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”今日は、いつもの時間に帰ってこれますか? 晩御飯作って待ってます”


 送信ボタンを押すと、スマートフォンをソファに放り投げた。返事が来ても何となく見るのが怖くて、すぐに夕飯の支度に取り掛かることにする。返事がどうであれ、今日は気合を込めて作るつもりなのだ。


「ママ、遊ぼ」


 幼稚園から帰ってきたばかりの亮平が、おもちゃを片手に駆けよってきた。エプロンを素早く着ると、しゃがみ込んで亮平の目線に合わせる。ごめんね、と優しく微笑んだ。


「ママね、今から晩御飯作るから遊べないの。テレビの前で遊んでてくれる?」

「やだ、ママと遊びたい。お医者さんごっこしたい」


 こんな時に、亮平は駄々をこねた。最近幼稚園で流行っているというお医者さんごっこに、智香はもちろん雄太もよく付き合わされている。智香は時計をちらりと見ると、亮平と一緒にリビングに向かった。


「ほら亮平、今からムーン戦隊が始まるよ。見ないならテレビ消しちゃうけど、いいのかなー?」

「あ! だめ、見る!」


 机の上にあったテレビのリモコンを取ると、これ見よがしにひらひらと振る。亮平は焦ったようにおもちゃを投げ捨てて、テレビの前を急いで陣取った。

 ちらりと母を振り返る顔を見て、智香はこっそりと笑った。


(消さないよ。単純ねえ)


 今にも智香が電源を切るのではないかと気が気じゃない様子だ。おもちゃを放り投げたのは良くないことだが、今は亮平の興味をテレビに移すことのほうが優先だ。

 五時の時報とともに、画面が切り替わった。ムーン戦隊のテーマ曲が流れると、息子の興味は完全にテレビに移った。大きな画面の前を陣取ると、目の前のヒーローと同じ動きをする。


『ムーン戦隊、出動!』

「やー!」


 元気な声をしっかりと聞き届けて、智香は後ろで大きく頷いた。これで、家事の邪魔をされる心配は無くなった。


(もう……またこんなに散らかして)


 智香はざっとリビングを見回して、苦い顔になる。

 さっき片付けたのに、もうおもちゃが散らかっているのだ。先ほど亮平が放ったおもちゃを含めて一つ一つ拾い上げると、部屋の隅に置いている大きな箱を開けた。


「あ、バクゾウ君」


 その中の一つに、目を奪われた。おもちゃ箱の中に、可愛らしいバクのぬいぐるみがある。夢売りを始めた時、アダムに貰った例のぬいぐるみだ。

 智香はマインドウォッチを起動した。数字は、九十八になっていた。


(すごい効き目。夢を買って正解だった)


 胸を撫でおろす。おもちゃ箱を閉じて、亮平に気づかれないように台所に戻った。


(雄太、帰ってきてくれるかな)


 今日の晩御飯は、雄太と亮平の好物ばかりを作るつもりだ。スモークサーモンを使った海鮮サラダ、冷製コーンポタージュ、デミグラスソースのハンバーグ、手作りプリン。生ビールと亮平用のオレンジジュースも購入済みである。


 既にプリンやコーンポタージュは作って冷蔵庫の中で冷やしていた。サラダは混ぜて綺麗に並べるだけなので、メインディッシュのハンバーグ作りを始めることにする。


「っ、あいたたた」


 玉ねぎのみじん切りで目に涙が滲んだ。しかしそこはぐっと堪えた。

 亮平の口でも食べやすい大きさにまで細かく刻まねばならない。火を通せば甘くなるのに、どうしていつも痛い思いをせねばならないのだろう。


 アダムの提案による吉夢の再現は、智香が思っていたよりも遥かに効果覿面だった。

 ココアは、智香が高校生の頃に亡くなった。穏やかで人懐っこく、賢い犬だった。子犬の頃から飼っていた愛犬がいなくなった時は、家族皆で泣いたものだ。


 智香の口元が自然と緩んだ。夢の中で愛犬に少しでも会えたこと、ココアが幼い自分を引っ張って、色々な世界を旅したこと、まるでおとぎ話の主人公のように冒険出来たこと。


 そのどれもが、智香が抱えていた現実のストレスを一掃してくれた。

 目覚めた時の視界は、驚く程くっきりとした輪郭を描いていた。夢の館は、いつも薄暗い。急に視力が良くなったように感じた。呆然としすぎて、しばらく口が半開きになっていたことすら気が付かなかったほどだ。


