10

 高いヒールのパンプスは、歩くたびに、大理石の床に鋭い音を鳴らす。

 スタイリッシュなジャケットを着こなした式場の従業員が、長い廊下に等間隔で配置されている。男女ともに、おめでとうございます、と招待客に対して声をかけていた。


 ちらほらと感じる様々な視線を、智香は一身に浴びていた。

 彼らが自分に抱く感情は一体何だろう。羨みか、嫉妬か、憧れか。

 どれであってもいい。何にせよ、その全ての目が、智香に見惚れている証拠なのだから。


 細く引き締まった体を覆うのは、真紅のドレス。体にぴったりと張り付くマーメイドラインの衣装を、ここまで着こなせる者は、少なくとも今日この場には智香を除いていないだろう。

 完璧な顔。完璧な体。妖艶な美しさを鎧のように纏って、智香は颯爽と、式場のエントランスに現れた。


「須藤智香ですが」


 新婦側の受付で名前を告げるが、返事がない。おや、と顔をあげてみると、彼女たちは阿呆みたいにぽかんと口を開けて智香の顔を凝視していた。

 彩香の友達だろうか。髪も顔も小綺麗にしているが、どこか田舎臭さの残る顔立ちだ。


「……あの、早くしてくれません?」

「はっ、あ、すみません」


 お名前を書いてください、と芳名帳を指し示す。祝儀袋を渡して名前を書き終えると、式場の従業員に声をかけた。


「白石家の親族です」

「控室はこちらです、どうぞ」


 受付に背を向けて、歩き出した。既に受付を終え、エントランスでゆっくりと歓談している招待客らの視線は、なおも智香が独占していた。


「すっごい、綺麗な人」


 ふと耳に飛び込んできた、智香に向けた言葉。いちいち振り向かなくても分かる、それを言ったのは、さっきの芋みたいな受付の女の子たちだ。


(当然よ。あなた達とは違って、努力したんだから)


 小さく鼻を鳴らす。喧騒が遠ざかると、今度は重厚感のある扉が通路の先に見えてくる。シャンデリアの光を受けて、磨かれた扉は黒光りしていた。

 あの扉の向こうに、親族が大勢集まっているはずだ。雄太と亮平の他に、両親、兄家族、叔母や従兄弟まで、総勢二十人以上が。


 胸が騒ぐ。ただ近づいていっているだけなのに、それだけで精神は不安定になり、叫びだしたくなる。

 でも、こうなることは予想していた。


 ガリッ ガリッ


 智香は、口の中で転がしていたものを思いきり噛み砕いた。

 胸の内が、スッと晴れる。荒れ始めていた波が、凪ぐ。


(この姿を見たら、きっと、驚くでしょうね)


 従業員によって開けられる扉。まるでスローモーションのように、やたらとゆっくりに感じた。


「ああ――」


 自然と、視線が集中する。歓談に沸いていた親族の目が、凍り付いたように見えた。


「と、智香……?」


 母が絶句した声が聞こえた。智香は部屋をざっと見渡して、雄太が座っているところへ歩いた。夫は、目を伏せていた。

 あーん、と幼児の声が聞こえる。従兄弟のりょうが、小さな女の子を抱えていた。


 遼と会うのは何年ぶりだろう。今年で三十歳になる彼は、少し見ない間にすっかり父親らしい風貌になっていた。そういえば、二年前に子供が生まれたと聞いている。名前は確か、陽菜ひな。智香が陽菜に会うのは初めてだった。


「遼君、久しぶり。その子が陽菜ちゃんでしょ? ね、お顔、見せてよ」

「あ、えっと」


 隣に座っているのは嫁だろうか。食い入るように智香を凝視している。遼がいいかな? と聞いているのを見て、不快感を覚えた。

 久しぶりに会った親戚に、子供の顔を見せるくらいで、嫁の許可を取るだなんて。遼は嫁の尻に敷かれているのだろうか。


 智香は近寄ると、陽菜を抱き上げた。あ、と遼が慌てた声をあげるのも構わずに、智香は陽菜と目を合わせる。きょとんとした顔で見上げてくる陽菜は、とても可愛らしかった。


「ひーなちゃん、初めまして」


 ああ、子供って、どうしてこんなに可愛いのだろう。特に女の子だ。男の子と違って、抱き心地はふわふわと柔らかい。小さい子特有の、ミルクのような香りが鼻孔をくすぐる。じんわりと、温かい。


 女の子、可愛いなあ。次はやっぱり、女の子がいいなあ――智香がそう考えていると、陽菜の顔が瞬時にくしゃっと歪んだ。


「う、わああぁぁぁ」


 途端に、火が付いたように泣き出して、暴れる。小さな体のどこにこんな力があるのかというくらい、全力で智香から顔を背ける。バランスを崩しそうになって、必死に抱き抱えるのに、陽菜は逃げようと躍起になっている。


