第五話
1
「え、今日のおかずこれだけ?」
帰宅するや否や発した夫の第一声はそれだった。
思わずむっとした智香だが、雄太の顔を見て反論を控えた。いつもより声のトーンが低く、目の下が青黒くなっている。ここ最近仕事が立て込んでいるらしく、雄太の帰宅は連日九時を過ぎていた。
今日の帰宅は十時半。亮平は既に二階で寝かしつけていた。
「ごめんね」
確かに彼の言う通りなのだ。一汁三菜を心がけている智香だが、その日は一汁二菜になってしまったし、準備したおかずだって冷ややっこと野菜炒め。肉や魚などの脂っこいものが好きな雄太には物足りないだろう。
智香は努めて冷静に謝った。食べる時間が遅いから脂っこいものは体に悪いわよとか、最近目立ってきたお腹のためにカロリー控えたほうがいいんじゃない、とかいう台詞はぐっと胸の内に仕舞いこむ。火に油を注いではいけない。
そもそも智香だって疲れているのだ。
ここ最近、午前中に一つ、午後に一つの夢売りを行っている。精神的にぐったりとする日が続いていて、そんな中で雄太の食事を用意しているのだ。余計な喧嘩をして、現実でも精神をすり減らすのはごめんだった。
(面倒くさい。黙って食べてよ)
本当なら晩御飯すら、自分で用意してと言いたい。それをわざわざ作ってやっているだけでも、ありがたく思ってほしいくらいだ。
雄太はしばらく不満そうに口を尖らせていたが、ぼそぼそと食前の挨拶を言って食べ始めた。
だが、顔にはまだ不機嫌そうな表情を浮かべたままだ。
智香は先に夕飯を済ませていたため冷茶だけ準備し、雄太の前の席に腰掛けた。いつもならその日の仕事の話や雑談を交わすのだが、今日はそれも無い。
何となく重い空気がリビングに漂う。
『何やお前、しばくぞぉ⁉』
テレビから、お笑い芸人の甲高い声が聞こえる。どっと沸く会場の笑い声が、今の須藤家には場違いだ。
雄太が口を開いたのは、番組のCMの合間だった。
「最近さ」
「ん?」
「何かおかしくない? お前」
黙々と野菜炒めを食べていた雄太が、咀嚼しながら喋りかけてくる。ちらりと見える口の中の食べ物を不快に思いながら、続きを促した。
「何かって、何?」
「飯が雑」
智香は凍った。雑ってなんだ、ちゃんと用意してるじゃないか――そんな智香の思いを読み取ったのか、頭を緩く振りながらため息を吐いた。ビールで食べ物を押し込むように飲み込むと、軽く智香を睨みつける。
「おかずが少ないの、今日だけじゃないじゃん。献立だってただの炒め物とかが多いし」
「……は?」
「それにさ、見ろよこれ。キャベツに火が通ってない。他の日だってそうだ。塩辛かったり、甘ったるかったり――最近雑なんだよな、ほんと」
抑えていた怒りがむくむくとこみ上げる。智香の表情が変わってきていることに気づいていないのか、酒が入った雄太は止まらなかった。アルコールで赤らんだ顔で、缶に残ったビールをグラスに注いでいる。
「
雄太が仲良くしている同僚の名前だ。よく雄太の話に出てくるし、須藤家に来たこともある。彼は半年前に結婚したばかりだった。
「すっげー美味そうなの。肉とか魚とかだけじゃないんだよ、色んな野菜を使ってて綺麗なんだ……ほら、彩りってのかな。それがもう羨ましくてさ」
「だったら楠本さんに作ってもらえばいいじゃない。私のは不味くて食べられないんでしょう?」
その発言を受けたところで、彼はやっと智香の顔を見た。般若の形相になっている智香を見ても怯まず、更に強気に睨みつけてくる。どうやら雄太も、引く気が無いらしい。
「作る気はさらさらございません、ってか。よくそんな態度取れるよな」
「そっちこそ、作ってもらってる立場で言う言葉じゃないでしょう。文句あるなら食べなきゃいいのよ。私だって作りたくない」
「ンだと?」
語気が荒くなる。雄太は左手で机を叩いた。
