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「おはようございます、須藤様。あれっ、何だかお疲れですか?」

「……うん、分かる?」

「ええ、分かります。辛そうな顔をされていますよ」


 アダムの眉がハの字になっている。おもむろにごそごそとジャケットの中を探ったかと思えば、黒い包装紙の飴を差し出す。表面に“黒糖飴”の文字が書かれていた。


「今、こんなものしか無いんですが」


 目が点になっている智香に、なおも心配そうな顔をしている。至って真面目だ。


「ありがとう……」


 アダムの気遣いが嬉しかった。素直に受け取って口に含むと、優しい甘みが口の中に広がる。思わず、笑みがこぼれた。


「何かお悩みでも? 私でよければ、聞きましょうか」

「三日くらい前なんだけど、旦那と大喧嘩して。それ以来、うちの雰囲気が悪くてね……」


 智香は思わず、アダムに愚痴を零した。例の喧嘩以来、雄太とは必要最低限の言葉しか交わしていなかった。

 おはようやいってきますの挨拶も亮平にしかしないし、夕飯は外で済ませているらしい。そんな抵抗も、つい冷ややかな目で見てしまう。一旦ちっぽけな男に見えてしまうと、もう全てが小さく見えてしまっていた。

 そっちがその態度ならと、智香も雄太の食事を作らないようにしていた。


「息子様は大丈夫なんですか?」

「うん、多分……あんまり教育には良くないから、早いところ仲直りしたほうがいいんだろうけど」


 智香はため息を漏らした。表面上はいつも通りを取り繕っているものの、亮平も両親の間に流れる空気を感じているらしい。

 心配そうに雄太と智香を見ているし、何よりいたずら好きの亮平が大人しいのだ。いつも以上にいい子にしている。


 智香が気がかりにしていることは、他にももう一つあった。

 アダムの前で、マインドウォッチを起動する。数秒後に示された数字は、六十九となっていた。

 一緒になって見ていたアダムの顔色が変わる。やはり、この数値は良くないようだ。


「最近この数字が、八十以上に戻らなくなったのよ」


 頻繁にこれをチェックし始めたのは、例の幽霊が見え始めてからだ。八十を切っている時は必ずどこかに幽霊が出現するという法則を見出してからは、毎回起動している。


 ところが、更に妙なことに気が付いたのだ。夢売りを行った直後はもちろん低くなるのだが、前までなら回復していたはずの数字が、確実に戻りづらくなっているのである。

 だから、幽霊を見る回数が増えた。さすがに六十を切らないよう慎重に見ているものの、数値が低ければ低いほど幽霊の色は濃さを増し、時に声が聞こえてくる。


 一体これが六十を切ったとき、何がどうなるのか――怖くて、身震いする。

 一通り智香の悩みを聞いたアダムは、ふーむと声を漏らした。嫌な顔一つせずに聞いてくれる存在は貴重だ。


「そうですか……。うーん、やはりマインドゲージの数字が気になります。何か、変化はありますか」


 智香はありのままを話した。相槌を打ちながら真剣に聞いてくれるアダムの存在は心強い。今や夢売りは、智香にとってはなくてはならないものとなっている。なるべくなら、安心して取引を続けたい。


「なるほど、幽霊。見たくないですよねえ……。もう一個食べます?」

「い、いえ……まだ食べてるから、大丈夫。ありがとう」


 真面目な顔でもう一つ飴を差し出されて、たまらず智香は噴き出した。智香にとって、今やアダムが一番身近な存在になっていた。誰にも言えない気持ちを吐いても受け止め、励まし、応援してくれる。


 買主と売主という関係もあるのだろうが、智香はアダム個人に対して親しい友人に近い感情さえ抱いていた。胡散臭いピエロという印象が、気楽に何でも話せる友人にまで格上げされている。

 アダムは智香の様子を眺めた後、意を決したように小さく口を開いた。


「それは、疲労度と精神力を表す数値です。やはり今の須藤様は、かなり疲れが溜まっているようです。そこで一つ、提案がございます。いつも利用して下さる方限定のオプションになるのですが」

