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「あれ、須藤さん?」


 精肉コーナーで商品を物色していた時に、背後から声をかけられた。


「森本さん……」

「嬉しい、来てくれたのね!」


 平日の午後三時。店内の客はまばらに散っていて、実にのんびりとした空気が流れている。


(そうか、そういえばここで働いてるんだった)


 お隣さんのことをすっかり忘れていた。彼女は白いシャツの上にスーパーのロゴが入った赤いエプロンを着ている。頭部もきっちりとお団子にまとめ上げて、普段着の彼女と比べてメリハリが出ていた。


「こんにちは。もうお仕事慣れました?」

「うん、だいぶんね。一ヶ月過ぎたあたりで、若葉マークも卒業よ」


 森本さんは笑って胸ポケットを指差した。そういえばパートを始めたと言って家に現れた時から彼女に遭遇しなかったな、ということをぼんやり思い出す。

 思えば夢を売り始めてから、こうやってじっくりと買い物をしたことも何回かしか記憶にない。


 思った以上に時間が過ぎていてありあわせのもので済ませたり、亮平の幼稚園の帰りに少し立ち寄って急いで買って帰ったり。

 前までは送料が勿体ないと敬遠していたスーパーの通販も、今はどんなに少ない品数でも躊躇うことなく利用するようになった。


 森本さんが働いているスーパーは、自宅から少し離れた場所にある。近所のスーパーよりも品数が多く商品が充実しているが、バスに乗らないと行けない距離だ。

 そのスーパーにしか無いものを買う時や、家族で出かけたついでに寄ることはあっても、普段の買い物程度で行ったりはしない。


 今日だって、別にいつもの最寄りスーパーで事足りたのだ。それでも智香がわざわざここに来たのは、単純に気分転換をしたかったからだった。

 あの幽霊から受けた衝撃は、思いのほか強かった。一旦家に帰りはしたものの、家の中に一人でいても落ち着かなかったのだ。


 智香の普段の行動範囲は限られている。

 幼稚園の行き返りと、夢の館。最寄りのスーパー、通い始めたエステくらいしかない。こんな時こそ気軽に遊びに行ける友人がいれば良かったのだが、生憎そんな友達はいなかった。


 さりとて見慣れた風景ばかりでは、智香が抱えた不快な感情を拭えそうにない――色々と勘案した結果、ここになってしまったのである。

 気さくな笑顔を浮かべる彼女としばし歓談する。他愛無い話は弾んだ。


「なんだか、ちょっと見ないうちに変わったね」

「え、何のこと?」


 会話の途中で森本さんは、唐突にそんなことを言い出した。

 うーんと唸っては、智香の顔をまじまじと見て、次に全身を隈なく見渡す。不愉快な視線ではなく、どちらかというと感心しているような目だ。


「お肌も髪も、すごく綺麗。何となく体も細くなったような気がするのよ。何かしてるの?」

「ありがとう。特に何もしてないんだけど」


 智香はにこやかに、嫌味にならないように答えた。

 嘘だ。本当は、週に最低二回はエステに通うようになった。特に美容に強い美容室に変えて、一番のトリートメントケアを行っている。

 下着も、靴も、スカートも何もかも、ブランドと質にこだわるようになった。いかに自分が美しくいられるか、若返ることが出来るかを重視するようになった。


 値段など見ない。なりたい自分になれるなら、迷わず選択することが出来るようになった。

 何もかも、夢売りのお陰だ。平凡な暮らしを一変させてくれたあのチラシには、本当に感謝しかない。


「それにほら、そのバッグ。オレンジクイーンのでしょ」


 森本さんは、智香が持っていたバッグに視線を落とした。

 オレンジクイーンはバッグや財布を扱うブランド店だ。都市部の百貨店内に店を構えている事が多く、新品なら型落ちしたバッグでも三十万円前後の価格帯である。


 智香と同年代の主婦にとってはそれを持っているだけである種のステータスの象徴となるのだが、そう易々と買えることの出来ない代物だった。

 もちろん今の智香はその倍の価格でも、躊躇うこと無く買えるだけの財力があるのだが。


「いいなあ。私も欲しくて、少しずつ貯めてるところなの」


 森本さんの笑顔は、一見いつも通りだった。しかし彼女の顔色が変わったことに、智香は敏感に気が付いていた。巧妙に隠していたが、その視線には智香に対する羨望が込められていたのだ。

