3
ゆっくりと目を開けると、目の前に澄み渡った青空が広がっていた。
大空に無数の羽根雲が浮かび、その中を小鳥が舞う。爽やかなそよ風が甘い香りを運び、どこからか陽気な音楽が聞こえてきた。
智香はゆっくりと体を起こして驚愕した。智香は、地平線まで広がる花畑の中で寝ていたのだ。
色とりどりの花が、風を受けて右に左に揺れている。本当に美しい風景だった。
「智香ちゃん」
不意に名前を呼ばれて、智香は後ろを振り返った。
「ココア!」
ちょこんと座って智香をじっと見つめていたのは、昔実家で飼っていたゴールデンレトリバーのココアだった。名前を呼ばれると嬉しそうに尻尾を振りながら、近寄ってくる。
「わ、くすぐったいよ」
ココアは智香の顔をべろんと舐めると、そのままぐるぐると智香の周りを走り始めた。
ひとしきり走ると満足したのか、智香の目の前で再びお座りした。愛くるしい顔が智香を見つめて、まるで笑っているよう。愛犬が人の言葉を話していることを不思議がるよりも嬉しく思い、思わず手を伸ばしてぐりぐりと頭を撫でた。
「智香ちゃん、一緒に旅に出よう」
「旅?」
しばらく智香のされるがままになっていたココアは、不思議がる智香を前にそう告げた。愛犬は立ち上がると背中に回って、ぐいぐいと頭突きを始める。
「何、何?」
「智香ちゃん、智香ちゃんには羽が生えてるじゃない。空を飛ぼう」
羽? とオウム返しに唱えて、反射的に背中を振り向く。そこで初めて気が付いた。自分の背中から、純白の翼が生えている。薄っすらと光り輝いているそれは、智香の意思に応じて動かすことが出来た。
「! すごい!」
ココアの頭突きにも耐えかねて、智香は立ち上がった。試しに翼を使って動いてみると、難なく飛ぶことが出来る。一つ羽ばたくと、体が重力に逆らって少しだけ浮いた。
ふと、脳裏にとある記憶が浮かぶ。白黒の荒い映像の中を、白い服を着た人たちがぽんぽんと飛ぶように歩く光景。確か、地球人が初めて月面を歩いた映像だ――今の智香には、難なくそれと同じことが出来そうだ。
「さあ、行こう。世界は広いんだよ」
ココアは走り出した。慌てて追いかけるが、先に智香の方が宙に浮いてしまう。しかし愛犬は構わず地上を走っていた。一体どうするんだろう――そう思いかけた矢先に、まるで飛行機が離陸するかの如くココアの両足が地上を離れた。すぐに、智香の横に並ぶ。
「ほら、もっと高いところに」
いくら飛べるとはいえ、智香の足は竦んだ。翼を動かせば動かすほど、高度が上がる。一つ一つの花が米粒のように小さくなっていく。お構いなしに上を目指すココアと地面を見比べて、それでも愛犬を信じて上空に突き進んだ。
「あれは何?」
やがて一人と一匹は、空に浮かんでいた雲が同じ目線になるまで昇った。さっきまで智香が寝そべっていた花畑が、とうに後方に見える。
どこまでも続いていると思われた花畑も、上から見てしまえばちっぽけに見えた。その先に広がる広大な海や、霞んで見えるいくつかの島影に目を惹かれつつ、空の中にきらりと光る何かを見つけた。
ココアは一回だけ振り返ると、ぶんぶんと尻尾を振ってその光に向かって進んだ。その表情が、犬なのに意味ありげに笑ったように見えた。
「何だろう、すごく大きい……
ココアが何も言わないので、智香は遠目からそれが何なのかを探った。近づくにつれ大きくなるそれは、いつかテレビで見た鯨の形によく似ていた。
ただし、本物の鯨とは全く違う見た目をしていた。背中側は瑞々しい桃のような淡紅色、腹側は透き通った湖のような薄水色だ。陽光を受けて全身がきらきらと輝いている上に、向こう側が透けてみえた。
まるで、ラメが入ったガラスの置物だ。だがその鯨が生き物である証に、胸ビレや背ビレを動かして大空の中を優雅に泳いでいた。
あっけに取られている智香をよそに、ココアはどんどん近づいていく。鯨のほうも智香達に気が付くと、大きな目が少しだけ細くなった。優しい表情で、出迎えてくれようとしている。
「すごい、すごい……!」
「あそこに降りよう。ほら、人がいる」
見たことも無い光景にはしゃぐ智香を、ココアは嬉しそうな声で誘導した。よく見ると、鯨の背中に船のデッキのような空間がある。