「ん、何?」


 アダムは机の上に置いてあったタブレットを起動させると、作業を開始した。やがて智香の目の前に差し出された画面は、淡いクリーム色だった。

 おや、と智香は首を傾げた。基本的に夢売りの背景色は黒一色なのだ。こんな色は初めてだ――と思っているうちに、二つのURLが浮かび上がる。

 視線を上に戻すと、アダムが微笑んだ。


「一番最初に、これまで須藤様が見てこられた夢をスキャンしたこと、覚えていますか? 実は私が調べ上げた夢は、悪夢のみではございません」

「……?」

「人が見る夢にも色々とありまして、凶夢や悪夢といったものの他には吉夢、上夢、瑞夢というものがございます。分かりやすく言うなら、悪い夢と良い夢のことですね」


 智香は頷いた。アダムはソファの後ろにある棚から、ペンと白い紙を取り出すと、夢の種類を五つ書き並べる。凶夢と悪夢を一つの円で、他の三つを一つの円で囲ってグループ分けを行った。


「獏様が好まれるのは、こちらの悪い夢です。ですからこれまで、須藤様に貴重な悪夢を売って頂いてたのですが」

「うん。良い夢のほうは、アダム達には要らないものでしょう?」

「その通りです。我らにとっては、良い夢はいわば不必要。ところが夢を見る方にとっては、悪夢よりも吉夢のほうが見たいですよね?」


 アダムの言う通りだ。どうせ夢を見るなら、悪い夢より良い夢を見たい。尤も今の智香は悪い夢がそのまま売上に繋がるので、その限りではないものの。


「良い夢は、その人に幸福感をもたらします。目が覚めて欲しくないと願う程の良い夢は上質な睡眠に繋がり、結果としてその方の健康に繋がってくるのです。ここまでご説明したところで――こちらのURLの意味、何となくお分かりになりましたか?」


 アダムが意味ありげに微笑む。

 優しいクリーム色の背景に浮かぶ二つのアドレス。疲れを訴える智香に、吉夢の説明を行ったアダム。このアドレスは、悪夢に繋がるものじゃない。


「ただ、ご利用の前に注意点がございまして」

「注意点?」

「何度も申し上げているように、吉夢は獏様に不必要なものですから、買取は行えません」

「あ……それはそうね」

「それから、我らの夢システムを利用することになるため、利用料をお支払い頂くことになります。利用料は悪夢の買取と同様、上質であればある程高額になっていきます」


 智香は目を瞠ったが、すぐにこの取引に納得した。それと同時に、ずっと謎だった彼らの資金源も把握することが出来た。


「ご利用頂いた方の話ですと、それは素晴らしい目覚めだということです。やはりお疲れの方のご利用が多いのですが、私から見ても目が覚める前と後とではお客様の顔つきが全く違うんですよ。今の須藤様に、ピッタリかと」

「そうねえ……」


 智香は二つのURLを見比べた。察したのか、アダムが一つずつ解説を入れる。まず上のアドレスを指さした。


「こちらは、十六歳の頃に見たものです。その時片思いしていた方に告白されてお付き合いする夢ですね。もう一つは十歳の頃に見たものです。空を自由に飛んで、色んなところを旅するものでした。こちらもとても楽しそうですよ。

 初回ですから、どちらもお値引きさせて頂きます。いかがですか?」


 智香は静かに息を吐いた。改めて自分の体調を考えてみると、智香自身も疲れが溜まっていることを自覚する。夢売りによる精神的な疲れの他に、本来の睡眠時間のズレも生じていたからだ。


 昼に睡眠をとっているから夜は眠くないのだが、家族に不自然に思われても嫌なので無理やりベッドに入る。しかしやはり真夜中に起きてしまい、中途半端な状態で朝を迎える――こんな生活が続いていた。

 睡眠サイクルの乱れによって、肌荒れや気怠さを引き起こす他、ちょっとしたことでも苛つきやすくなっているのだ。


 加えて今回の大喧嘩。安らげる居場所であるはずの家で全くくつろげず、ピリピリとした空気が漂い続けている。休息が必要なことは十分理解出来た。


「……じゃあ、空を飛んでみようかな」


 智香の言葉ににっこりと笑ったアダムは、いってらっしゃいませと軽やかに告げた。

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