 智香はふと、森本さんの顔を眺めた。


 彼女は確か、智香よりも一つ年下だ。きちんとした化粧の下に、シミがいくつか見える。ニキビのあとも、顎のあたりにもたるみがある。

 全て、智香もこの前まで持っていたものだ。もっとも、美容整形外科に行ってシミもニキビ跡も完璧に除去した。定期的に通っているフェイシャルエステで、すっきりとした小顔になった。


 少し前までの自分も、彼女と似たような見た目だったのだ。なんだか、前までの私みたい――そう思うと、急に彼女が、哀れに思えてきた。

 森本さんはとてもいい人だ。義姉の玲子とも同世代にあたるが、彼女に対して抱くような感情は、全くない。

 子供同士だって仲がいい。少しくらい、いつものお礼をしてもいいのかもしれない。


「これ、いる?」

「え? でもそれ、まだ買ったばかりでしょ」


 バッグを差し出すと、途端に森本さんの顔が曇った。


「うん。でも、次の新作が来月に出るみたいで。それも買うつもりだから、その後でよければ」


 笑顔を浮かべながら言うと、森本さんの顔が一瞬だけ引き攣った。今言ったことは本当で、次のバッグを買った後は処分するつもりだったのだ。

 まだ綺麗だし、使える。どうせなら森本さんのような親しい人に譲ったほうが、バッグだって喜ぶに違いない。本気で、良心から提案した。


「……ううん、いいや」


 彼女は自然に視線を逸らした。やけに固い表情に対し疑問を感じる暇もなく、森本さんは従業員入り口の方を向いた。


「そろそろ行かないと。裏で社員さんに呼ばれてたんだった」

「……? うん、そっか。頑張ってね」


 森本さんは最後に愛想笑いを浮かべると、ひらりと手を振って店の奥に姿を消した。その姿が見えなくなるまで小さく手を振った。


(森本さん、大変ねえ。このスーパー、時給幾らなんだろう)


 求人情報を見たことは無いが、せいぜい千円前後だろうか。フルタイムで働いても、今の智香の収入には足元も及ばない。それどころかこのスーパーの正社員だって、絶対に適わないに違いない。

 何せどんなに最低価格でも、たった二時間かそこらで最低十万円は稼いでしまうのだ。


(……今の私に適う人が、どれぐらいいるんだろう?)


 今や智香の収入に匹敵するのは、よほどの高給取りしかいないのではないだろうか。一部のエリートサラリーマンの他、企業の役員や社長、芸能人。目標であった五百万が貯まるまで、約一ヶ月しか、かからなかった。


 智香の中に凝り固まっていた不快な感情が、まるで洗われていくようだった。

 夫の顔が思い浮かぶ。兄が勤める会社の親会社に勤める、世間一般では高給取りの部類に入る夫の顔が。


 でも、その夫の稼ぎを、今や智香は上回ってしまった。

 智香ははっきりと、自分が以前の自分では無くなったことを自覚した。少なくとも一般人よりも、お隣の森本さんよりも、別の世界で生きている。


「さて、買い物の続き……」


 智香は本来の目的に戻った。今日の晩御飯はすき焼きにするつもりで、牛肉を見ていたのだ。

 ざっと肉質を見た後、目ぼしい商品を二パック買い物かごに入れる。パックの右上に、国産霜降り和牛の仰々しいシールが貼られていた。別に産地など気にしていないが、一番値段が高かったからそれにしただけだ。


 会計を済ませてレシートを受け取り、合計金額を眺める。きっと一晩分の買い物として二万円超えは高いのだろうが、今の智香にはそれがちっぽけな数字の羅列にしか見えなかった。


”五万円など、はした金に思えてきますでしょう”


 夢売りを始めた最初の頃、アダムが口にしていた言葉をふと思い出す。


(アダム、あなたが言ってたこと、本当だった)


 レシートを手の中でくしゃくしゃに丸めてバッグの中に放り込みながら、智香は家路についた。

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