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智香が病院についた時、長谷川と雄太が病室のパイプ椅子に座っていた。


「あ、須藤さん」


 智香に気づいた長谷川はぺこりと丁寧にお辞儀をしたが、雄太は智香を睨みつけた。慌てて先生にお辞儀を返し、ベッドの上の亮平に駆け寄る。


「今、寝ています。痛み止めが効いて安心したんだと思います」

「亮平……よかった」


 亮平はベッドの上ですやすやと寝息を立てていた。左の肩から腕にかけて、真新しい包帯が巻かれている以外は、いつもの亮平だ。

 智香はその場にへなへなと崩れた。張り詰めていた緊張が一気に解け、思わず涙ぐんでしまう。


「先生、ここまで付き添ってくれてありがとうございます。いざという時に頼りにならない親で申し訳ない」

「い、いえ。担任として当然のことをしたまでで」


 骨抜きになっている智香を皮肉るように、雄太は長谷川に深々とお辞儀した。声音に含まれる妻への抗議を敏感に読み取ったのか、長谷川は気まずそうに萎縮する。智香は、反論する気力が湧かなかった。


「須藤さん、一応幼稚園での出来事をご説明しますね」


 長谷川は病室の空気を変えたいのか、智香に話題を振った。

 園内で鬼ごっこをしていた亮平は、その逃げ場所としてジャングルジムに登っていた。鬼に追い詰められていた亮平は足を踏み外し、落下。亮平は左肩を強打したとのこと。慌てて駆け寄ったが、亮平がずっと痛みを訴えるため救急車を呼んだのだという。


「もっと私達が見ていれば」


 長谷川はひたすらぺこぺこと謝っていた。その様子にこちらが恐縮してしまい、しばしお礼と謝罪とお辞儀が相互に繰り返された。

 コンコン、と病室のドアがノックされたところで、やっと三人は顔をあげた。


「お揃いですか。担当医の花田昌彦です」


 病室にやってきた医者は、案の定、見たことのある顔だった。引き締まった体には全身を覆う白衣。さっぱりと整えられた黒髪に、この前は見なかった黒縁眼鏡をかけている。結納の時とはまた違った、理知的な雰囲気を醸し出していた。


 亮平の搬送先が花田病院と聞いた時から、嫌な予感はしていた。こうも予感が当たると、いっそ笑いだしたくなる。

 智香の横で、雄太が深々とお辞儀をする。


「どうも、こんにちは。この度は亮平がお世話になります……本当に、心強いです」

「顔をあげてください。いや、僕がたまたま空いてる時で良かった。話をしたいのはやまやまですが、一旦亮平君の状態を説明しましょう。どうぞ、別室へ」


 思わず智香が亮平を振り向いたところで、長谷川が気を利かせて口を開いた。


「亮平君は私が見ておきます」

「じゃあ、お言葉に甘えて……何から何まで、助かります」


 雄太の言葉に合わせて智香もお辞儀すると、二人は揃って昌彦の後をついていった。

 別室は、亮平の病室からそれほど遠くなかった。明るい乳白色の廊下を真っすぐ進んだ先にある扉をくぐると、三つの椅子が用意されていた。壁側に長机が設置されていて、パソコンやレントゲン写真をセットする装置が置かれている。


「どうぞ座ってください。すぐ準備します」


 言われるがままに腰掛けると、昌彦はてきぱきと準備に入った。仕事中だからというのもあるだろうが、この前とは違った落ち着きと柔らかさを身に纏っている。


「そんなに重大な怪我じゃないです、大丈夫。これくらいの男の子は元気いっぱいですから、誰でも通る道みたいなものなんですよ」


 複数のレントゲン写真をセットする間、二人を安心させるようにそう告げた。細身なのにどっしりとした構えと、低く落ち着いた声は効果があるようで、智香はそこでようやく息をついた。

 講義や会議等で使う指示棒と伸ばすと、写真の一部分をとんとんと叩いた。


「鎖骨がね、ほらここ。分かりますか」


 真正面から撮った写真。首から胸にかけて真っ白な骨がくっきりと浮き上がっているが、昌彦が示したのは肩に近い鎖骨付近だった。一見すると分かりづらいが、注意深く見てみると白い影が欠けているように見える。