 顔色が良くなった智香を、アダムは嬉しそうに見送った。薄暗い階段を昇ると、更に驚いた。世界が、極彩色に満ち溢れていたからだ。


(何これ、綺麗――)


 商店街の花壇に植えられた花が、日光を浴びてそよそよと風に揺れる。見上げた青空は雲一つない蒼穹で、息を飲んだ。何と、美しいのだろうか。

 どこかにいるのが当たり前になっていた幽霊の姿は、一切見かけなかった。

 家に帰って、今度は真逆の意味で驚いた。


「き、汚い……」


 玄関には三人分の靴が溢れて、揃っている靴が一足も無い。ふと床を見下ろしてみると、細かい髪の毛や埃が落ちているのが目についた。リビングの机の上には、漫画やティッシュを丸めたゴミなどの細かいものが散らばっている。


 慌てて家中を見回した。飲みかけのペットボトル、積み重なった新聞紙、あちこちに散乱した服、溜まった洗濯物、台所に放置してある汚れた食器。

 これほどまでに汚れていたのかと愕然とし、すっと肝が冷えた。


(雄太が、怒るはずだわ)


 頭に掛かっていた靄が一気に晴れた。

 ぐぅ、となるお腹。急激な空腹感を覚えて、ふと思う。

 お腹が空いたと感じることなんて、一体いつ以来だろう?


 思えばここ最近、まともに“美味しい”と感じていない気がした。どんなに高級な食材を使っても、どんなに味の濃淡をつけても、ただ胃に入っていくだけの固形物ぐらいにしか感じていなかった。


『塩辛かったり、甘ったるかったり――最近雑なんだよな、ほんと』


 雄太と喧嘩した時のことを思い出す。あの言葉は、智香に対して鬱憤を晴らすための言葉じゃなくて、本当に言葉のままの意味なのではないか。

 そこで、昨夜の晩御飯の残り物があったことを思い出した。いつもの味付けの、炒飯――のはずが、食べてみて思わず吐き出してしまった。


「何これ、あっまい……不味い」


 亮平が残さずに食べていたから、これがこんな味付けになっていただなんて、疑問にも思わなかった。自分はどうだっただろうと思い返そうとしたが、全く思い出せない。

 つまり、味なんて、何も感じていなかったのだ。


 塩や他の具材を加えて、どうにか食べられる味付けに工夫し、やっとのことで昼食を終える。付け合わせとして食べた卵のスープが、何故だか涙が出るほど美味しかった。

 こんなものを食べさせていただなんて、二人に申し訳ない――さすがの智香も、これには反省せざるを得なかった。


 時計を睨みつけて頭の中で素早く計画を立てると、家の中の窓を開け放って換気を行った。

 それから、急いで大掃除を行った。洗濯機や食洗器とともに、智香もフル稼働で家事に追われた。

 それが終わると最寄りのスーパーに駆け込んで、ありとあらゆる食材を買い込む。亮平が好きなお菓子も、いつもは一つのところを三つも買ってしまった。


 どうしてあんな男と結婚したの、智香ならもっといい男とくっつけたのに――結婚当初、どころか、今でもたまに言われる言葉だ。

 だって一流企業勤めだし、専業主婦でもいいって言ってくれるもん。


 友人へは、いつもこう返している。智香だって本気でそれを願っていたし、今もその思いは変わらない。

 でも、本当にそれだけで雄太と結婚したのかと言われれば、すぐに首を縦に振れない自分がいるのも、本当だった。


 私は、その肩書と自分が自由でいられる地位を欲しているだけなのに。馬鹿な男。

 これだけ一緒にいるのだから、雄太だってそんな智香の気持ちを薄々感じているだろうに。

 それでも雄太は、付き合い当初から変わらない愛を智香に、そして亮平に注いでくれる。


「……」


 智香の脳裏に、母の言葉が蘇った。


“中途半端なのよねえ、あの子”


 両親は、それを智香に聞かせるつもりは無かったはずだ。皆が寝静まった深夜に、たまたまトイレに起きた智香が、たまたま明かりのついたリビングの前を通った時に、漏れ聞こえてきたものだから。


