5
現金を手に入れて銀行をあとにした時に、陽光が差していないことに気が付いた。
見上げると、重厚感のある雲が凄い速さで空を覆っている最中だった。夕立でも降るかもしれない。
歩いて五分とはいえ、今智香は傘を持っていない。ゲリラ豪雨にでも打たれると、悲惨な目にあう。急いで戻ろうと眼前に視線を戻して、ぎょっとした。
あの幽霊が、立っている。
反射的に、怖気が走る。夢を買い始めて一ヶ月、あの幽霊を見るのもちょうど一ヶ月ぶりになる。
確かに今日は亮平の件があって、夢は買っていないけれども。一回買わないだけで出現するだなんて、やはり根本的に、智香の疲れと精神力は、回復力が衰えているのだ。
マインドウォッチを起動させるのも久しぶりだった。幽霊から目を離さずにいると、ピコンと小さな電子音が鳴る。智香のマインドゲージが測定された音だった。
小さな画面を見て、目を見開いた。
「五十三」
踊るバクゾウ君が示した数値は、五十三。――これまで決して超えることが無かった六十の壁を、超えてしまっていた。
「うそ、どうして」
夢を売る前の数字は何だっただろう。あの夢は、どれぐらい智香のマインドゲージを削いだのだろう。
分からない。最近はもう、起動すらしていない。
愕然としている智香を嘲るように、変化はすぐに現れた。
「ひ――」
ぼうっと突っ立っていた幽霊が、はっきりと、智香の方を振り向いた。
黒々とした、雌雄の判別がつかない肢体。ところどころに不自然な凹凸があって、子供が粘土か何かで練って作ったもののようだった。
煙のように揺らめいていたはずの体は、今やはっきりとした輪郭を描いている。向こう側は透けてみえない。不安定な幽霊だったそれは、形のある化け物となって、智香の前に現れた。
つるつるとした頭の上に、二対の耳。闇より深い眼孔。口がない――一瞬そう思ったが、すぐに気が付いた。
象のように太く、長い鼻が伸びている。胸のあたりまで垂れた鼻が、ぶらぶらと揺れていた。
智香は周りを見渡した。既に三時を過ぎた銀行内には、シャッターが下りている。運が悪いことにATMには誰もいない。
前の通りを車が過ぎているが、その化け物には誰も気づいていないようだった。歩道にも、通り過ぎる人が、いない。
「ひ……っ」
声が掠れた。智香の目の前で、化け物が、ゆっくりと歩を進めてきたからだ。
(動いた、なんで、どうして)
頭の中がパニックになる。とにかく逃げないと、そう思って病院とは反対方向に走り出した。
「っ、いった」
足がもつれて、勢いよく転ぶ。ビビ・ガリのスカートが裂け、智香の白い足がコンクリートを擦った。
歯を食いしばって立ち上がり、再び走る。頭皮に冷たい水滴を感じた数秒後には、雷の音が鳴り、土砂降りの雨が降ってきた。
後ろを振り返って、息が止まるかと思った。豪雨をものともせず、化け物は智香を目掛けてのしのしと歩いて来ていたからだ。
「来ないで、来ないで!」
無我夢中になって叫ぶ。智香の声は雷と雨の音にかき消された。
その時。車のライトが智香の目を射抜いた。道路に飛び出る勢いで近寄って手をあげて、開かれたタクシーの後部座席に転がるように滑り込んだ。
「お客さん、大丈夫? ずぶ濡れじゃないの」
タクシーの乗務員は、そう声をかけながら迷惑そうな表情をしていた。今の智香は、服からも髪からも、ぽたぽたと水滴を落としている。
「どこに行きましょ?」
「そ、そこの花田病院……一度降りるけど、待っててください、また、タクシーで帰りますから」
はぁい、と気の抜けた返事とともに、メーターボタンが押される。ラジオからは、演歌が流れていた。
「いやー、それにしても凄い雨だねぇ。さっきまでカンカン照りだったのに、数分でこれですもん。お客さんも災難でしたねぇ」
陽気な声も、右から左に流れていく。化け物は、このタクシーの進行方向にいるのだ。目が、離せない。
「あの、あれ、見えますか」
「はい?」
化け物は歩みを止めていた。運よくタクシーに乗り込んだ智香をじっと見つめて、突っ立っている。
二メートルはあろうかという巨体だ。どんなに目が悪くたって、確実に視界の中に入るはずなのだ。
バックミラー越しに、乗務員が不思議そうな目で智香を見る。指を差す方向を目で追った。
「あれって何のことですか。もしかして虹でも出てます?」
乗務員は目を凝らしている。うーんと唸り声が聞こえてきたところで、智香は肩を落とした。
ダメだ。見えていない。小さく何でもないと返事をして、膝の上で拳を握りしめた。
化け物の横を通り過ぎても、タクシーには何も手を出してこなかった。何事もなく通り過ぎ、一気に安堵する。
『……さん、はい、了解です。どうぞー』
ラジオの音に混じって、時折タクシー無線の音が聞こえる。ノイズに混じって、女性や男性のくぐもった声が、狭い車内に届く。
『……ぐだよ、も……ぐ……』
「うん?」
乗務員が不審そうな声を出した。ぼんやりと座っていた智香の耳に、それははっきりと聞こえた。
『もぅすぐだょぉ』
「あん? なんだこの声は」
聞き間違えるはずがない。ボイスチェンジされた人間のような、誰の不安も掻き立てるような、この声。
化け物は、タクシーのサイドミラー越しに、じっと智香を見つめていた。
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