3

 智香はゆっくりと目を開けた。ぼやけた視界がいつまでも鮮明にならず、そこでやっと大量の涙を流していることに気が付いた。

 服を見下ろしてみると、いくつか涙の痕が出来ている。アダムは無言でティッシュ箱を差し出してくる。


「お疲れさまでした。今日も高値で買い取らせて頂きますね」

「うん……」


 ちょっとごめんなさい、と断って鼻をかむ。自分の目が腫れぼったくなっていることは、鏡を見ずとも分かった。かなり本格的に泣いていたようで、泣き疲れから智香のテンションは一向にあがらなかった。


 夢から覚めた今でも、悲哀の気持ちが残り香のように胸中に漂っている。見る悪夢によって様々な感情を持つが、今回は本当に辛かった。息子を失うだなんて、自分の身を切られるよりも恐ろしい。


「もうお昼を回っております。お疲れのようですし、一旦休憩されますか?」


 壁にかけられた時計の針は、午後一時を差そうとしていた。いつもより長く、夢を見ていたようだ。


「そうね。少し、休む」


 智香はこくりと頷いた。

 あまり食欲は湧かないが、何か食べたほうがいいかもしれない。


「頭、痛い……アダム、お水貰える?」


 だが、その前に頭痛薬だ。今にも割れそうに痛む。

 頷いたアダムはすぐに部屋を出た。智香は重い吐息を吐き出して、ゆっくりと身を起こすと、中央の部屋まで移動した。

 ソファまで移動すると、倒れるように座り込む。バッグのポケットを手探りして、硬いアルミの感覚を探し当てた。差し出される冷たい水をあおって、一気飲みする。


(近くに、パン屋さん、あったっけ)


 廃れた商店街でも、飲食店の一つや二つくらいはある。昔ながらのこじんまりとしたベーカリーだが、確かイートインスペースも兼ね備えていたはずだ。

 軽食くらいなら食べられそうだ。重い足を引きずって、智香は階段を上った。


(右と左、どっちに行けばいいんだったかな)


 狭い通路を歩きながら、商店街の地図を思い描こうとする。しかし、無理だった。頭の中に濃霧でもかかっているかのようで、単純なことさえしばらく頭に浮かばない。

 億劫だ。スマートフォンで店の場所を検索しようと、バッグの中を探った。


「……れ?」


 暗い画面が明るくなって初めて、膨大な数の着信と音声メッセージに気が付いた。

 朝十時過ぎを皮切りに、幼稚園から七件の着信と四件のメッセージ。それが終わった後に雄太からの着信が二十件、音声メッセージが七件。


「なに、これ」


 智香の背筋が一瞬で氷点下まで冷えた。震える手で、最初のメッセージを流す。


『須藤さんのご携帯ですか。あさがお組担任の長谷川です。亮平君のことでご連絡があります。至急折り返し下さい』

『あさがお組担任の長谷川です。須藤さん、気が付いたら早急に連絡下さい。幼稚園で、亮平君が怪我をしました。救急車を呼んでいます』

『須藤さん、……』


 切羽詰まった長谷川先生の声が、繰り返し流れる。次いで雄太のメッセージを流した。


『幼稚園から連絡貰った。とりあえず病院に向かう、気付いたら早く連絡してくれ』

『智香! どこにいるんだ、早く気づけよ!』

『お前どこで何をしてるんだ、家にいるんじゃないのか? 今すぐ病院に来い!』


 雄太は焦り、段々怒っていた。十二時半を最後に、ぱったりと連絡が途絶えている。きっと諦められたのだ。


「――っ!」


 智香の意識が一気に覚醒した。パン屋に向かうこと無く、そのまま駅に向かって走り出す。夢の中で感じていた悲しみがそのまま、とてつもない恐怖に変わる。

 きっとただの怪我だと自分に言い聞かせても、血に塗れた腕や白い棺、線香の香りがフラッシュバックした。


 亮平がいなくなるのは、夢の中だけで十分だ。


「っ、ああもう!」


 大通りの交差点で、長い事で有名な赤信号に引っかかる。早く変われと焦るほど、いつもの何倍も時間がかかっている気がして苛立った。

 いてもたってもいられずに、通りかかったタクシーを拾った。早口で病院の名前を告げて、あとは小さくなって、うずくまる。


「お客さん、大丈夫? クーラー寒い?」


 智香の様子をチラチラと見ていたタクシーの運転手が、気を利かせて声をかけてきた。智香は震えていた。別に寒いとは思わないのに、真冬に外に放り出されたかのように。


「い、いえ、大丈夫……お願い、急いでください」


 泣いて化粧が取れた顔はぐちゃぐちゃだろうし、露わになった素肌は、きっと血の気が引いて青くなっているのだろう。傍から見れば本当に、寒そうに見えるに違いない。

 運転手は、何かを察したようだった。それ以上何も言わずに、アクセルを一層踏み込んだ。


(亮平、亮平……!)


 ぎゅっと噛んだ唇が痛い。

 これは間違いなく、現実の出来事だ。

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