頭側のほうに南国の木がいくつか生えていて、ヤシの木の他にバナナやマンゴーが生っている木も見えた。赤や黄色のハイビスカスが至る所に咲いていて、陽射し除けのパラソルがいくつか出ているのが見える。
ココアが言うようにちらほらと人影があり、智香達に大きく手を振っていた。
「ようこそ君たち。よく来たね。僕の名前はジェームズだ」
智香達が降りたった時に出迎えてくれたのは、品のいい中年男性だった。無駄な贅肉が無いスラっとした体には、ベージュのチノパンとブルーのアロハシャツを身に着けている。同じくブルーの瞳に、高い鼻筋。栗色の髪の上には小綺麗な麦わら帽子を被っていた。
真っ白な肌に笑い皺を刻んで、にっこりと笑いかけてくる。智香の父親程の年齢なのに、惚れ惚れとしてしまいそうな甘い笑顔である。
「初めまして、智香です。一体ここは、何ですか?」
自分でも分かる程には、声が上ずっていた。ジェームズはそんな智香の様子を見て、くすりと笑った。可愛い姪っ子でも相手にしているかのように、大きな手で智香の頭をゆっくりと撫でる。
「ここはね、世界の真ん中だよ」
智香は小首を傾げた。ジェームズはチノパンのポケットをごそごそとまさぐると、智香に手を出すように言った。
言われるがままに右手を差し出す。手を取ると、細い人差し指にゆっくりと指輪を嵌めた。
金色のリングに、紅い宝石が一粒埋め込まれている。智香の胸は高鳴りっぱなしだった。
「これを君にあげよう。この石が君を、ここに導いてくれる」
ジェームズは腰を落として、智香と目線を合わせた。
この指輪は、世界中のどこにいても智香が望めば道を示してくれること。困ったことがあれば、電話のようにいつでもジェームズと繋がることが出来ること。今すぐに帰りたいと強く願えば、智香を一瞬でここまで飛ばしてくれること。
「勿論、帰るときはココアも一緒だよ。それに、旅の途中で出会った友達も、君が望めばここに連れてきていい。君の部屋は既に用意してあるから、いつまでも休んでいいし、いつ帰ってきてもいい。ここでは何をしても、自由だよ」
「あの、でも。私、学校があるの。それに、家に帰らないとお母さんに怒られちゃう」
浮かれていた智香の心に浮かんだのは、小学校と母の顔だった。こんなに楽しそうなことを言ってくれているのに、変なところで真面目だ。
期待でむくむくと膨らんでいた風船が、急速に萎んでいくようだった。
「君は良い子だね。学校に行きたいのなら、それでもいい。でも、行かなくてもいいんだよ。先生もお母さんも怒らない。いいかい? 一番大事なことは、毎日を自由に、楽しく過ごすことなのさ。ほら、後ろを見てごらん」
言われて智香は振り返った。驚愕に、目を見開いた。
「お母さん、お父さん、お兄ちゃん、彩香」
「大丈夫よ、智香」
いつの間にか両親と兄が立っていた。母は赤の、父と兄は青のアロハシャツを着て、優しく微笑んでいる。母の腕にはまだ幼い彩香が抱かれていて、おしゃぶりを咥えて智香に手を伸ばしていた。
「智香の自由にしなさい。毎日楽しく過ごしましょう」
「そうだぞ智香。皆で旅に出かけような」
「でもな、危ないことをしちゃダメだぞ。大事なのは、家族みんなが元気で、笑っていられることなんだからな」
萎んだ風船が、再び膨らみ始めた瞬間だった。
智香は横にお座りしていたココアと目を合わせて、勢いよく抱き着いた。子供らしい嬌声をあげて、今度は智香がココアの周りをぐるぐると走り回る。両親もジェームズも、にこにこと笑いながらその様子を見守っていた。
智香はココアとともに旅に出た。可愛らしい小人がたくさんいる森へ、聡明な王子と邪悪な魔女がいる城へ、光り輝く宝石に満ちた洞窟へ、水龍の住まう海の底へ。
ココアと一緒に、時に仲間を見つけて、疲れたら鯨の背中で休憩をとり。兄と一緒に彩香をあやして、両親に旅の思い出話を夜通し語った。
毎日が楽しく、波乱に満ちた冒険がいつでも智香を待っていた。
(ずっとずっと、この生活が続きますように)
満ち足りた生活。普通の生活じゃ味わえない充足感。次なる冒険に心を踊らせて、智香の意識は沈んでいった。
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