「要するにひび、入っちゃってるんです。でも不幸中の幸いと言いますか、靭帯は切れてませんから、大がかりな手術をする必要はないですよ」


 昌彦は朗らかに笑い、順次説明していった。

 骨折にしては比較的軽い怪我で済んでいること、全治四週間で治ること、その間はクラビクルバンドと呼ばれるもので肩を固定する必要があること、その間は安静にしておくこと、等々。


「まあ亮平君のことは心配だと思いますが、こういった骨折は大人よりも子供のほうが早く良くなりますから。いつもの生活よりも少し慎重に行動してもらえば、すぐ良くなります」


 とはいえ、雄太と智香の沈痛な面持ちは変わらなかった。時折相槌を打ちながら、何度もお礼を述べる。本当に頼もしかった。

 一連の説明を終え、二人は亮平のいる病室へと戻った。


「パパ、ママ!」


 亮平はもう目覚めていた。両親の顔をみて、大きな口をあけてにかっと笑う。長谷川が二人の姿を見ると、立ち上がった。

 智香は長谷川に、病状を説明した。うんうん、と智香の目を見ながらしっかりと頷く姿を見て、心強いものを感じる。


「大事に至らなくてよかったです。園のほうでも、亮平君の事は注意して見守っていきますね」


 園に戻らねばならないという長谷川を見送ると、病室の空気がしんとする。智香はちらりと雄太の顔を見て、苦いものを感じた。

 雄太が最初に智香を睨みつけて以降、一度も目を合わせようとしてこないからだ。


「……亮平、大丈夫か。痛いだろ?」


 雄太はパイプ椅子を引き寄せて座ると、そっと息子の頭を撫でた。智香からは雄太の後頭部しか見えず、どんな表情をしているのか分からない。


「今日は、亮平が好きなミルクプリンを買って帰るからな」


 亮平の顔がぱあっと輝いた。息子が両親の間に流れる微妙な空気に気づいていないことに、少しだけ安堵する。

 病室の時計は午後三時半を指していた。雄太は立ち上がって智香を一瞥すると、「会社に戻る」と素っ気なく告げた。


「帰るの、何時ぐらいになりそう?」


 尋ねると、病室を出ようとしていた雄太は振り返ってまじまじと智香を見つめた。まるで不思議な生き物でも見るかのような視線に、つい苛々としてしまう。二秒、三秒と続く僅かな時間を長く感じてしまった。


「……さあな。仕事に穴開いちゃったし、何時になるか分からねえ」


 病室のドアが静かに閉められた。いつもと変わらない声音で言う雄太だが、その裏に込められた怒りは計り知れない。


(何あれ、感じ悪い)


 一度苛々してしまうと、止まらない。坂を転がる雪玉のように、急速に怒りへと変わっていく。

 きっと雄太は、雄太よりも時間に余裕のある智香が、ここまで対応が遅れたことに怒っているのだ。どうして仕事をしている自分のほうが、職場を抜け出さないといけないのかと、胸の中に不満を溜めているのだろう。

 お前、一体何してたの? 病室を出る前に智香を一瞥した目は、隠すこともなくそう語っていた。


(専業主婦だからって、何でもかんでも対応しろってわけ?)


 ほどなくしてやってきた看護師は、亮平につけるためのクラビクルバンドについてテキパキと説明と実践を行った。冷静に説明を聞こうと自分で自分を宥め続けているのに、頭の片隅が麻痺したかのようだ。

 火にかけ続けた鍋のように、苛立たしさがいつまでも落ち着かない。

 どうにかそのバンドの使い方を習得して帰宅しようとしたところで、財布の中身が乏しいことに気が付いた。


(そういえば、夢売りが終わったあとにATMに寄る予定だったんだ)


 いつもはある程度の現金を持ち歩いているのに、こんな時にないだなんて――舌打ちして、少しの間看護婦に亮平を預けることにした。

 銀行は、病院から歩いて五分の距離にある。自動ドアが開くと、真夏の熱と湿気をたっぷりと含んだ空気が智香に襲い掛かった。

 ため息をついて、足を踏み出した。

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