緩む。ミラは、自分たちに好意的な人が来るのだと信じて疑わない。

 対してノノンは、世の中が甘くないことを知っている。ミラの膝から降りて窓に張り付き、足音の主を睨み探す。大きく揺れていたはずのしっぽは、山なりに持ち上がる。


「三人だ。知らない足音……俺たちの知り合いじゃないな」

「もし、はじめましての人だったとしてもよ」


 ノノンの剣呑な声に、ミラはカップに残った紅茶を一気に飲み干し、笑む。すっかり香りが飛んでいた。


「相談所を受け継いだ店主として、その人たちを迎え入れることに変わりないわ。違う?」


 前足を上げて肩をすくめるような動作をし、ノノンはため息をついた。やけに人間臭いのは、人間とともに暮らしているからか。


「ま、いいけどな。……疑うのは俺の仕事だ」


 ミラの耳にも足音が届く。

 鳥の歌や風の音色にまぎれて聞こえる、談笑と人の気配。


「さあ、初のお客様をお出迎えしなくっちゃ」


 赤銅色の髪を手ぐしで整え、リボンを結んで整える。期待で頬を染めるさまは、まるで恋する乙女だ。


「浮かれて、騙されなきゃいいんだけどな……」


 ティーカップを回収しキッチンにむかったミラの背中を見送りながらつぶやいたノノンの言葉は、彼女のスリッパの音にかき消えた。

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