「こあいよ、やだ、こあい!」


 こあい――? 何を言っているのだろうと考えた矢先に、腕から重さが消えた。遼の嫁が、般若のような形相になって、智香から陽菜を奪い返していた。


「よしよし、もう怖くないですよー」


 優しい声とは裏腹に、目は智香を射殺してしまいそうなほど鋭い。二度と娘に近づくなと、口には出さずに顔で智香を脅していた。


(なにこの人、腹が立つ)


 智香の沸点は、すっかり低くなっている。遼にも、嫁にも、陽菜にさえ、怒鳴りたい衝動にかられる。

 人の顔を見て、怖い? 小さな子供とはいえ、いくらなんでも失礼すぎる。遼は、一体どういう教育をしているのだろう。


 口を開きかけた智香を遮ったのは、留袖姿の母だった。眉間に皺を寄せて、つかつかと智香に近寄る。


「智香、その顔は一体なんなの」

「何か変? 普通に、お化粧してきただけよ」

「嘘をつかないの! どうして、そんな整形だらけの顔に……!」


 母の声は震えていた。悲しいのか怒りなのかよく分からないが、顔が赤くなり、目が潤んでいる。

 女性陣は怒るかもしれない、とは思っていた。特に母など、昔の美貌は面影も無い。同世代と比べれば幾分か綺麗かもしれないが、それでも老いだけは隠しようがないのだ。


 今の智香は、実年齢に逆らった美を手に入れている。妬みによって感情を爆発させる者も、少なからずいるだろうと思っていたのだ。

 だから、智香は困惑していた。いくら何でも、想像していた反応とはかけ離れている。


 悲しそうな目、ぎょっとした目、引いている目。予想だにしていなかった色んな目に、囲まれていた。


「整形でも何でもいいじゃない。私、前より綺麗になったでしょう?」

「ふざけるな! 親から貰った体を、何だと思っている! よりによって、そんな化け物みたいな顔に!」


 父が唾を飛ばして怒っている。せっかく着ている燕尾服が歪み、今にもボタンがはち切れそうだった。


「は? 化け物?」


 父の言葉が信じられなくて、思わず聞き返した。


「自覚がないのか? その馬鹿みたいにでかい目と、尖った顎と、死体みたいな白い肌! 陽菜が怖がるのも当たり前だろうが!」

「な――んですって」


 目の前が赤くなる。耳の奥で、ぶちんと何かが切れたような音がした。足元から熱が上ってくるようだ。体が、火照りだす。


(頭おかしい、お父さん、馬鹿じゃないの)


 口を開きかけたその時、控室の扉がノックされた。熱くなりかけた両者の空気が、拍子抜けしたように冷める。


「失礼致します。新郎様、新婦様の仕度が出来たようでございます」


 若い従業員は、場の空気を読まない。笑顔ではあるが淡々とした口調でそれを言うと、一旦廊下に引いた。すぐに、主役の二人が部屋に入ってくる。


「まあ、彩香」


 銀色のタキシードを着た昌彦に手を引かれて、ウエディングドレスを着た彩香が入室してきた。

 幸せいっぱいの、満面の笑み。彩香が緊張した声音で「お父さん、お母さん」と言うと、控室に流れる奇妙な空気が一掃される。

 歓声に沸く部屋。父は、毒気を抜かれたように彩香に見入っていた。


「今日は、私たちのために集まってくれてありがとうございます。精一杯おもてなししますので、どうぞよろしくお願いします」

「綺麗よ、彩香。とっても綺麗」

「ああ、ああ。母さんの言う通りだ」


 涙ぐむ母の声。感極まった父の表情。

 親族が二人のもとに集まる中、智香は呆然とその場に突っ立っていた。雄太も亮平でさえも、智香を置いて主役の二人に駆け寄った。


 なんだこれは。

 一体どういう茶番なのだ。


 彩香と昌彦は、おめでとうと言ってくる人全員に、丁寧に挨拶をしている。その合間を縫って、ふと彩香が、智香を捉えた。

 姉妹は少しの間、見つめ合っていた。僅か三秒にも満たないくらいの、ほんのちょっとの時間だけ。


「あ」


 彩香は智香になんの声をかけることもなく、目を逸らした。さっきまで泣いていた陽菜は彩香を見て笑っている。


「もうお父さんってば、泣くの早いよ」


 父を見た昌彦が、もらい泣きをしている。それらを見た親戚が、どっと沸いた。温かい空気が、その場に流れている。


 ガリッ

 ガリッ ガリッ


 夢を砕くその音には、誰も気が付かなかった。

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