「俺が知らないとでも思ってんのか。お前、今月のクレジットカードの請求、いったい幾らになったと思ってんだよ?」
雄太の目が据わっている。乱暴に立ち上がると、サイドボードの上にある封筒を持って来た。その封筒に見覚えが無く、智香は訝しむ。
食卓の上に投げ捨てるように置かれたそれは、智香宛の請求書だった。封を
乱雑に破かれたその見た目が、智香の神経を一層逆撫でした。
「最低、勝手に見たの⁉」
「何とでも言え。バッグ、財布、ヒラヒラした下着……ここ最近、高そうなものばっかり買ってて気になってたんだ。そしたら案の定これだよ。一回の請求六十万って何? ふざけんのも大概にしろよ」
雄太の言葉も熱を帯びている。ここまで機嫌を損ねている彼を見るのは、新婚旅行で大喧嘩して以来だろうか。
「これ、どうやって払うわけ。金がいきなり沸いて出てくるとでも思ってんの? 無駄遣いばっかりしてんじゃねえ!」
「これは全部自分で払います、個人の買い物に口出ししないで。勝手に見たこと謝ってよ!」
「だから、どうやって払うのって聞いてんだよ。ただの専業主婦が貯金崩さないで払える金額とでも思ってんのか?」
雄太の口元が歪み、嘲笑が浮かぶ。ただの専業主婦という言葉に、智香は愕然とする。
結婚したら仕事をやめてもいいと言い出したのは雄太だ。なのに一体何故、こんな言われ様をされなければならないのか。
まさか、本音では働いてほしかったとでも言うつもりなのだろうか。
唖然としている智香をよそに、酔った雄太は言葉を続ける。いくらアルコールが回っているとはいえ、普段の彼は滅多なことでは怒らない。この請求書が、よほど逆鱗に触れているようだ。
「自分の貯金からって言っても、結局俺の稼ぎから貯めたへそくりだろ? つまり、元の出処は俺じゃん。だったら俺は見たこと謝らないよ、どうせ俺が払うことに変わりないんだし」
「っ」
違う、きちんと自分で稼いだお金だ――その言葉が喉元まで出かかって、寸前で飲み込んだ。
六十万円くらいで騒ぐ雄太が、小さく見える。同額の請求が何か月も続いたって、今の智香なら余裕で支払えるのに。
何と返すべきかと考えている智香のことを、言い返す術も無く黙っていると勘違いしたらしい。頭を振りながら「話にならないな」と呟くと、盛大なため息を吐いて請求書を見下ろした。智香は酒臭い吐息に顔を顰めた。
「……とりあえずこの請求、分割払いにしよう。ネットからなら出来ただろ、確か」
そんなことしなくてもいいとは、智香は言えない。分割払いにする件については、渋々了承することにした。
「智香」
腹の虫が収まらず、智香は返事をせずに睨みつけた。智香に対して怒りをぶつけたことが、多少のストレス発散になっていたのかもしれない。不機嫌そうなままだが、先ほどより熱が引いていた。
「家事は疎かだし、こんな買い物するし。もう少しマシな専業主婦になってくれよ」
「――はあ?」
智香の中で、何かが弾けた。今日の雄太は、どうしてこんなに上から目線で物を言うのだろう。
別に、雄太におんぶにだっこで生活させてもらっているわけじゃない。確かに以前はそうだったかもしれないが、今は確実に違う。本当は、雄太の何倍も稼いでいるのだ。
「……の、くせに」
「え、何?」
唇がわなわなと震えていた。ここまで体が熱くなるのは、一体いつぶりだろう。
「安月給のくせに、偉そうにしないでよ」
自分の中でブレーキが外れた瞬間だった。気づいた時にはもう、言ってはいけない言葉を吐いた後だった。
「……何だって?」
「聞こえなかった? 安月給のくせに偉そうにしないでって言ったのよ」
もう止まらなかった。沈みかけた雄太の怒りがまたしても最高潮に達しているのが分かったが、智香だって引く気はない。
先に引き金を引いたのは、雄太のほうだ。
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