 今日見た吉夢は、智香が十歳の頃に見たものだった。それを聞いたのも、ちょうどその頃だ。兄は十二歳、彩香はまだ二歳。二人とも、それぞれの長所の頭角は既に現れていた。

 中途半端という単語が、十歳の智香の胸を打ち砕いた。兄ほど頭は良くないし、妹には到底敵わない容姿。そんなことは自覚していたけれど、目を背けていた。


 どちらも智香にとっては自慢の兄で、妹だったから。

 でもその一言で、その日から、現実と向き合わざるを得なくなったのだ。

 小さいころから、徐々に両親が落胆していくのを実感していた。妹が生まれてからは、更に加速した。


 せめて、夢の中では家族で仲良くしていたい。


『大事なのは、家族みんなが元気で、笑っていられることなんだからな』


 せめて、夢の中くらい、そんなことを言われたい。みんなの話を聞きたい、私の話を聞いてほしい。

 そんな思いが、あの楽しい夢を、見させたのかもしれない。


「ママ、パパのお電話鳴ってるよー!」

「! あ、ありがとう」


 リビングの亮平が、ご丁寧に知らせてくれた。この場合の”パパのお電話鳴ってるよ”は雄太からの返事が来たことを意味している。雄太用の着信音を、亮平が覚えているからだ。


 手を洗うと、一つ大きく息を吐いた。夫からの返信に、とても緊張する。

 見たいような、見たくないような変な気持ちだった。それでも気になって、ソファに向かう。怖いと思っていても、やっぱり気になるのだ。


”今日の仕事は早めに切り上げた。もうすぐ家につくよ”


 素っ気ないけれど、雄太は返事をしてくれた。胸の内にじんわりと安堵感が広がり、一人笑顔になる。まだ繁忙期のはずだが、きっと智香のメールから何かを察したのだろう。

 智香はテレビに夢中になっている亮平に、声をかけた。


「パパね、もうすぐ帰ってくるって」

「ほんと? やったぁ」


 亮平が笑顔になる。彼は、雄太を恋しく思っているはずだ。

 何せ最近は、亮平が寝る時間になっても雄太は帰ってこない。智香は最近、仕事に向かう雄太を名残惜しそうに見送る亮平が気になっていたのだ。口では何も言わない子だが、いつも寂しそうに口を尖らせている。


「パパとお医者さんごっこする!」

「うん、沢山遊んでもらおうね」


 口を大きくあけてにかっと笑うと、智香にそっくりな笑顔になった。あまりに可愛くて、智香の顔もほころんだ。


「あ、れ」


 気づけば、一筋の涙が頬を伝っていた。


(なんで、私――)


 亮平に見られないように顔を背けて、台所に戻る。切りかけの玉ねぎがまな板の上に転がっているが、独特の目の痛みは感じない。

 何故涙が流れているのか、不可解だった。拭っても拭っても、堰を切ったように涙が溢れてくる。


――ただいまー。


 玄関から夫の声が聞こえた。確かにもうすぐ帰ると書いていたが、まさかこんなに早く帰ってくるとは。


「ぱーぱ! おかえり!」


 喜びの声をあげる亮平が、大好きなムーン戦隊そっちのけで、玄関に走っていく。


「おー、ただいま亮平。いい子にしてたか?」


 きゃはは、と笑い声が聞こえる。智香が玄関につくと、スーツ姿の雄太が、亮平を抱き上げていた。弾けるような笑顔を浮かべる父子の光景が、智香の目に焼き付いた。


「おかえり、なさい」


 静かに声をかけると、雄太は気まずそうに笑った。


「……ただいま。すっげー美味しそうな匂いがする」


 何日ぶりの会話だろう。絶妙なタイミングで、ぐうう、と誰かの腹の虫が鳴く。ぎょっとした顔の雄太と、目と口が大きく開いた亮平。二人は目を見合わせて、示し合わせたようにげらげらと笑った。


「パパのお腹、凄い音したよ」

「いや、今の亮平だよ。パパじゃないよ」

「ちーがーう、僕じゃないよ、パパだもん!」

「お前ね、誤魔化すなよ」

「……ふ」


 自然と笑みが零れた。雄太と亮平は、ぼやける視界の中でまだ言い争っている。

 かつて父や母は、幼い智香をあんな風に可愛がってくれた時期があっただろうか。

 あったとしてももう、妬みや恨みが積み重なって、記憶の奥底に押し潰されてしまっている。心の中のどこを探しても、今の亮平のような笑顔を浮かべる智香は、見当たらなかった。


 久しぶりに、寂しさが蘇る。

 亮平だけには、こんな思いをさせたくない。

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