8

「いやあ、凄いなあ、お義兄さん」


 実家からの帰り道。未だ興奮冷めやらぬ雄太が、運転席でそう呟いた。

 智香は雄太の横顔を見た。夕日に照らされて、へらへらと笑っている横顔。頼りない顔が、もはや貧相にすら見えてくる。


「前から出来る人だって思ってたけど、やっぱりそうだった。日本に戻ってきて、俺の直属の上司になったりして、はは」


 能天気な笑い声が、神経を逆撫でする。


「何であなたは、そうなの」

「え、何?」


 解説してやる気にもならない。深々とついたため息で、智香が不機嫌だということだけは察したのか、雄太は静かになった。


(やりましたね! ……じゃなくて。あんたはどうなのよ)


 一流企業に勤める夫、雄太。義兄の出世をのほほんと一緒に喜んでいる場合なのだろうか。

 彼は、浜紅商事の社員という肩書に胡坐をかいている。いくら平社員のままでも、将来窓際族になってしまっても、浜紅商事の机にかじりついている限りは、社会的地位は揺るがない。


 だがそれは世間一般の話だ。智香が雄太に求めていたのはそんなものではなかったのに。

 別にこのまま昇進しなくてもいいじゃない。少なくとも、勝太郎よりは上だから――という理由は、今後通用しない。


 あろうことか勝太郎は、雄太の上になってしまう。それも上司と部下という、直接的な関係になるのだ。

 智香は再度、雄太の横顔を眺めた。


“智香ならもっといい男、いっぱいいるのに”

“正直冴えないっていうか――勿体ないなぁ”


 過去の友人たちの言葉が蘇る。

 何のために結婚したのか。雄太の顔ではない、その肩書と、専業主婦の地位を与えてくれたからだ。

 でも今や、その片方がぐらついている。いや、片方どころではない。智香はもう専業主婦では無くなったのだ。年収は、とっくの昔に雄太を超えた――。


 果たして、この男の価値は、どこにあるのだろう?

 考え出すと、止まらなくなった。同調するように、苛立たしさが降り積もる。

 勝太郎も彩香も、智香が欲するものを易々と手に入れていく。智香が考えるピラミッドを、いとも容易く打ち砕いていく。


――憎い。


「智香、どうした。きついのか?」


 運転しながら智香の顔をちらっと見てきた雄太が、驚いていた。

 否、その顔には恐怖が浮かんでいた。妻の顔を見て、彼は怖がっていた。

 智香の息は荒くなり、体中が熱を持っていた。夫を睨みつける目は血走り、噛み付かんとする勢いだ。


(別に、雄太なんか、いなくても)


 もっといい条件の男は、世の中を探せばいくらでもいるだろう。そうだ、次は医者がいいかもしれない。花田昌彦よりも見た目が良くて、もっと大きい病院の息子――


「ねえパパ。今度はじいちゃんちに泊まれるかなぁ」


 その時だった。後部座席から、あどけない声が聞こえてくる。雄太も智香もはっとなって、雄太は慌てて前を向いた。


「そ、そうだな。正月は泊まろうか。きっとじいちゃんもばあちゃんも、喜ぶよ」


 全身から、すっと熱が引いていく。鬼か何かが乗り移っていたような奇妙な感覚で、智香は自分の手で頬を包んだ。


(私――今、なんてことを考えていたの)


 自分で自分が恐ろしくなる。雄太に苛ついていたのは確かだが、熱に浮かされて尋常じゃない精神状態になっていた。

 雄太に出会わなければ、亮平には出会えなかった。雄太は、智香が大事に思う息子の、大事な父親だ。


(ダメ、怒りっぽくなってる。頭を冷やさなきゃ)


 陽が落ちかけて、あたりはすっかり夕闇色だ。濃い茜色の雲が空一面に広がって、人も建物も、黒いシルエットになっている。

 雑多な風景のその中に、それはひっそりと立っていた。


 巨大な体躯、異形の怪物。底無しの瞳と、口裂け女のように開いた口が、にやぁと笑って、智香のほうを見つめていた。

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